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川柳閑話 vol.3:かづみ的川柳道#3 川柳大学時代(前編)

 川柳を始めたものの、どう続けていけばよいのか迷っていたある日、アパートのポストに「川柳大学」と印刷された封筒が届きました。今回はそこからのお話です。


1. 月刊「川柳大学」の誌友になる

「川柳大学」と印刷された封筒には、月刊「川柳大学」1997年2月号が入っていました。「おお!これが『川柳大学』か!」と興奮して表紙をめくると1枚の手紙が挟まっており、それは時実新子直筆の手紙(コピー)でした。
 
「いつもご投句ありがとうございます。これは川柳を始められたあなたへのプレゼントです。もしよろしければ仲間になっていただけると嬉しいです」
 
 こんなことってあるのか、と自分に舞い降りた幸運が怖くもありました。しかし、わたしに迷う理由は何もありません。その日は夜遅かったので、翌日には早々に申し込み手続きに走りました。月刊「川柳大学」の定期購読料(誌友)は年間1万5000円でした。
 
 月刊「川柳大学」の参加者は、「会員」と「誌友」に分かれます。会員は自選作品を発表したり様々な依頼原稿を書いたりと積極的に運営に関わり、誌友は基本選を受けるページにのみ投稿できます。
 わたしは時実新子が選をする雑詠ページ「桜の園」をはじめとして、初心者講座や誌上句会(誌友のみ投句可)など、出せる限りのページに投稿を始めます。

2.川柳大学のゼミ(定例勉強会)に参加する

 川柳大学では「ゼミ」と呼ばれる定例勉強会が各地で開催されていました。わたしはまず、身近である東京ゼミの門を叩きます。
 川柳大学のゼミは「全員出題全員選」が基本で、参加者は初心者もベテランも一様に題を出し、その題の選者となります。作句は、一題につき2句。選者をするのも初めてでしたが、時間制限のある題詠も初めてでした。参加者は10人程度だったかと思います。想像していたことではありましたが、全員わたしよりもかなり年上の方で、少しびくびくしたのを覚えています。
 最初のどなたかの披講で採ってもらえた句があり、初めて呼名したときは安堵したのを覚えています。特に嬉しかったのは、杉山昌善さんが出された題「名残り」で特選をいただいたことでした。
 
 宿敵撤退お名残り惜しゅうございます
 
 勉強会のあとは、居酒屋で懇親会がありました。話題はもちろん川柳のこと。右を向いても左を向いても川柳の話が出来るってなんと素晴らしいことか!と感動してビールをぐいぐい飲んでいました。
 
 こうして、わたしはすっかり「ゼミ」にハマり、東京ゼミには毎月参加するのはもちろん、高鶴礼子さんが世話人をされていた埼玉ゼミや、のちに杉山昌善さんが立ち上げた横浜ゼミなどにも顔を出し、毎週日曜日はゼミ漬けという期間を過ごします。

3.ついに時実新子と対面する

 その年(1997年)の川柳大学の夏の全国大会は、東京での開催が決まっていました。夏が近づくと、その準備のために東京ゼミで大会運営ついての打ち合わせが持たれました。普段はゼミには参加されていなかった倉富洋子さんなども出席され、わたしは「うわー、倉富洋子だー」とミーハー根性丸出しで座っていたものでした。
 
 その倉富洋子さんから言われたのは「賞品係をやってくださいね」でした。賞品係とは、特選をとった方へ選者が渡す記念品を、賞品置き場から取って選者に渡す役です。倉富洋子さんは「若くて綺麗な方にやっていただく係なのよ」とヨイショしてくださいましたが、わたしは「つまり、特選とりっこない若造がやる役ね」とひねくれて思ったのを覚えています。
 
 1997年8月2日。東京・市ヶ谷でいよいよ全国大会の開催です。
 スタッフは準備のために早めに会場入りするため、わたしも午前中の早い時間に会場に到着していました。
 しかし、賞品係というのは、披講が始まるまで何もすることがないのです。他の方は会場の設営をしたり、書籍販売をしたり、忙しく動いています。初めての大会で、勝手がわからないわたしは何をお手伝いしていいのかもわからず、ひたすらロビーで煙草を吸っていました。

 何本目かの煙草に火をつけた時、ふいっと同じ灰皿に小柄な老婦人が近寄ってきました。名前知ってる人かな?と思い、首から下げられた名札に目を走らせると、そこには…
 
時実新子>
 
と書かれているではないですか。
 わたしは火をつけたばかりの煙草を灰皿に叩き捨てて、慌てて背筋を伸ばしました。
「あの…わたし、本日賞品係を務めさせていただきます。トクミチカズミと申しますっ」と最敬礼すると、新子先生から発せられたのは次のような言葉でした。
 
「ああ、世田谷区にお住いの…」
 
 わたしのことを認識していただいている!という驚きに身体が震えました。そして、新子先生は更に信じられないことを仰ったのです。
 
「あなた、天才的に上手いわね」
 
 その後、前は短歌をやっていたとかなんとかお話したのですが、詳細はもうすっとんでいます。新子先生のその一言で、脳も心臓も完全にバグって舞い上がっていました。
 新子先生は、煙草を吸い終わると、呼びに来た方がいたこともあり、その場から立ち去られました。わたしはただふわふわと立ち尽くすのみでした。

4.月刊「川柳大学」の会員になる

 全国大会の翌日、時実新子の川柳教室が開かれることになっていました。雑誌や新聞の時実新子の川柳欄に投句している方に招待状が送られており、川柳大学の誌友を増やそうとする試みだったようです。
 東京スタッフとしてお手伝いをするように言われていたわたしは、今度は来場者の誘導や受付などで、昨日よりはマシな働きをしていたと思います。
 
 教室は無事終わり、新子先生は手伝いのスタッフをねぎらうために高級中華料理店で打ち上げ会を開いてくださいました。東京スタッフは遠慮がちな方が多く、新子先生と同じテーブルにつくのを躊躇っていたのですが、わたしは堂々と新子先生の隣の席に陣取りました。昨日の衝撃も冷めやらぬまま、もう頭がぶっとんでいたのだと思います。お酒をガンガンいただきながら、時実新子を相手に「いかに川柳は素晴らしいか」を延々と話し続けたのです。
 新子先生はニコニコと聞いてくださり、やがてこう仰いました。
 
「あなた、会員になる?」
 
 わたしは何を言われたのか理解出来ず「え?」と戸惑っていると、対面の席に座っていた杉山昌善さんが「はい、なります!」とふざけて先に答えてくれていました。場がドッと沸いたことで、わたしはハッと我に返り「ならせていただきます」と返事しました。
 新子先生は「会費は高くなるけど大丈夫?」と細やかに気遣ってくださり、「事務の方にはわたしから言っておくから、連絡が来ると思うからよろしくね」と微笑まれました。え?これで会員になったの…?と、頭がバグって、この打ち上げ会のその後も記憶にありません。

 信じられないことが立て続けに起きたことで、「本当に欲しいものは心の底から求めれば手に入るのだ」と学習をした気がします。この世とは「求めよ、さらば与えられん」なのだと。

 1997年10月号より正式に会員となり、その時の高揚感がその号のおたよりコーナーに残っています。

月刊「川柳大学」1997年10月号「掲示板」より

【つづく】

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