もじょ

京都のMojoというライブハウスでYOWLLのライブを演ってきました。
俺ら以外は20代前半という、一歩間違えたら老害呼ばわりされてしまうのではないかという危険をはらんだ恐ろしいイベントでしたが無事にそれなりの手応えを持って終えることができました。

俺とひでおくんは寺田町のFire Loopというライブハウスで育ちました。
16歳とかの多感な時期に、生々しいリアルなバンドマンのライブを見て育ったわけです。
どうやって生活できてるのかわからない風貌の、だけど謎にオーラを纏っているバンドマンたち。
言語化できない表現をステージ上でやってのけるバンドマンたちの生き様とかカッコ良さとかダサさとか全部がそこにありました。
あの時ステージの上で輝いていたバンドマンたちももはや今の俺より年下なのかもしれないけれど、それはそれは大人に見えたし知らない世界を泳いでいるでっかい魚見たいな存在の人たちをたくさん見て青春時代を過ごせたのはとても有意義でした。

今日のMojoのイベントはそういう空気を纏った感じの日でした。
初めてFire Loopの高架下で「ゆれる」のライブを観た日のこととか思い出したなぁ。
自分が今やその時のゆれるのポジションになってるのかもしれないと思うとなんだか不思議な気持ちにもなりながらライブをしました。

最近はもっぱら、なんだかマインドは「愛情」に振り切れてて
ついこないだまで携えてた「怒り」は全部ゴミ箱に捨ててきました。
この切り替えを求めてはいたのだけれど、そこに至るまでは結構難しくてなんとか切り替えることができて最近は調子がいいです。

大きくて深い愛情で生きていたい。
世の中にはほっといても怒りや憎しみは溢れていて、想定内の優しさと想定内の愛情の外側にはみ出てしまった問題児みたいな感情は思い出されることすらないまま腐っていく。

ステージの上で仲間と音を鳴らすというのはまぁほとんど奇跡だ。
無限に広がる時間の中で音楽の中の楽曲の中の音符を旗に待ち合わせして同じタイミングで鳴らす。それが連続で繰り返される。
まぁまぁ誰でも起こせる奇跡なのだけど、まぁまぁ起こり得ない奇跡でもある。
真面目に考えれば考えるほどわからなくなるのは、どうしてわざわざステージに上がって演奏するのかということ。
この世にあってもなくてもいいものなのに、どうしてこんなにも必要不可欠なのか。
そんなこと思いながら、対バンのみんなが演奏するところを見ていた。観ていた。
なんだか、バクテリアみたいだなと思う。
俺たちみんな、自分が分解するべき何かを音楽することによって違う何かに変えているんだと思う。
それぞれがそれぞれにしか分解できない何かを分解し続けているんだと思った。
そこに理由とか意味とか大義とかそういうものはあまりなくて
ただ単に、そこが目的地なのだと思った。

将来のこと、未来への不安。
そういう色んなことは考えのきっかけを与えることでその続きまでクリエイトされてしまう。
悲しみも不安も全部創作物なのだ。怒りとかもそうかもしれない。
それはアートとは少し違うがどこか似ている。
思考というのはきっかけから連想される集合的無意識の延長みたいなものだったりするから、それをどういう風にクリエイトするかは自分で案外選ぶことができる。
自分の人生は思ったより自分で選べないけど、全く選べないわけでもない。
宣言して突破することさえできればそれを人生にすることだってできる。
自分が欲しい時に欲しい結果を得たいとか、人よりもどうなりたいとかそういうオプションを追加していくと色んな意味でコストは上昇していくけれど、行きたいところまでいくということにおいては割となんとかなる気がする。
本当に欲しいものを手に入れるには、人が欲しがらないタイミングで人が通らない道を通って人が気づかない良さを人が欲しがる時まで、通る時まで、気づく時まで持ち続ければいいだけなのだ。

つまり、途中でやめなければ夢は割と叶う。
そういうことをなんとなく思った日だったのであ〜る。