やりたいことがわからない

けんすう氏のnoteを読んで思ったこと。

そのとおり、なんでも「やってみればいい」んですよね。ちょっとでも気になること、少しでも興味があること、ふと思ったこと、気がついたこと、なんでもやってみればいい。行動に移せば、たぶん何かが見えてくる。

って言えるのは、そもそもできる人で。

なんでもやってみたらいい、と言われて、思いつくことがちらほら出てくる人って、行動できる人なの。でも、出てこない人の方が多いんじゃないかと思う。

ていうのも、何人かの出てこない人と話す機会があって、そういう人の存在に気がついた。やりたいことがある人って、そんなに多くない。

参照されてるこちらに出てくる「プロスペクト理論」。超リスク回避型の生き方が生まれたときから染みついちゃっていると、そもそも何かを始める、一歩踏み出す、誰かの決めたレールから外れる、そんなことが想像もつかなくなっちゃってるんじゃないか。

親の言うとおりに生きる、親が気に入るように行動する、親の言うことに逆らわない、親が喜ばない行動は慎む、親が、親が・・・。こう生きるべきと言われて、30代、40代の生き方(上記事参照)をたたき込まれて、そういうふうに大きくなってしまった子供に、どんな選択肢が思い浮かぶんだろう。彼ら/彼女らのアタマの中では、なにかやろうとしたとき常に「親の顔」が思い浮かんで、この行動を親が見たらどう思うだろうか、不快にならないだろうか、間違っていると言われないだろうか。その瞬間に選択肢は消え失せて、結局やりたいことなど何にも思い浮かばないんじゃないか。

あまりにもリスクを取り過ぎれば、次の瞬間生きていられるかどうかもわからないけれど、あまりにもリスクを回避しすぎても今度はやりたいことが見つけられない。本当は、その間のちょうどいいところでバランスを取らなくちゃいけないんだけれど、そりゃぁ子供には難しいよね。

例えば、学校は行った方がいいと思う。勉強もできるし、同世代の他の子供らとのコミュニケーションを通じて得るものはたくさんある。それは正論だけれど、本当に行きたくないなら行かなくていい。じゃあ他に何をする?って、何かしなければならないの?本当に何もしたくないならば、何もしなくてもいいんじゃないか。勉強ができないといい仕事に就けない、いい仕事に就けないといいお金がもらえない、いいお金がもらえないと、幸せになれない。それ本当?勉強はしなくてもいい代わりに、なにか努力しなさい、努力しなければ一人前になれない、一人前になれなければ食っていけない、食っていけなければ幸せになれない、それ本当?

こないだ、「万引き家族」を観たんだけれども。あの瞬間は絶対に幸せだったよね。そして、その異端の幸せを、世間は嗤うことができるんだろうか。これだけ多様性溢れる世の中になって、他人の幸せなど推し量れるはずがないんじゃないか。

自分は、親の顔色など見ないで生きてきたけど、いろんな人と話をするとそれはあまり普通じゃないみたい。親の気に入るような自分でいることが、大人になっても、中年になってもなお亡霊のようにのしかかってきている人のなんと多いことよ。てことは、そういう親たちに育てられた子供らも大体同じように育てられてきているわけで、そんな子らに「やりたいことをやろう」って言っても、なんにも出てこないんじゃないのかな。

答えはないんだけど。

親はどうしたらいいんかな。

放っておくのが一番いい。けど、それが一番難しい。目の前で落とし穴に落ちそうになっている子を、そのまま見過ごすべきか。落ちたら痛い、落ちたら何年も戻ってこられない、もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない、そんなときに、どこまでそれを「経験」と思って放っておけるか。早く手を出しすぎれば彼らの自由を奪ってしまう。遅すぎれば死んでしまう。

それ以上踏み込んだら死ぬよ、って時には手を差し伸べたい。でも、それ以上踏み込んだら「不幸になるよ」ってとき、どうする?その不幸は、本当にその子にとっての不幸なの?学校に行かないで一日中動画見てる、そこに手を差し伸べるかどうか。なんて言う?学校に行きなさい?なにか別のことしなさい?何もしないで居ることは罪悪?不幸になる?本当に?自分の経験上は高確率で不幸になりそうだけれど、その経験値が未来永劫正しい理由はどこにもない。

ていうか、死なないから。どんなことしてたって、そう簡単には死なないし、逆に何をしてても死ぬときは死ぬ。すべては運。あれ?「運が悪い」は、なんだっけかな・・・あ、最澄さんだ。最近、「阿・吽」を一気読みしたんだった。めっちゃ面白かったし、なんなら最澄さんちょっと好きになった。一番大事なことって、最澄さんのように運をそのまま受け入れることなんじゃないかと思う。自分ではどうしようもないことには逆らわないこと。過去に逆らわないこと。親鸞さんもたぶんそう言ってた。あぁ、そうね、みんな過去にとらわれすぎているの。親にどう言われた、親がどう思っていた、だから自分はこうなった、こんなに勉強したのに、こんなに努力したのに、こんないい学校に入ったのに、こんな地位に就いたのに、こんなに給料がいいのに・・・すべて過去。過去にとらわれすぎるから、未来を想像できなくなる。そんな状況で「やりたいこと」なんて見えるわけがない。そんな過去なんて、今すぐ捨てればいいのに、って思うんだけれど、だいたいみんな「捨てられない」って言う。なんでだろう。そんなに辛ければ捨てればいいのに。荷物持ちすぎ。なんで捨てられないのかな。辛いのに、苦しいのに、捨てればいいのに、って言うと、捨てられないって言う。世の中、あなたみたいに捨てられる人ばかりじゃないのよ、なんて言われる。こっちだって簡単に捨ててきたわけじゃないし、それは捨てる勇気がないだけじゃないか!って、口が裂けても言わないけれど。

逆に言うと、捨てるチャンスが巡ってきた人はめちゃめちゃラッキーじゃん?捨てる経験をしておけば、次にまた捨てられる。捨てたときのダメージがどのくらいか見当がつく。実はそんなにたいしたことない。捨てたことのない人が想像しているほど大きいことじゃない。ダメージは確かにあるけれど、乗り越えられない大きさじゃない。だから、過去は何度でも捨てられる。少なくとも、最終手段として「過去を捨てる」っていうコマンドがあることは、どれだけその人にとって勇気になるか。確か、余命宣告された写真家さんも言ってた、「安楽死できること」が、どれほど「生きる勇気」になるかって。それと同じ。捨てる選択肢があることが、勇気になる。

だから、過去を捨てよう。まず手始めに、親を捨てよう。親の思うままに生きるのをやめよう。そしたら、たぶん未来が見えてくる。

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