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【ネトウヨのきもちVOL2】差別について本気出して考えてみた

皆さんこんにちは。ネトウヨと申します。「ネトウヨとは政治的スタンスを意味するのだからネトウヨと申しますはおかしいだろ!」と疑問をお持ちの皆さん、ややこしくてすみません。実は僕は名前も政治的スタンスもネトウヨなのです。なお僕がどれぐらいネトウヨなのかは先日の記事の冒頭に書かせいただいてますので、もしご興味おありでしたらご確認いただけますと幸いです。

https://note.com/payokun/n/n62af6d04228a


日本第一党の桜井誠党首って控えめに言ってもクズだと思う

さて、現代日本における差別という言葉を聞いてまず多くの人がイメージする画はこういうものではないでしょうか?

真ん中で嬉しそうな顔をして座っている男性が桜井誠という人です。風船の人形に空気を入れるパフォーマンスの何が面白いのか分からないですが実に嬉しそうな顔をして座っています。たぶん知能の発達が霊長類の平均値と比べて著しく遅れているので「風船に空気を入れると膨らむ」ということを50歳にもなってから初めて知って感動しているのでしょう。民族差別をする人というのはやはり心の醜さが外面に滲み出るのでしょうね。こんな醜い差別主義者が生意気にも日本第一党という偉そうな名前の政党を立ち上げ政治活動をしているというのですから呆れてしまいます。こんな人が選挙に出ていいのでしょうか?同じ日本人と思われたくないし同じ空気を吸いたくないので日本から出て行って欲しいと強く思います。

以上の言葉は僕の素直な気持ちをそのまま書いてみました。ちなみに普段は思ったことをそのまま書くということはしません。こんなことを書いたらこの人はどう思うだろう、あの人はどう思うだろう、この順番で書いたほうがあの人は聞いてくれるんじゃないか、こんなこと書いたら自分のこんな醜い内面がバレてしまうのではないか、名誉毀損や侮辱の罪に問われるのではないか、などと逡巡しながら書きます。しかしこうして素直な気持ちを書き出してみると実は差別が大嫌いな僕の心の中にも多くの差別意識があるのではないか?ということに気がつかされます。上記、桜井誠氏に対する思いを綴った文章の問題箇所は以下の点になるかと思います。

・知能の発達が遅いことは劣ったことだという差別意識を持っている
・容姿が醜いことは劣ったことだという差別意識を持っている
・日本から出て行けというヘイトスピーチを行なっている

しかし自分を弁護するわけではありませんが上述の桜井誠氏に対する思いレベルの言葉というのはこのSNS全盛の時代ではごく当たり前にありふれています。恐らく僕と同様、内面に差別意識を持っている人が多いのではないかと思われます。というよりも差別意識を内面に秘めていない人などこの世にいるのでしょうか?

一方で昨今は差別という絶対悪は断じて許されるべきではない、という正義感から差別主義者は社会からボイコットされるべきであるといういわゆるキャンセルカルチャーが隆盛の域に達しつつあります。差別とは何か、という定義が為されないままに差別行為を糾弾し、差別主義者を私的に制裁していくような流れがトレンドになると何が起こるか。

結論から言うと、差別という概念のインフレが起きるのです。

いや、すでに起きていると言った方がいいかもしれません。本来、桜井誠氏のようなクズを批判するための差別という言葉が、手当たり次第に気に入らない思想の人間をぶん殴るためのその辺にある棒のような価値に成り下がってしまい、桜井誠氏のような本物の差別主義者を批判するための言葉として効力を失ってしまっているのではないか?
本稿はそのような問題意識に基づいて書き進めて参ります。

差別という概念のインフレが起きている

事例1: 昨今では国政政党に対する批判は差別になるらしい

上で引用したのは2020年、京都市長選の際の日本共産党委員長、志位和夫氏のツイートです。このツイートを最初に見たとき、情けなさすぎて思わずずっこけました。
ちなみにヘイトには理念法としての解消法があり一応定義のようなものがあります。

特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に、日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの一方的な内容の言動が、一般に「ヘイトスピーチ」と呼ばれています (内閣府「人権擁護に関する世論調査(平成29年10月)」より)。

法務省

見事にかすりもしていません。少年野球のバッターが大谷翔平選手の球を打つときでももうちょっとかすりそうなもんですが、清々しいまでに一般的な意味におけるヘイトの定義にかすりもしていません。共産党の市長に「NO」というメッセージのどこに、ヘイトの要素があるというのでしょうか。じゃあ自民党の市長に「NO」って言ったらヘイトなの?って話です。
政治家の仕事は議論なので批判を受けるのは仕事です。その政治家が「ヘイト」というマイノリティを守るための概念を持ち出して自分を守るための盾としているわけです。
プロボクサーが試合中に殴られたと言って抗議しているようなものです。
差別とは差別される側でしか気づかない、だから差別される側の気持ちが尊重されるべきだ。その基本的な考え方を悪用して自分たちへの批判を差別だとして排除しようとする、差別の濫用の好例です。このようなご都合主義の差別の濫用が繰り返されることにより、日本第一党の桜井誠氏の言動のように本当に撲滅されるべき差別への批判が、差別のインフレの中に埋没していくわけです。

