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凡庸“価格”日記「Nikon Z6 III」

妻と話をしている時に、よく耳にする言葉がある。締めの言葉、最後の結論みたいな言葉。

近所のラーメン屋がとても美味しいと話をしていたりする。また、とても使い勝手の良い家電製品があるとか、テレビに映った豪奢な温泉旅館がとても快適とか、さんざんそれらを話し、気持ちが高まったその後に、最後の最後、結局は、+高いんでしょ。と、いろんな良いところがあったのに、高い、その言葉で全ての良きことを無効にする。

とにかく、自分の現実より、高い事が最大の判断基準になっている。

高いのは、それなりに意味があるだろうし、それ相応の体感を与えてくれるはずなのに、また、どれほど高くても、それが必要な内容であれな、一瞥して、無意味だとは言えない。

もちろん、その気持ちはわかる。本能的な潜在意識の奥底に、高い低いがこびりつき、絶対的な権威を持っている。

だけど、それが唯一の基準であるように語る、正しい存在の権化のように立ち振る舞う妻の姿に、そんなもんで右往左往することのない、人生を手に入れたいと、願ってしまう。

それに、その基準は他の場所、他の環境、他の人になれば、全く違うものになるかもしれない。

日本は今や円安まっしぐら爆走中。日本の場合として見てみれば、とんでもないと思えても、外の人にはニコニコなのかも知れない。インバウンドで、多くの外国人が訪れているが、二、三千円の定食を、爆安と興奮している。これからの商売は、近所の知り合いとするのでなく、もしかして、近所付近は見向きもせずに、全てを満足してくれる場所と、せっせと商売する方がかしこい。

この場所で作られて、長年、近所相手と商いしていたが、ちょいと足を延ばして、外の人と真意に付き合った方が、性能に見合った対価を与えてくれる。それに、とうとう気がついたのかもしれない。

枕詞で、二言目には「高いでしょう」言わない世界が。

と、とうとう発売されたNikon Z6 IIIのことを書いてみた。

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