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【ネトウヨのきもちVOL1】リベラルという言葉の意味を整理してみた

皆さまこんにちは。ネトウヨと申します。
ネトウヨというのは政治的なスタンスを意味するんだから「ネトウヨと申します」はおかしいだろ!とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、僕は名前も政治的なスタンスもネトウヨなのです。どうぞお見知りおきをお願いいたします。
この度、ネトウヨが日頃どんな生活を送り何を考えて生きているのかを、気ままに綴ってみようと思い立ちました。

それでは早速はじめてみようと思います。
まず僕がどういった種類のネトウヨなのか、この多様化の時代ネトウヨと言っても千差万別ですから、そこから説明しなければなりません。

僕はどういう種類のネトウヨなのか?


ネトウヨと言うと、朝鮮学校の前で在日特権は許さないぞと叫んでる人たちとか、嫌いな人間を手当たり次第に在日韓国人だと決めつけていく人たちとか、辛ラーメンが売れ残ってるぞ〜と画像をあげてはしゃいでたりとか、そういう人々を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし僕はそういう人たちのことが、突然に宙を舞うゴキブリより嫌いです。人を差別する最低なやつとは断じて同類ではありません。
ではどの部分がネトウヨなのか。僕の考えの一部を思いつくままに箇条書きにしてみます。

・国防費は増額すべき
・憲法改正を議論すべき
・日米同盟を堅持すべき
・再生可能エネルギー推進策を見直すべき
・原発を再稼働すべき
・福島第一原発の処理水を海洋放出すべき
・同性婚ではなく婚姻とは別のパートナーシップ制度を検討すべき
・安倍晋三元首相は外交において大きな功績を残したと思う
・菅義偉元首相は内政において大きな功績を残したと思う
・岸田現首相は原発や国防といった政治的に困難な課題を前へ進めていると思う
・永田町の現状は自民党一強ではなく、自民以外弱すぎ、だと思う
・日本共産党が大嫌い
・立憲民主党は無能な人が悪目立ちしすぎだと思っている
・安倍晋三回顧録を読んで中身は事実かと国会で質問しているような議員は給料泥棒であり時間泥棒であると思う
・トランプ大統領誕生の時の日本の首相が鳩山由紀夫氏でなくて、本当に良かったと思っている
・当たり前の話だけど表現の自由は人権だと思う

これらは一部ですがさすがにこれだけ揃えばネトウヨと呼ばれても良いですよね?
なんでこんなにもネトウヨな僕がネトウヨのくせに生意気にも思いを綴ってみようかと思ったかというと、最近のリベラルの皆さんの言動に違和感を感じることが多いからなのです。もっとも昨今はリベラルという言葉の使われ方も散らかっていますし、そもそも日本では共産主義者がリベラル扱いされているという、アメリカだったらどこの町でもスタンダップコメディでネタにしたら大爆笑取れるんじゃないかと思われるほどのカオスな現状ですから、まずはリベラルという言葉の意味を整理していかなければなりません。そのためにまず、本来のリベラルの意味を確認しておきます。

本来のリベラルとは?

リベラルとは自由主義者の意味ですが、人々が精神的にも肉体的にも経済的にも自由に生きられるようになったのは、長い歴史に位置付けると実はごく最近のことのようです。
洋の東西を問わず、庶民は封建領主や絶対主義の王様の下で、土地に縛り付けられやりたくもない仕事をやらされ言いたいことも言えない、いわば全体のため、公共のために奉仕すべき存在として扱われてきたわけです。
もっとも学校で習うような歴史だとこの時代を庶民が虐げられた暗黒面をやたら強調されるわけですが、日本の場合は古典落語なんか聴いてると割に気軽にお侍さんをイジったりしてるし、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんなんか江戸から徒歩でお伊勢参りに出かけるという現代人なら誰もが垂涎の超贅沢旅に出たりしてるわけで、庶民にもそこそこ自由があってゴキゲンに生きてたんじゃないの?ちょっと話盛ってんじゃないの?って推測も成り立つ気がしますがその話は今は関係ありません。
個人が全体のため、あるいは公共のために奉仕する存在であった時代から1つ1つ個人を解放してきたのが人権の歴史です。人権とは全体よりも個人の自由を重んじることである、と考えるのが自由主義者、つまりリベラルの本来の姿です。これは日本国憲法の考え方の基本でもあります。日本国憲法はなぜか9条ばかりクローズアップされますがその考え方の中核は10条から40条の人権編にあります。憲法とは全体の利益を志向しがちな民主主義から個人の尊厳を守るためにあります。そこが最高法規と言われる所以です。

