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【都市伝説】島原の乱で幕府が総攻撃しかけた理由を都市伝説的に考察してみた

ここ最近おどろおどろしいnoteしか書いてなかったので、ロマン系の都市伝説をゆるっとまとめてみました。

お菓子食べながら軽い気持ちで読んで頂くと嬉しいです。

島原の乱とは、飢えや重税、キリスト教の弾圧に耐えかねた有馬や天草の平民が幕府側に起こした歴史的な一揆として有名ですよね。  

その一揆を指揮したと伝えられているのが、天草四郎です。

彼は16歳の少年で、十字架を掲げて戦闘を指揮したと言われています。

天草四郎が使ったとされる旗印

この一揆ですが、幕府側はオランダ国との連合軍で挑み、いっぽうの天草四郎側は農民、平民、キリスト教徒で迎え討ちます。

その武力の差は凄まじく、37,000人の一揆軍に対して幕府+オランダ軍は125,800人の兵力で襲い掛かり、結果、天草四郎側は全滅しました。

そもそも、なぜ幕府側はこれほどまでに大群で制圧をする必要があったのでしょうか。
都市伝説的に考察してみました。

豊臣秀吉の子孫説


幕府側がなぜ大群で島原の農民たちを制圧したか。

それは天草四郎が豊臣秀吉の末裔だったからという都市伝説があります。 

その理由として天草四郎の馬印(うまじるし)が豊臣のものと同じ瓢箪を使っており、さらに本当の名前は豊臣秀綱という名前だと言われています。

その為、徳川幕府は豊臣の血を根絶やしにする為に総攻撃を仕掛け、天草四郎を抹殺した。
つまり、総攻撃の理由は天草四郎であり豊臣の血を根絶やしにすることだった。

馬印(うまじるし)は、戦国時代の戦場において、武将が己の所在を明示するため馬側や本陣で長柄の先に付けた印

Wikipedia

キリスタン大名とスペインの人身売買説

もう一つの説について。

天草四郎が島原の乱で立て篭もったのは原城(はらじょう)ですが、この城はもともとキリスタン大名の有馬 貴純(ありま たかずみ)が本城である日野江城の支城(本城を守るように配置された補助的役割を持つ城)として、建てました。

しかし、この原城は本城よりもはるかに大きく、なんと江戸城と同じほどの大きさだったと言われてます。

なぜ地方の大名がこんなに大きな城を建てれたか。

それは九州のキリシタン大名はスペインと交易をしており、その貿易商品が日本人の奴隷であったという説があります。

その見返りとしてもらった大量の金で原城を建てた有馬はかなりの財力があったのと、九州をスペインの植民地にして江戸転覆をスペインが企てていたと言われています。

それを恐れた幕府はオランダと同盟を組み、鎖国と命じてオランダ以外のキリスト教国との関係を禁止にしたと言われてます。

鎖国(さこく)とは、江戸幕府が、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策

Wikipedia

実際に、島原の乱は幕府側であったオランダ艦隊の砲撃をくらい、天草四郎らは致命的なダメージを負ったと言われてます。

幕府の狙いは実は島原の一揆を治めることではなく、スペインと九州の大名たちの繋がりを断つことが目的だった。

天草埋蔵金説

もう少し、都市伝説らしい説で考察してみます。

実は、天草四郎は戦の軍資金と原城にあった財宝をどこかに隠したと言われています。

その財宝とは重さ6キロ近い黄金の十字架をはじめ、金銀製の燭台(しょくだい)20基、宝石をちりばめた王冠などで、時価総額は数十億円程度したおではないかと言われています。

この財宝を有名にしたのが、天草四郎の暗号です。

1935年、老岳(現在の天草市有明町)の麓で、長さ5センチの十字架が見つかりました。
そこには「さんしゃる二、こんたろす五、くさぐさのでうすのたからしづめしづむる」という謎の言葉が記されていたそうです。

天草四郎ミュージアムにあった暗号十字架のレプリカ


この暗号は天草四郎が隠した財宝のありかを示す暗号ではないかと言われています。

そして、徳川幕府の島原総攻撃の狙いはこの財宝だったのでは?と都市伝説で語られています。

この言葉は天草に残るキリシタンの祈り言葉の一部であり「サンシヤル」とは「聖なる物」という意味だそうです。

「こんたろす」はロザリオを意味するポルトガル語「コンタルス」で、
「さんしやる二 こんたろす五」とは「聖遺物が2個、ロザリオが5個」という意味ではないかと言われています。

続く「くさぐさのでうすのたからしずめしずむる」は「種々(くさぐさ)のデウスの聖遺物やロザリオをここに沈め、鎮めた」と解読されていますが、
今だ天草四郎の隠し財宝は発見されていません。

天草四郎の財宝はすでに歴史的超有名人の手によって隠された?


今だ発見されていない天草四郎の財宝。
その行方をある人物が知っているのではないかと言われています。

島原の乱が起きる前からすでに原城へ幕府側が伊賀忍者を使い諜報行為をしていたと言われています。

その際、伊賀忍者が天草四郎の財宝をとある場所に運んだという都市伝説があります。

そして、その伊賀忍者の指揮を取っていたのが、あの宮本武蔵だったと言われています。


実は宮本武蔵は島原の乱で幕府側の現場指揮を行っていたのですが、急遽怪我をして参加を辞退しています。

しかし、武蔵は島原の乱が終わった直後に熊本にいき、その生涯を熊本で終えました。 

そして、宮元武蔵は伊賀忍者らと財宝を五輪書を書いたと言われている金峰山に隠したとされ、五輪書にはそのありかを示す暗号が書かれているのではないかという言われています。

と、ここまで島原の乱を都市伝説的に考察してみました。

個人的には、最後の財宝が狙い説をロマン主義としては推したいですね。

天草四郎は都市伝説的に沢山の説があり歴史的に見ても謎多き人物で、とっても魅力的ですね。
他にも様々な説があるのでまた追って書きたいと思います。


最後まで読んで頂きありがとうございます!!

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