事例2:昨今ではLGBTには生殖可能性がないと発言したら差別になるらしい

先日、龍谷大学法学部の石埼学教授のツイートに対して批判が殺到するという出来事がありました。批判が殺到するだけならいいのですが、大学に抗議の電話が殺到するという事態にもなったのです。批判と電話は根本的に異なります。批判は議論であり、電話は排除です。そのツイートとは以下のものです。

このツイートのどこに差別の要素があるのか分からないのですが、これは批判したり電話したりしていた人たちにとっては差別らしいのです。確かに一見、異性婚のカップルが選び得る人生の選択肢が同性愛者に与えられないのは差別だ、と考えることも可能なようには思えます。しかし婚姻制度というのは愛し合うカップルを国家が祝福し優遇するためのものではなくて、どちらかというと愛し合う2人を義務で縛るものです。嘘だと思われてはいけないから憲法の文言を確認しておくことにします。

第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

日本国憲法

憲法というのは大まかに言うと、国家や全体の利益よりも個人が大事だから個人が幸せを求めて生きる生き様についてお上が無闇やたらに口出しすることは許されない、という趣旨のことが書いてある文書です。にも関わらず婚姻は相互の協力により維持されなければならない、と超上から目線で国民に命令しています。憲法は政府を縛るための文書であるはずなのに、なぜ愛し合う2人はこんなにも偉そうな言い方をされなければならないのか。それは婚姻制度が保護している対象は愛し合う2人というよりもその子どもだからです。たとえば婚姻は当事者に同居協力扶助という義務を課しますし、どちらかが稼いで築き上げた財産も共有財産となります。要するにたとえば子育てを放棄して、朝寝朝酒朝湯が大好きで身上潰しちゃうような放蕩者に首輪を巻くのが婚姻という制度です。
だから婚姻の機会均等が同性愛者に対して保障されないことの何が差別なのか誰か教えて欲しい、と思っていたところ、精神科医でテレビでも度々お見かけしたことがある超有名知識人の香山リカさんがこんなツイートをされました。

このように石埼教授の発言は差別につながる、と断言しています。ちなみに「あなたの発言は差別だ」とは軽々に貼っていいようなレッテルではありません。黒人だという理由で選挙権が与えられない、リンチされても保護されない、バスで白人に席を譲らなかったら逮捕される…etc
そんなひどい状態から1つ1つ、非暴力主義を貫きながら平等を勝ち取ってきたのが市民と差別との崇高な戦いの歴史です。軽々しく気に入らない人を簡単に差別主義者呼ばわりするような差別の使い方は、その崇高な歴史への冒涜でもあります。だから香山リカ先生は当然、なぜ差別なのか、を説明するべきであるし、実際ご本人もそういう責任感をお持ちだからだと思います。「私なりに批判させていただく」と明言されました。

なぜ差別なのか、早くその理由が知りたかったのでまだかまだかと待っていたのですが、待てども待てどもなぜ差別なのかの説明がありません。同じ気持ちを差別主義者だと一方的に決めつけられた石埼教授も持たれていたのか、説明を待っている旨を香山先生に伝えたところ香山先生はこう引用(注:返信ではない)なさいました。

このツイートにはさすがに「??????」となりました。ご自身がなぜ差別だと思ったのかを説明すればいいだけなのに、お相手が碩学であるかどうかって関係あるのでしょうか。
そして何よりも一方的に差別だと断じた相手に説明を待たせる時点で順番が圧倒的におかしいわけです。普通は「それは差別だ」と主張するからにはあらかじめ理由があると思うのです。前述したように差別主義者なんて軽々しく人に貼って良いレッテルではありません。しかしこの場合、まず差別だと断じて、差別である理由を後から考えている。
うんこをした後でトイレへ行きます!と言ってるぐらい、順番がおかしいと思うのです。
いや、でもテレビに出てるような有名知識人の香山リカ先生のことだからそこには深い理由があるに違いない、と思っていたところようやく、2023年3月7日発売月刊誌「創」4月号に石埼教授を批判する文章が掲載されました。時系列だけ確認しておくと石埼教授の発言を差別だと断じてから1ヶ月後の文章です。


「創」4月号表紙

香山先生はともかく他の執筆陣もラーメン二郎が自信喪失するレベルで濃いな!日本赤軍までおるやないか!と叫びたい気持ちを抑えながら僕はストイックに薄給に苦しむ一庶民のお財布のなかからなんとか501円もの大金を絞り出し創4月号を購入、香山先生の文章を読み始めました。

結論から先に申し上げると、石埼教授のツイートの何が差別なのかはどこにも書いてありませんでした。
念のため5回通読しましたが見事に一言も書いてないのです。

では何が書いてあったか?商業誌の内容を全文ご紹介するわけには参りませんので、僕なりにまとめたあらすじと気になった部分の引用でお届けさせていただきます。勝手なまとめをするな!というご批判はtwitterの@payo_kun 宛にメンションでいただけますと確認しやすいので助かります。

