31.「知覚」の変化の兆し(か?)

やはり何かがおかしい。
ここ昨今,自身の「何となくな変化」を感じてはいたものの,「成長していて欲しい」という我欲からの「気のせい,思い込み」ということも往々にあるものであり,自分に対して健全な疑念を向けている部分もあった。

ところが,本日たまたまテレビでNHKの「日曜美術館」という番組に目が留まった。画像から飛び込んできたゴッホの絵画を見て,何か「ぐっと感じる」ものが多々あったのだ。この番組は全く見るつもりはなかった。

これまで,絵など(といったら好きな方に怒られるが)殆ど興味がなかったのだ。

印象派の絵や抽象画などはもっとも苦手で正確に写真のように書いてある絵であればまだましといった救いようのないセンスの無さだ。

またその絵を語る評論家が相手に解説する際の言葉の受け止め方も変化していた。(【ゲスト】美術史家…木下長宏,小野正嗣,柴田祐規子)

きっとこの方はこう語っているけれどもっとイメージとしては大きく深く言葉だけですべて表せない「情報のイメージ」が心に見えていて,その一端を少しでも伝えようと言葉を紡いでいるんだなという感覚だ。

そう感じると,「言葉とはなんて貧弱なものなんだろう」と感じた。言葉がその美術史家の言葉が,ステレオで聞こえるような,立体的なイメージだ。

恐らく,以前だったら発せられる言葉そのものと論理だけを聞き,「何を言いたいのか意味が理解できない」という反応だったように思う。点と線でつなぐような角張った捉え方だ。

遠い昔,そのような世界で生きることを決断したんだろう。

かように,自身が何かを知覚して処理する,一連の「知覚の質」が変化しているようだ。

関連資料:安宅和人(2017)『知性の核心は知覚にある』DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー論文 情報処理のバリューチェーンと知覚の広がり

よって。このような「ぐっとくる」感じというアウトプットが生じたのだろう。

感覚的な表現だが,これまで二次元の世界で生きていたのかもしれない。いや,きっと,遠い昔本当はもっと豊かで立体的な世界に生きていたのだが,そこに少し「戻った」,或いは「戻ってもいいと思えた」のかもしれない。

ゴッホについて良く調べてみよう。


勝手なつぶやきにお付き合い頂き大変有難うございます。不定期ですが、感じるコトバを紡いでまいります。