本来のリベラルは表現の自由の規制に慎重

個人が全体よりも尊重されるべき、というリベラルの基本原則をもう一段階だけ掘り下げると、自由権を精神的な自由と経済的な自由に分類することになります。確かに人は全体に対して自由だけど、その自由が他の人の自由や公共を害する場合何が優先されるべきか。
そういう厄介な問題が起きたとき、違憲か合憲か審査する立場の裁判所は二重の基準論といって、経済的自由権は公共のために柔軟に規制してもいいけど、表現の自由などの精神的自由権は滅多な事情がない限り規制しちゃダメ、っていう立場をとります。例えば銭湯の入浴料金はいまだに地域によって最低価格が行政によって強制されますが、これは激安を売りに集客したいと思う野心的な銭湯経営者にとってみれば自由権の侵害でしょう。しかし銭湯業界が無闇なコストカット競争を始めて清掃コストを省きだすと公衆衛生上の問題が生じるので「激安銭湯を作って大儲けしたいんだ!」という野心的な経営者の個人の自由はここでは冷静に「ダメだよ」と言われちゃいます。公共のために個人の自由が制限されるわけですがここではあまり違憲性の問題にはなりません。
対して精神的自由権は原則として規制してはいけないという考え方になります。その自由によりたとえ公共に対して悪い影響を与える場合であっても、その制限は極めて慎重に行うべし、というのが二重の基準論です。
例えば日本を含め自由社会では、例えその表現物がエロ本であっても基本的に規制してはいけません。もちろんエロ本みたいな退廃的な表現は人々に悪い影響を与えるのだから規制すべきだという世論は今も昔も根強くありますし極めて慎重な形ではありますが規制はされています。かつては保守的な考え方の人がそういった主張をする傾向にありました。例えば石原慎太郎氏はガチで東京都にエロ漫画規制を導入しようとしていた人でした。そして今はその役割を奇妙なことにリベラルを自称するフェミニストの方々が率先して担っています。
表現物はしばしば人に悪い影響を与えます。例えば三島由紀夫の金閣寺に影響されて放火する青年とか、大江健三郎の性的人間を読んで痴漢する青年とか、マルクス・エンゲルスの共産党宣言を読んで無差別殺戮する青年とか。例を挙げれば枚挙にいとまがありません。しかしそれでも、その表現物を規制してはならないと考えるのがリベラルです。

最近の自称リベラルは表現の自由を気軽に規制しようとする

その点最近のリベラルは表現の自由を気軽に規制しようとします。例えばヘイトスピーチ規制立法の推進のような動きもそうですし、最近ではLGBT差別禁止法を作れ、なんて動きもあります。前述したように僕は差別主義者のことが突然に宙を舞うゴキブリよりも嫌いなのでついうっかり賛成しそうになるのですが、差別禁止法というのは実はナンセンスですし権力者に恣意的に利用されるリスクが極めて高い危険な考え方です。
まず差別とは何か?を定義することが事実上不可能です。例えば自民党の杉田水脈議員はかつて、LGBTの方々には生産性がない、という発言をして大炎上しました。杉田議員は過去に民族差別発言もしていますので差別主義的思想の持ち主だという印象を僕は持っていますしぶっちゃけ僕は大嫌いです。差別禁止法は恐らくこの杉田水脈議員の発言のようなものを規制しようと試みる法案になるのでしょう。
ただ僕は杉田水脈さんのことは大嫌いだけど上述の生産性発言が差別だとはどうしても思えないですし、かの発言を差別だとして規制する法律は民主主義の大前提である自由言論を根っこからぶっ壊してしまう危険性を孕むと思います。
確かに上述の杉田水脈議員の発言は言葉の選び方はヘタクソだなあとは思いますが、その趣旨としては所得再分配政策において子育て家庭に傾斜配分すべきだって趣旨は分かるし、それすら差別だとなると子ども手当てをはじめ全ての少子化対策予算は非子育て世帯に対して子育て世帯を優遇する差別主義政策だ、という主張も成り立ってしまいます。差別禁止法というのは人権を守るという耳心地の良い響きを持っていますが、そこにはある言論を簡単に差別扱いしてこの世からキャンセルしてしまう恐ろしい作用を持つ可能性が高いのです。
この危険性は自分と敵対する意見に対して発動される場合はその危険性に気付きにくいですが、自分と親和的な意見の持ち主にその刃が向いた時、初めて気がつくことが多いのではないかと思われます。例えば立憲民主党の菅直人最高顧問も過去に杉田水脈議員の発言とまったく同趣旨の発言をしています。