タイトルは「生殖可能性と婚姻を結びつける危険性」です。いかにも石埼教授の発言がなぜ差別かが理路整然と書かれていそうなタイトルです。僕は知的興奮を抑えられないまま、ただひたすらに一度目を通読しました。読み終えて、
「あれ?」
と思いました。きっと僕が不注意で肝心な部分を読み飛ばしちゃったに違いない、と思い二度目を通読しました。再び
「あれ?」となりました。

僕が読んだ限りこの文章の流れはざっくり前半と後半に分かれます。まず前半は要約すると石埼教授の書き方が悪いから法律の解釈の話だと言う風に読めなくて当たり前である。みんなもそうですよね?石埼教授が生殖可能性のない存在なんか保護に値しないんだ、という差別的な個人の心情を綴ったツイートだと誰だって思いますよね?という内容が綴られます。一部引用するとこんな感じです。

「憲法通りに考えるならばこうなるのだが、私自身は同性婚に対して何の意見も持っていない」などとつけ加えるべきだったのではないか。そうしなければ、当該のツイートはたとえ「婚姻」についての現行憲法の解釈を述べただけであったとしても、それが石埼教授の個人的見解と同じと見られてもやむをえない。 

「創」4月号 P87

僕なんかはバカだから憲法学者がツイートするんだから法解釈の話をしているんだろうって素直に読んじゃうわけです。でも香山リカ先生ほどのお方になるとツイッターとはそういうものではないらしいです。

ツイッターは憲法学者のクローズドサークルではなく、一般の人たちも見ているコミュニケーションツールなのだ

「創」4月号 P88

憲法学者がツイッターで法解釈の話をするのはよろしくない、とのことです。イーロンマスクさんでも、ツイッターはかくあるべし!とここまで強いポリシーはないと思うけどともかく香山リカ先生のなかではツイッターとはそういうものらしいです。

ただ一読目、この前半部分を読んで僕には不安がよぎりました。もしかしてこのまま石埼教授の書き方が悪いから私は真意を読み取れなかったのである、つまり石埼教授は生殖可能性がないカップルを差別する差別主義者ではなく、書き方が悪く誤解を生んだ人であり、「差別」だと決めつけた自分の言葉は誤りであった、という結論で終わるのかと思ったのです。しかしさすが香山リカ先生、そんなことでは終わりません。

上の石埼教授執筆の記事にはこんな記述があります。

なお、そのこと――国民の世代的再生産の担い手の保護としての婚姻制度――を肯定することは、優生思想とは異なる。優生思想とは、再生産される人口として国民の「質」を問い、「不良な子孫の出生防止」(旧優生保護法1条)を唱えることだ(石埼学「憲法25条の健康で文化的な生活と戦後日本の優生政策」遠藤美奈・植木淳・杉山有沙編『人権と社会的排除 排除過程の法的分析』成文堂、2021年参照) 。

この部分に対して香山リカ先生はこう批判します。

しかし、結婚という形で社会的なユニットとしての正当性を得たいと考えるカップルが、「生植により世代的再生産の担い手になれるか」で線引きされて可否の仕分けがなされるという発想じたい、差別的だと言わざるを得ない。またそうやって再生産された国民の「質」は問わないとは言うが、「線引きにより結婚の可否が決められたカップルの子どもには、決して優劣の線引きはしません」と言われてにわかに信じられるだろうか。
太字強調:筆者

「創」4月号 P88-P89

驚くべきことに「差別的だと言わざるを得ない」というこの極めて強い言葉の前になぜそれが差別的なのか、を説明する文章は一切ありません。
また後半に至っては同性カップルには子供が出来ない、という自然の摂理をガン無視して、「線引きにより結婚の可否が決められたカップルの子どもには、決して優劣の線引きはしません」と言われてにわかに信じられるだろうか、という僕のような凡人には一生理解できないのではないかと思わざるを得ない難解な謎の決め台詞が披露されます。

香山リカ先生のような一流の知識人でも、人を簡単に差別主義者扱いし理由を問われると支離滅裂で何も答えられない。差別という言葉は現状でもここまで軽い存在に成り下がってしまっているのです。

差別をキャンセルする風潮がもたらす未来

社会学者として差別解放運動の内部を長年観察してこられた好井裕明氏はこう言います。

「差別する可能性」とは「差別者になる可能性」ではありません。むしろ私たちは、自らの「差別する可能性」に気づけば、それを修正し、他者に新たに向きあい、理解するための指針として活用することができます。

他者を感じる社会学 ちくまプリマー新書 P31

人は誰でも人を差別してしまう可能性がある、しかし自らの差別に気づいて修正すればそれは差別者ではない。これは至言だと思うのです。現に僕も冒頭の桜井誠氏に対する率直な思いを綴った文章の中で、知能の発達が遅いことや容姿が醜いことに対する内心の醜い差別心が明るみになってしまいました。
差別を気軽にキャンセルする風潮は、人が自身の差別心に気づいて自身の思想をアップデートする機会すら奪ってしまう。そういう可能性について一度考えてみませんか?

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