パクチーハウス東京(世田谷区経堂)時代のお客さんがパクチー銀行(安房郡鋸南町)を訪問。東京湾フェリーで一緒に帰ることになり、激混みの船上で中国人の青年と相席することになった。乾杯から始まったコミュニケーションの中で、僕たちとパクチーについて伝える過程で、中国語で書かれたこんな記事に出会った。
2022年5月に発表されたもののようだ。僕のこと、僕の活動についても書かれている。印象に残ったところ、大事なところを引用・翻訳(半自動)しよう。
パクチーハウス東京を開く前に「パクチー銀行」のコンセプトを作ったのは事実だが、そのときにリアル店舗を作ったわけではないんだけどね・・・。ぶらぶら歩いているうちに・・・w
パクチー種を得るための資金調達ではなくて、パクチーの種自体を融資しているんですよ!w
ATMのダジャレで「(A)余った(T)種を(M)まこう」とアルファベットを並べただけなんですが、機械を設置したことになったらしいw
与那国ではパクチーのことをクシティと呼ぶ。与那国町役場の人がパクチーハウス東京に来て、クシティの時期(毎年12月から3月ぐらい)にイベントをしたいというので、クシティの日をつくることを提案した。我ながら強引で秀逸な案で、その日付(12月第二日曜日だっけ?)の根拠もつくったはずだが、なんでその日にしたのかは忘れてしまったw 思い出したいw
与那国町は、これを条例で定めた。
「見事な変身を遂げた」らしいw
確かに、パクチーは僕の「幸運のお守り」です。
そして、講演依頼お待ちしています。
パクチーは日本に渡来してから1000年以上経っても普及していなかった。マイナー野菜であり、日本食できちんと使われていなかった。僕が旅した国々はほぼどこでも、パクチーを何らかの形で使っていた。ほとんどパクチーが無視されている日本(と韓国)を、僕は「パクチー後進国」として指定した。しかし、日本の食文化の柔軟性や、世界に名だたるシェフが日本から多く輩出されていることから、「パクチー料理」(僕が勝手につくったジャンルだったがw)を確立させることで、「パクチー後進国」だった日本からの発信で「パクチー料理発祥の地」に日本がなりうると勝手に主張した。ぐるなび総研の「今年の一皿」選出(2016年12月)とこの記事は、僕の冗談というか妄想というか妄言が、認められたことを示している。
日本はかつて「パクチー後進国」でしたが、いまや「パクチー料理発祥の地」なんです!(笑)
「i」は「旅人」を表し、パクチー(paxi)は「旅と平和」の象徴です、と創業当初から僕は訴えています。「旅と平和」は2003年に英国ブラッドフォード大学大学院(平和学)に行く直前からの僕の人生のテーマで、2007年に創業した会社名にもしています。
早くからパクチーに目をつけた岡山では「岡パク」の名で特産品としているほか、パクチー奉納祭を行い、神社にパクチーを納めたりもしている。復興祈願祭にパクチーが絡むなんて、夢見てすらいなかったので嬉しい。そして、パクチーは「旅と平和」の象徴ですと僕は言いたいんだけど、「平和と希望の代弁者」・・・でもいいかw
宇多田ヒカルさんが「パクチーのうたを作ろうかな」という旨のツイートをしたのは2012年夏頃だったと思う。お休みされていてツイッターで久しぶりにコメントがあり話題となった。そのときに、僕の「パクチーのうた」を知る方々が、「すでにありますよ」的なリプライを返していたのが懐かしい。確認した限り、どれにも返事はなかったけれど。
僕が歌う「パクチーのうた」は、2007年11月に、パクチーハウス東京の開店記念として、日本パクチー狂会の会員の syung@ と ゆみパク 夫妻(当時未婚だったかも)が作詞・作曲した。