夏が切ねぇ



夏の信号待ち。
歩道橋は暑さで歪んで、どこか遠くの方からセミの声が聞こえてくる。
命の証だ。
じんわりと肌に汗が滲みてくるのがわかる。
これだから夏は切ない。
切ないとは思うに、停止のことだ。
音楽が鳴り終わって、しばらく漂う余韻のように
停止してしまった後の余韻を想像できるものは全て切ない。

昔、ハムスターを飼ってた。
ハムピー。
ハムスターのハムピー。
コロコロしてて可愛かったな。
めっちゃなついてたしかわいかった。
毎晩夜になると、カラカラ〜って走りぐるま回して可愛かったけど。
ハムピーが死んでからは、夜が静かでとても切なかった。
やっぱり停止なのだ。
切ないとは。停止に流れ込む再生の余韻のことなのだ。

そんなことを思いながらラボについてカタカタとこの文章を打っている。

こうやって、文章を打ち進める指も、ゴーっと音を立てる室外機も、
カーテンがそよぐその様子も、常に次の時間に向かってバトンをつなぎ続けている。
誰もさぼらず、淡々と時間を進めているのだ。
そう思うと、全ての営みがなんだか可愛らしく思えてくる。

自分の体だって、自分のものとは思えないくらい意識の外でいろんな仕事してるんだな。
って思うと、自分ってなんだろうと思うね。
自分の意識というものが自分なのだろうか。意識はどうして意識なのか。
意識をすることができるというのは、意識をしないということができるからだろう。
だとしたら、意識をしないという状態はどこに格納されているのか。
記憶の外側にあると思っているものは実は視界に入っていないだけで。
だとしたら、人間はどの点を持って自分を自分と認識するのだろう。

そうやって細かいことをどんどん拡大してみて行くと、実は無限に行き着く先のない世界が現れる。
境目というものがどんどんあいまいになっていく。

自分が自分であるかどうかは、自分の自分以外の部分を見ないとわからない。
だけど、それを知ることはとても難しい。
意識というものが人間にはあって、その枠を外すことがむずかしい。
自分にない新しい視点や世界を教えてくれるから芸術というのは美しい。
そこに作為がなければないほど、その視点のシンプルな意味が理解しやすい。
人は知らない間に選んでいる。
選んでいるということを知らないと、同じものを選び続ける。

切ないということを一つとってもそうだけれど
全然違うことを違うタイミングで思ってもいい。
世界と即興のセッションをするみたいに、いろんな自分でこの世の中に存在すればいい。
その心臓が停止するその直前まで人は準備をしている。
自分という作品が完成するための準備を。

POS部屋はこちらへ→https://www.mori-no-heya.com/
POS部屋とは、、、
Project Open Source Roomの略。
そもそもは、アーティストたちがひとつの場所に集ってアイデアや表現を出し合ってそれを共有しながら面白いものを作っていきたい。
という思いから始めようとしたプロジェクト。
結果的に、紆余も曲折もやんわりと経ながら単純に森良太が表現したいことを表現するだけの場所になりました。
シンプルにいうとファンクラブ。
だけど、ファンクラブと一言で括ってしまいたくない思いが絶妙な塩梅でProject Close Sourceな現状を生み出している、WEBの孤島。
そう、ここは楽園。