生き方を考える。
昔、自分に才能があり、自己啓発の本を読みさいすれば、人もうらやむような結果を出し、心豊かに人生を過すことが出来ると信じていた。
ある、超が付く優名なコンサルタントの本を熱心に読んでいた。
その本の中で、重要なのはイメージだと書いてあった。自分がどんな自己イメージを描けるかで、得られる結果が大きく変ってくる。
だから、自分のなりたい姿を描き、それに沿ったイメージネーミングを考えるとよい。そう書いていた。
僕の場合はとにかくルーチンワ一クや、役所やゼネコン系の形にはまった堅苦しい事はしたくなく、創造的で、自由で柔軟、そして美しい事をしたかった。勿論、金も爆発的に儲けたかった。
そこで、スーパー・クリエイティブ・ジーニアス・デレクターなんて密かに名付け、手帳に書いたり、つぶやいたりしていた。世の中に居るイメージに合う人物に重ねて、空想の世界から一つ先に理想を得ようとしたのだ。
今、僕が似つかわしくないMacを愛しているのも、夢とする彼らの後ろを追っているからに他ならない。現実は、仕事で表計算やデーターベースなど無味乾燥な事を、そう、堅苦しい会社員として、処理をしているだけが、唯一の効果的使い方である。
もちろん、Macなのだからと、創造的で創作的な事も使用とはしてきたが、はなはだ結果は芳しくなく、文章を書けば、日本語の体をなしていないほどの、文字の誤用と、文体の不自然さである。
他の人があれだけ軽やかに文章を創作しているというのに、なんたる我の知性のお粗末さである。
また、他に目をむけてみる。イラストやWebデザインができるのかといえばこれもからっきし。もちろん、勇んでやってはみたが、なにかとても根の深い所で、感性が腐っているようで、「ようなもの」の域を出てはくれない。
まあ、結果。言うだけじやあ駄目で、こんな感じで、仕事の才は無く、芸術の輝きも鈍く、ましてやそれを超えていく知恵も勇気も無かった。
どうにもこうにも、最近は手詰まり感が半端ではなく、自己イメージがどんどん、貧困になっている有様だ。でも、皮肉なものでこう落ちぶれると、かえって自己イメージの大切さを実感する。何もでいない存在であるというイメージが、とにかく勝手に、それも足早に前を歩い
て、僕を世間様に吹聴する。夢といわれるようなぼんやりとした希望や明るさが、削り取られていくことを、皺の寄った額で、見るようになっていく。
こうなると、内面のみならず、外側もめっきり貧素になってしまう。なんとか変えたい。
でも、それを受け入れる事が、現実を受け入れることで、分相応な生き方をするということなんだろう。仕方がないのかもしれない。全ての面で人より優れたものを持ち合わせていないのだから、そういう生き方をとらないと、世間に押し潰されてしまうから。
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