「実は愛知も、私の住む東京も『生産性』が1位2位を争うぐらい低いんですよね。何の生産性が低いか。それは、『子どもを産むという生産性が最も低い』んですよね。みなさん」
『愛知県知事選応援演説(2007年)』より

またフェミニストの代表的な論客である上野千鶴子氏も過去に同様の発言を何度も繰り返しています。

種は、繁殖のためには異質なものとの交配によるほかないという逆説を、人類に押し付けた。だから同性どうしのカップルを、法律は決して夫婦と認めないし、因循な法同様私じしんも、ホモセクシャルは多様で自然な愛のかたちにすぎないという、ものわかりのよさそうな意見に与しない。なぜならホモセクシャルは、繁殖に結びつかないばかりでなく、異質なものとの交配という種が強いた自然を、心理的に裏切ろうとする試みだからである
『女という快楽(2006年)』 より

これらの言動が権力者から差別的であるとして規制される世の中が本当に望ましいと思いますか?リベラルを自認する人にこそぜひ考えてみてもらいたいと思います。
なお上野千鶴子先生の名誉のために言いますが、先生は上記の考え方を間違いだったと認め近年修正しておられます。上野千鶴子先生レベルの大知識人でも考え方を変えたりするのが人間という知的な生き物です。差別禁止法のような法律はそのような人間の知の成長の営みを根っこからぶった切る危険性をも持つのです。
差別を許さない、と考えるならば差別を徹底的に批判しよう、と考えるのが本来のリベラルです。差別をなくすために権力の作用を使おう、なんて発想は全体に対して個人を最大限に尊重しようという本来のリベラルにはないはずなのです。

本来のリベラルは議論を好むが、最近の自称リベラルは論破を好む

本来のリベラルは基本的に普遍的な正義の存在を認めません。もちろん人を殺してはいけませんとか、物を盗んではいけませんとか、モーゼの十戒レベルの最低限の倫理は普遍的な正義と呼んでもいいかもしれませんが、基本的には正義とは相対的なものだと考えるのが本来のリベラルです。自由な議論、自由な思想の交換のなかで高みの善を目指した結果暫定的に生まれる善が正義という状態であって、あらかじめ決まった正義など本来はありません。
なので本来のリベラルは「議論」というプロセスを重視します。思想の自由な交換、自由な批判により高みの善が形成される、と考えるのが本来のリベラルです。SNS全盛の時代においては勘違いされがちですが、議論とはAとBとの対立によりCという高みを生み出すプロセスです。本来AがBをコテンパンにやっつける戦いではありません。論破なんかしてもそんなものはただの自己満足、単なる公開オナニーであってそんなものは文字通り独りよがりでしかないわけです。
その点、最近の自称リベラルは議論によって相手を論破してやろうとする風潮があまりにも強すぎます。そのような姿勢というものは正しさなるものが固定化してしまっている時点で単なる独善主義にすぎないのです。もちろんこの風潮はリベラルだけに限った話ではありませんが、本来のリベラルならば真っ先にその風潮を批判すべきです。

本来のリベラルは異なる意見を尊重するが、最近の自称リベラルは異なる意見をキャンセルする

最近、同性婚の議論を巡って話題になったのが以下のツイートです。

憲法学者の石埼学先生のこのツイートが「差別」だという扱いをされリベラル側からのキャンセルの対象になりました。僕にはこのツイートが、国家はその役目として公費という有限のリソースを子育て世帯に優先配分すべき、という意味にしか読めないのですが、なぜだかこのツイートに対して「差別だ」という批判が殺到しました。もちろん批判はいくらでも行われて良いと思うのですがあろうことか石埼先生がお勤めになられている大学に抗議の電話が殺到したのです。
批判すること、と大学に電話すること、は明らかに違います。大学に電話するという行為は攻撃対象の周辺の人々に負担をかけて結果発言者の社会的地位を危うくさせ口を封じようという行為です。議論によって善の高みを目指そうという誇り高き本来のリベラルの価値観からすれば、知的に退廃した最低の行為です。
このように目的が自分たちの価値観において正義であれば手段は無法であってもあんまり気にしない、というのが最近の自称リベラルなのです。

本来のリベラルは手続の正義を重んじるが、最近の自称リベラルは結果の正義を重んじる

普遍的な正義の存在を認めない本来のリベラルは手続の正義を重視します。例えばその代表例が民主主義です。普遍的な正義は存在しないから、表現の自由など精神的自由権が担保されたなかで多数決という手続により決定したものは正義と認め尊重する。ただし少数意見が蔑ろにされてはならない、と考えるのが本来のリベラルです。もちろん尊重する、というのは批判してはならない、という意味ではありません。
なので本来のリベラルは例えば選挙、というプロセスが適正に進められることを何よりも大事にするはずなのです。ところが最近の選挙演説の現場は、このような有様です。

