で?

自分が生きてて、これは分岐点だなぁと感じたことはたくさんあるけれど
2011年の東日本大震災以降、この国の空気ってなんか変わったんじゃないかなーって思うのよなぁ。
これはあくまで俺の主観の話だけれど。ね。

主にアート界隈というか、創造を仕事にしている人たちが軒並み調子を崩したような印象があったなー。
アーティストって常に自問自答してると思うのよ。
これって、この世の中に必要なことなんだろうか?
って。
自分の需要みたいなものを世の中に創り出すためにずっと創造していて、やはり時々
「やっぱ必要ないんかな。」
と思ったりするんだと思う。
まあ少なくとも俺はそう感じたことは多々ある。
それがね、大きな災害があったりして大変なときに、しかも被災された方の気持ちを思うと自分の存在価値のために声を上げることもそりゃあ憚られるよね。
自分のやってることが誰かの心を救うんだ
なんてことそんな時に思えるのはよほどの成果を今まで残してきた人か、エゴイストか。
どっちかだと思うよ。
それ以外の人はみんな不安と闘いながらそれでも歩むことを止められない人だとおもう。それはもう、とても個人的な理由で。
続けないと自分が生きていけない。
そういう真に切迫した活動をしていたアーティストたちだけが生きるために創造し続けたのがあの時期の構図なんじゃないかと思ったりする。
それでも、心が先にダウンして進めなかった人もたくさんいるけどね。

今の世の中も、分岐点といえば分岐点だと思う。
世界規模でジワジワと削られながら
みんなが我慢している状況。
ウイルスなんて目に見えないから、考え方や感じ方によっては外を出歩くことすら難しくなってしまうであろうこの状況で、必要最低限のこと以外をなるべく考えないように暮らさないといけない日々がもうそろそろ2年近いんじゃないっけ。
飲食やそれこそアートなんて、贅沢なことなのだから我慢できるでしょ?
と、我慢し続けて2年近い。
何人首を括ったのだろう。これは比喩でもなんでもなく。
直接的に感染して亡くなられた方以外の人を数えるとどれくらいの被害があったのかなんて想像もつかないよ。数値化することが難しいから実感しにくいんだろうけれど。
恐ろしいね。ほんとに。

え?でもオリンピックはやるんや。
とかさ、思うことは色々あるのだけれど
そういう時にいつもおもいだすのが、原発が止まるから電力不足で電車がクーラーも車内の電気もつけずに走ってたあの時のこと。
あれって、いつ、どのタイミングでなんで元に戻ったんやっけ。
全然おもいだせないのだけれど、全ての出来事を
「どうせみんな忘れるよ。」
って、素知らぬ顔で強行されているような気がして
なんだか恐ろしいなとおもう。
この今の空気も、いつのまにかなんとなくゆるっと収束するのだろうか。

なんだか俺たちって無力やねぇー。

と思わされてしまうようなことがたくさんあったなー。って感じるな。
まあ、無力ってのは間違いで、微力。なんよね。
だからといって束になる気も俺はないけど。

こういう日々に、投げやりになるなというのはものすごく難しいことだと思うのだけれど
自分が今、わざわざ大所帯でバンド編成でライブをしたりしてるのはそこに対してのメッセージでもあったりする。

今人の動きを作ることが感染拡大の一端を担ってると言われてしまうと言い返せることはないのだけれど、個人的には前述した通り、直接感染することだけが被害じゃないと俺は考えていて、そう考えると感染の被害を出さないために出来ることが感染の対策と真逆のことだったりすることもあるよ。
もちろん、感染したら元も子もないから最大限できることはしようとは思う。

この2年ほどでいろんな人がいろんなことを我慢した結果、必要ないなと判断されるものやことがとても増えたと思う。
そして、それらが必要不可欠だった自分を忘れてしまう人たちが増えてゆくんだと思う。
その先にどんな未来があるのかといえば
文化的じゃない最低限の暮らしになってしまうんじゃないかなと思う。
極論だという自覚はあるにせよ、可能性として感じることを覚えておくのは大切なことである。
人と人が交わることが生む日々の気付きや心の治癒やそういうことは無駄だけど娯楽だからあったわけではなく、人が人であるために必要なことだから出来上がった形なのだと思う。

豊かさというのは、無駄の中にある。
本当の贅沢というのは、良質な無駄のことである。
すでにある美味しい果物を高く買って食べることではなくて、美味しい果物を苗から育てあげて食べることなのである。
そんなことしなくても金を払えば食べられるだろうが、金で買った果実には育てて食べるのに比べて思い出はない。そして無駄もない。
金持ちは豊かに生きることのできる選択肢が多いのであって、金持ちみんなが豊かなわけではないんだと思う。

音楽に例えるなら
わざわざライブハウスに出向き思い出や空気を身体や心に染み込ませて、経験と体験を自分にしか得られない形で音楽と混ぜ合わせることなのである。
音楽はその日その日で変わる。
聴き手の体調やメンタルや出来事
演奏する側の体調やメンタルや出来事
全てが不確定で未完で無駄だらけなのだ。

豊かであるということは他人の気持ちを想像したり、公の幸せを想像することに必要なことで
それを人から奪い、統治することでは真に平和な世界は訪れないと思う。

人は常に変わってゆく。
変わらないということも変化だと俺はいつも言っているけれど
変わらないために行動しないといけない時がある。
自分というものに自分を継ぎ足す作業を止めてしまうと、ある日同じレシピで同じように継ぎ足しても全然違う味になってしまってる時がある。
それは自分が変わったのか、周りが変わったのか。
どっちもだと思う。
それはさながら、秘伝のタレをダメにしないように少しでもいいから毎日蒲焼を作ってタレを継ぎ足してゆくかの如く。そんな店実際にあるんかわからんけど笑

残念ながら、職場や仕事の都合でライブどころじゃないって人もマジでいてるとおもう。
そういう人にもちゃんと届く方法を考えないとなと思い日々試行錯誤してるし
もちろん、早くこの状況が良くなることを願っているよ。

1人1人の人生、引きでみたらぜーんぶ

で?

の一言で終わる。
でもわざわざいま引きで見る必要なんかないのよ。
自分が自分の世界の主人公だということ
忘れさせるためのトリックが世の中には山ほどある。

どんな時代でもどんな時期でもなにがあっても
音楽で共鳴しあった感動や
楽しくてわくわくした気持ちや
自然と笑ってしまったりした
楽しくて幸せな記憶に蓋をすることでは最善にはならないよ。
我慢することも、楽しむことも
半ば義務なのである。

心を解放して
幸せになりなさい!
責任という言葉が嫌いな俺が
責任を持つべきだと思うことは

1人1人が与えられた命を精一杯生きて幸せになる
という責任を果たすことだとおもいます!

でした!