いじめ、パワハラの自衛策と自尊心

たまたま縁あってあるパワハラ自殺の記事を読んでいて、いままでなんとなく考えていたことをメモしておく。

過労×パワハラ=自死。過労もパワハラもそれだけでは自死の原因にはなりにくくて、両方がかけ合わさると急激に確率が高まるように感じる。

過労だけでは死なない。体を壊した結果死に至ることはあっても、過労だけで自死を選ぶことは少ない。好きでずっと働いている人もたくさんいるし、仕事じゃないことにずっと没頭している人もいる。もちろん個人差があるので、寝ないといけない人は寝ないといけないけど、寝ずに働ける&働きたい人にまで一律に労働時間制限を設けるのは、逆に意味でその人の未来を奪っていることになると思う。

一方で、いじめパワハラ含むハラスメントだけでも死なない。ハラスメントは相手が自分の自尊心=存在意義を攻撃してくる行為。正常な判断力があれば、ハラスメントは一義的にその行為者の問題であって、それを受けている自分にはなんの問題もないことが理解できるし、もしくは理解できなくても、第三者や専門家、カウンセラーなどに意見を聞いたりして、それがハラスメントだと言うことが理解できる。理解できさえすれば、行為者を追い落とすか、自分から離れればいい。相互理解できるとは思わない方がいい。他人は絶対に変われないし、他人が変わることを期待するのは時間の無駄。

ハラスメント×過労がやばい。ハラスメントで自尊心を傷つけられた上で、過労によって正常な判断力を奪われた状態が最も絶望の確率が高まる。

ちなみに、子供の場合は過労がなくてもハラスメントだけで危ない。それは、そもそも子供は正常な判断力が成長過程だから。未来への選択肢が実は多種多様であることが見えていないから、一つの道が失われただけで簡単に未来に絶望する。同様に、大人であっても、多様性を経験する機会がなかった人はその危険性が高い。親の引いたレールの上でずっと前を向いて走ってきた人が弱い傾向があるのはそのためで、他の選択肢が見えていないから、絶望しやすい。だからといって、それがハラスメント行為者を許容する理由には絶対にならない。

正常な判断力は、時間で作られる。自分の置かれた状況を分析し、将来の可能性を考え、また、たくさんの選択肢を想像し、多様な生き方を検討することは、自分自身で考えたり、誰かに相談したりする時間がないとできない。過労はそういう時間を潰すので、正常な判断力を奪ってしまう。多様な選択肢が見えず、自分の生きる道、生きている意味、自尊心が見えなくなってしまうから、絶望する。

自衛のためにどうすべきか。ハラスメントに対する自衛の話は、ともするとそれは受ける側の非を唱えるように見えてしまうけれど、そうではなくて、悪はハラスメント行為者であることを踏まえた上で、しかし、そういう人を世の中から一掃することなど不可能であるので、自衛することも考えておきましょうという意味で。例えば、暴漢から身を守るために護身術を学ぶとか、危険なところには行かないとか、そういう意味で。暴漢に襲われて死ぬのは全く暴漢の悪であるのは揺るがないけれども、そういう人が居ることが事実で、消せないので、じゃあある程度は自衛しましょうってだけ。

で、自衛。やはり、子供の頃から、もしくは、今からでも遅くはない、多様な生き方を見ることだと思う。世の中には多様な生き様があって、どんな風にでも生きている人がいて、それぞれの中に幸せがあって、楽しいことも、辛いことも、可笑しいことも、悲しいこともあるって知ること。親のような生き方しか知らない子にしないこと。親の価値観の中にしかいない子にしないこと。

そして、すべてを捨てられるってことを知ること。自分にのしかかっている様々な責任、様々な期待、様々なプライド、それらは全て捨てられるってことを知っておくこと。世間(特に親)から期待されている自分を持っている人は、その期待が重い足枷になっていることがままある。期待を裏切りそうになったとき、期待を裏切らざるを得ない自分に絶望することがある。

過度の期待は子を絶望に追いこむことを知ること。期待は奮起させる薬でもあるし、絶望に追い込む毒にもなる。子は自分のコピーではない。期待して、期待通りの子に育つことはそれは嬉しいだろうし、子も親が期待する自分になれば親に喜んでもらえるから嬉しい。しかし、それは同時にその子の選択肢を奪っているし、その子が自分で自分の未来を考える機会を奪っていることを知ること。でも、期待は自尊心に繋がるし、生きるエネルギーにもなるから、効能と副作用を知った上で期待しよう。

これは、親子だけではなくて、深い関係性があれば何処にでもわいて出る。夫婦の間でも、仕事の上司と部下でも、師匠と弟子でも。でも、未来の可能性を裁つほど重要な関係性って、何処にもない。過去は自分の大切な足場になり得るけれど、足下を見て、その足場が自分の足に絡みついて飛べなくなっていたら、そんな過去は捨ててしまえばいい。生きてさえいれば、そこに必ず可能性がある。過去はすべて捨てられる。

ありがたいことに、21世紀は多様性の時代になった。どんな生き方をしていても死ぬことはない。何でも自分で選択できる。村社会や世間体にがんじがらめにされていた昭和、その価値観ががらがらと崩れているのに、それに気がつかずにしがみついている旧人と、その価値観を否定してバッシングを受ける新人とが入り交じって混沌としていた過渡期の平成。令和は多様性の時代、旧来の価値観も、新しい価値観も、すべて入り交じって共存していく(共栄はしないと思う)時代になると思うので、つまり好き勝手に生きましょうよ。

せっかくそんな時代なのに、死ぬなんて超もったいないよ。


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