ちなみに薬きょうを投げた女性は不起訴、ヤジを飛ばした聴衆を遠ざけた警察の行動は違法と判断されました。僕はこの方々の行為自体は民主主義の根幹である選挙活動を妨害する行為で非難に値すると思いますが、司法判断自体は順当だと思います。ただ僕が不思議なのは、選挙妨害と取られても仕方がない行動を取った人たちに対してリベラル側からの批判の声が一切上がらないことなのです。
候補者が有権者に政策を訴え、有権者がその内容を精査し投票行動を決める、というプロセスがなければ民主主義は正しく機能しません。そのプロセスを妨害するような行為は厳に慎むべきである、という声がリベラル側から上がらないというのは、彼らが大事にしているはずの自由や民主主義に対してかなり不誠実な態度なのではないでしょうか。
私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」
誰が言ったか分からないけれど、この端的な警句こそが、最近の自称リベラルが思い出すべき基本中の基本であると思うのです。

本来のリベラルは私的制裁を断固否定するが、最近の自称リベラルはあっさり肯定する

性別は自分で選べるといって、女子スポーツに生物学的な男性が出たりする。大学の講義で、人間に生物学的な男女の性別があると言っただけで、性差別だと言われる。人種差別の歴史についての講義でかつて使われた差別用語を紹介しただけで、人種差別に加担したと糾弾される。大学で非白人学生による単位や成績の水増し要求を断ると、白人による抑圧の歴史を考慮しない差別だと糾弾される。
批判を受けるだけなら別に問題はない。だがいったんそうした発言をしたり糾弾を受けたりすると、それが全くの曲解だろうと何だろうと、その人物は大学や企業などでボイコットを受け、発言の機会を奪われ、人民裁判じみた吊し上げにより村八分にされたりクビにされたりしてしまう。

「社会正義」はいつも正しい: 人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて 訳者解説より抜粋


今話題の「社会正義」はいつも正しい、の中の一節ですが、これが今のアメリカの現状のようです。この現状を見ると日本はまだマシ、と思えるかもしれませんがそれでも着実にアメリカの現状に近づいている、という風に思えてなりません。
キャンセルカルチャー、なんてお洒落っぽい言い方をするから中身がよく分かりませんが、その意味を分かりやすく言うと私的制裁(リンチ)肯定社会です。
全体に対して個人が最大限尊重されるべきだという基本的な思想を持つ本来のリベラルは、個人に対する制裁に関して極めて厳格な司法手続を求めます。どれぐらい厳格な手続が求められるか。日本国憲法の関連条文を確認しておきます。

日本国憲法より

この日本国憲法の文言に続いてさらに刑事訴訟法に定められる厳格な手続を経て、はじめて個人に対する刑事的制裁は可能になります。それだけ個人に対する制裁を加えるという行為は重大な責任を伴う行為なのだ、と考えるのが本来のリベラルです。最近のリベラルの皆さんは気に入らない意見の持ち主に対するキャンセル活動を気軽に考えすぎなのではありませんか?

おわりに
怒りを表明する前に考えるべきではないか?

以上で言いたいことは全部言い終わったので満足なのですが、あと一個だけ。SNSでの意見表明活動にはある特徴があってそれは
「みんなすぐ怒るやん」
ということなのです。確かにSNSというメディアで発信していると実感しますが"怒り"の表明はすごくバズりやすいということが科学的にも証明されています。

「フェイクニュースを科学する」笹原和俊

ただし感情的表現はバズりやすいけどイデオロギーが異なる人には届かないよ、という研究結果です。事実最近の自称リベラルがいくら口から唾を飛ばしながら怒ってみても、
選挙の結果には微塵も影響が出ていない?
という話なのです。事実最近の自称リベラルの皆さんが親の仇よりも嫌っていた安倍晋三氏は戦後最長内閣を築きましたが、SNS上では日々激しい感情的な批判が繰り返されながらも選挙では10年近く負けませんでした。これは下図で確認出来るように憲政史上大変珍しい出来事です。森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題、とリベラル系メディアは立て続けに攻撃を繰り返しましたが選挙の結果には何の影響も与えませんでした。
これは様々に原因が考えられるでしょうが、感情的な批判が支持者以外に届いていない、という可能性について一度検討してみたほうがいいのではないでしょうか。ネトウヨの僕が生意気にも提案して恐縮ですが、ご検討のほどをよろしくお願いいたします。

社会実情データ図録 より
http://honkawa2.sakura.ne.jp/5236a.html


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