見出し画像

追憶のアクアリウム

ヴゥゥゥゥン………
いつ頃からだろう。レンジが何かを温めているのを見るのが好きだった。透明なのぞき窓の向こう側で暖色にライトアップされたコンビニ弁当と、真っ暗なこちら側でそれをじっと見ている自分という構図が、アーティストのライブ会場のような感じで妙に面白かった。あるいは、光の当たる誰かと光の当たらない自分という対比を思わせて、それが妙に寂しかった。

温め終わった弁当を手に部屋に入るとテレビが自動で起動する。瞬間、前後左右天も地もなくすべてが、暗いけれど明るい、どこまでも続く鮮やかな青に染まる。視覚効果による浮遊感は、ここがワンルームマンションの一室であることを忘れさせるほどだ。弁当を温める技術がレンジのままなのに、こういうエンターテイメント系の技術は革新と一般化が止まらない。もっとも、最新のレンジは一瞬で加温が終わってしまうから、普段はわざと時間がかかるレトロなモードで使っているんだけれど。
「全天モードで映画見たの忘れてたわ。”平面モード”。」
私の一声で、部屋のすべてを包んでいた壮大な海は宙に浮かぶ32型の長方形に収まる。弁当を食べながら見るに、バーチャル水族館のプロモーション映像だったようだ。2匹のジンベイザメが巨大な水槽の中を悠々と泳ぐ様が静かな音楽とともに流れる。技術が進歩し過ぎたせいで画面越しにはCGか実写かは、少なくとも素人目には区別がつかない。たとえCGであったとしても海洋生物学者AIによる完璧な監修のもと、筋肉の付き方から、それに伴う泳ぎ方のクセ、水流の一筋、光の一筋にいたるまでが計算されているのだから、それはもう現実とどう違うのかという話になってしまう。
「一緒に泳ぐのも良いんだけどなぁ…。やっぱ、水族館にはアクリル板が無いとなぁ…。」
高度映像技術の普及によって、水族館や動物園、植物園、博物館などの展示系施設はすっかり置き換わってしまっていた。それはそうだ。全天モードなら、部屋は海中になるし、サバンナになる。イルカと一緒に泳げるし、子ライオンと添い寝ができる。伝染病を媒介する蚊を気にせずアマゾンを歩き回って植物が見れるし、ピラミッドからの出土品をセキュリティ的に許されなかった距離で見て自由に裏返したりできる。とは言え、ホンモノの価値もまた健在で、富裕層のプライベートコンテンツとして生き残っている。数年前には登場人物の視点で映画を見ることができる仕組みが開発されたことで、映画業界にも革新が起こった。主人公としてだけじゃなく、ヴィランとしてヒーローと対峙することも、世界を揺るがす戦いをあえて端役として見守ることもできた。
個人的には、世界を2つに隔てる壁があってこそ、触れそうで触れないという状態にあるからこそ、ある種の神聖さがそこに生まれるという説を推しているから、昨今の流行りはちょっとやりすぎだろうと思う。落語家の噺は隣に並んで聞くべきものじゃない。

画面の中ではまだジンベイザメが泳いでいた。ふと、高校のときに最寄りの駅で見た壁一面の巨大広告を思い出す。あれもまた水族館のプロモーションで、大水槽の前で立ち尽くしてしまう瞬間を、その目線のままで閉じ込めた良い作品だった。邪魔にならない程度に添えられたコピーも良かった。

『厚いアクリル板の向こう側、今の私の退屈は、大人になるのに30年かかるジンベエザメにとっては取るに足らない時間なのかもしれない。』

進路に迷っていた当時の自分、大人になるということにリアルを感じられなくて、担任との面談ですっかり荒んでしまっていた心と頭に、なぜかじんわりと優しく浸透して、人知れず泣いてしまったのを覚えている。今でも手帳を新しくするたびに1ページ目に書き写す程度には、大事な記憶だ。

ジンベイザメに限らず、健康寿命がまもなく3桁に届き、人生が120年と嘯かれている現代となっては、レンジの前で弁当が温まるまでの退屈も、映画が読みこまれるまでの僅かな退屈も、夜が明けるまでの退屈も、夜を待つまでの退屈も、取るに足らない時間なんだろう。いちいち数えることもない記憶。いちいち数えないけれど積み重ねてしまえば人生の大部分を占めてしまう空虚にも思えてしまう時間。だけど、その退屈が埋まる一瞬。何かが空洞にとろりと入り込んでくる感触。抱かれるような、満たされるような、嬉しいような、悲しいような、そんな不思議な感覚。そんな美しい時間がある。それがいつかは誰にも分からないけれど、誰にでも訪れると信じている。

「さて、仕事しますか。」

誰かの退屈を埋めるような仕事、誰かの退屈に寄り添うような仕事。進路をそう定めたあの日の自分は、今の自分に繋がっている。今抱えているのは地方都市のイベントの広告の仕事。仲間から届いていたキャッチコピーの案とたくさんの写真を眺めながら、ひとまず自分を退屈を埋めてくれるピースを探して、今日も夜が更けていく。

ーーーーーーーーーー
追憶のアクアリウム(2000字)
【One Phrase To Story 企画作品】
コアフレーズ提供:花梛(https://note.com/hanananokoe/
『「厚いアクリル板の向こう側、今の私の退屈は、大人になるのに30年かかるジンベエザメにとっては取るに足らない時間なのかもしれない。」』
本文執筆:Pawn【P&Q】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?