徒然

僕の尊敬する小柳さんのnoteには徒然と書いて思ったことを書いているのがあったのを思い出す。恥ずかしながら僕もこの方法を借りてみようと思う。思ったことと、最近知ったことを親に見てみて〜と聞かせに行くあの感じ。って書くと小柳さんを親みたいに見てるやばい人になっちゃうけど、そうじゃありません。見てもらうのは読者の方々。僕の考えたことをつらつらと書き出して、まあメモみたいなもんなんですが、これをそのまま晒してみようと思ったのでやってみます。他人のメモを除いてみる時、すごく悪いことしてる気になりますよね。僕もです。できれば見たくないと思うけど、中身は気になる。(見ませんが)




本歌取りというものを知った、と言うより最近その意味を知った

知ってはいたけど古典の時間なんて寝てたからよく覚えて無かった、元カノが古典の時間が楽しいと言っていたのを思い出す、今どうしてるんだろう?元気かな?相手の気持ちを尊重して別れたけど、今も思い出しては元気でいてほしいと願う

さて、話をもどそう。本歌取り、元の和歌の一部を引いてきて、その歌のイメージを聞いてる人から引き出す。その上で、そこから少しのアレンジを加えることで自分の見せたいところを表現する技法。それはかつて和歌だったけど、今でもラップ界隈ではサンプリングと呼ばれてるし、音楽界隈でもカバーとかしたら似たような形になることもある。(神門のPelliculeとかは、元の歌と同じ音源を使って同じ歌詞の下で歌われるが、歌詞のアレンジ部分が多く、本歌取りのようになっている。しかも、そのアレンジ部分に歌い手である神門の想いがこれ以上無いほど詰め込まれている。本当に、不可思議がかつて歌ったように、その気持ちは一本のポエトリーではとてもじゃないほど書き切れないほどの熱量である。

この技法がふんだんに取り入れられたこの曲を聴いて、なるほど本歌取りというのは僕が思う以上に強烈な気持ちが込められる技法だったんだろうと思った。

最近ラップバトルの動画をYouTubeでよく見るようになった。それはShortsで流れてくるのをだらだらと見ているということの言い換えなのだが、和歌とラップバトルの共通点が多いような気がしている。

和歌はラップと違って使える文字数が少ない。しかしながら31文字に込められる意味は我々が日常的に行っている会話以上に多い。本当に伝えようと思えば何でもできる。現代のTwitterはそれに近いと言う人もいる。たったの140文字ではあるが、その140文字には人それぞれの思いが乗せられている。時にはたったの140文字の中で世界が変わりうる。しかも、数十年ほど時代を遡ってみると、数字しか遅れないというのに人々はそこに様々に意味を乗せて、待ち合わせをしたり、愛を伝え合ったりした。その祖先ともいえるのが和歌ではないかと思うのである。

もっと遡ろうと思うと狼煙といって、煙の色で伝えるという方法もあるし、言葉の伝達方法は様々に開発されてきた。トンツー、またの名をモールス信号という方法や、手旗信号というのもある。これらは今も使われている方法である。

さて、寄り道が多いが、和歌とラップの共通点は多い。たとえば一つの言葉にいくつもの意味を込めたり(掛詞)、韻を踏んだりする。先述の連想させる方法はラップ界隈ではサンプリングと呼ばれる。私は松尾芭蕉の句集を最近読んでいるのだが、謡曲からの引用の下で作られたものも多く、注釈に書かれているのを見るたびにまた謡曲かと思うほどである。

と、そんなことをつらつらと説明していてもWikiのほうが詳しい。やめやめ、今日はどこかの知らないバンドの音源でも聞いて休もう。また明日から頑張れば良いや。こう言うのってあんまりかっこよくはないけど、初めから俺たちのことなんか...って、こんなことを言うのはよくありません。

…すごく中途半端だけどこの辺で一旦。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?