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火焔型土器に刻まれた想い 北斎に波を描かせたその記憶

9月も中盤にさしかかり、夏の終わりを痛感する今日この頃。日が暮れるのも早くなり、朝晩はだいぶ涼しくなってきました。
スーパーには鍋のコーナーが設けられ、秋だなあと、しみじみ。
季節の変わり目を食料品で感じてしまうのは、これも食欲の秋のなせる技なのか?

僕は鍋が大好きです。もう、冬場は毎日鍋でもいいくらい。あらゆる栄養素が一度にとれて、洗い物もそんなにでない。こんなに実用的で効率的なメニューは他にないでしょう。考えた人は天才ですね。

はて、鍋料理は誰が考案したのだろう?

古代史を調べている人ならお気付きですね。
縄文人です。

彼らは土器を煮炊き用の鍋として使っていました。つまりこの島の住民は縄文の時代から、食材を入れた土器をいろりの火にかけ、ぐつぐつ煮込んでいたのです。
古代史に興味があり、かつ鍋ものも好きな僕には、縄文の血が流れているのかもしれません。

さて、そんなこんなで、今日は土器のお話です。

縄文土器と言えばやっぱり有名なのはこの「火焔型土器」でしょう。

信濃川火焔街道連携協議会ホームページより


躍動感に満ち溢れていますね。
燃え上がる炎をかたどったような形をしているため火焔型土器と呼ばれるそうです。

ううむ。もっともらしい説明ですが、いまいち僕にはピンときません。
縄文人と火の信仰が結びつく気がしないのです。むしろ縄文人は水を信仰していたはずなのです。

日本には蛇神信仰や龍神信仰がありますが、どちらも水と密接に関係します。そしてそれらは大和朝廷以前、縄文の信仰です。
まして僕は縄文「海洋」民族だと考えているので、やっぱり火ではなく、水を信仰していたはずなのです。

そんな縄文人が作った土器の代表が火焔型土器。もやもやしますね。そこで僕は調べました。

まず土器の胴体部分を見てください。うねうねしてますね。渦巻いてますね。これは火に見えませんね。
僕は胴体部分の模様が、これに見えます。

鳴門の渦潮

鳴門の渦潮です。この渦巻きに似ている気がするんです。縄文人は船を使って広範囲を航海していたことが考古学でわかっています。ならば海流というものが航海する上でいかに重要か、彼等は知っていたはずです。潮の流れを知らなければ、大海原を航海することはできません。だから土器の胴体部分に海流(水の流れ)を描いたのではないでしょうか。

ところで、だいぶ時代は下りますが、その水の動きにとりつかれ、波を執拗に描く絵師が江戸時代に現れます。
葛飾北斎、その人です。
北斎は生涯を通じて波の動きを幾度も描き続けました。
代表作は言わずとしれた
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」1831-33

有名な絵ですね。巨大な波が船を飲み込もうとしています。
海外でも評価され「グレートウェーブ」と呼ばれています。
しかし若い頃サーフィンを嗜んでいた僕は、この絵に対して疑問を持ちます。
果たしてこのような大波が立つ場所が、日本近海にあるのだろうかと。
サーファーはビッグウェーブを求めて海外に旅行します。それをサーフトリップといいます。日本は地形的に大波が発生しにくい環境にあるからです。
「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」に描かれる波は、サーファーからすれば理想の波です。こんな波が日本の太平洋沿岸で立つならば、わざわざ海外に行く必要もありません。

北斎は人気の絵師なので研究も進んでおり、この絵がどこから見た富士山を描いたものなのかすでに特定されています。
まずこの「神奈川沖」とは東海道の3番目の宿場町であった神奈川宿のことを指しているそうです。今で言うと神奈川県横浜市神奈川区にあたります。
現代のような埋め立てが進む前、東京湾は神奈川区付近まで広がっていました。
つまり横浜駅周辺やみなとみらい地区は海の中だったのです。

これで場所がはっきりしました。北斎は神奈川区付近から見た富士山を描いたのです。すなわち東京湾から見た富士山です。

東京湾に図のような大波は立ちません。太平洋沿岸ならまだしも、うねりの入ってこない湾という地形は、そもそも波が発生しにくいのです。嵐の時でさえ、このような弧を描くほどの大波は望めないでしょう。
ゆえにサーファーを見かけるのは湘南であって、横浜ではないのです。

ではなぜ北斎は東京湾に巨大な波を描いたのか?
それは北斎自身が海そのものを写実的に描きたかった人ではなく、荒れ狂う潮の流れ、波のうねりを絵で表現したい人だったからでしょう。
その証拠に作品のタイトルこそ「冨嶽三十六景」ですが、主役は富士山ではなくあくまで「波」です。
北斎は生涯を通じて波の表現にこだわり続けました。変幻自在の水の動きを捉えるために、試行錯誤を繰り返します。
そして最晩年の86歳の時、長野県小布施で祭り屋台の天井絵を描きます。

「上町祭り屋台天上絵 女浪(めなみ)図」1845-1848

素晴らしい波のうねりの表現です。渦を巻いています。まるで鳴門の渦潮です。
北斎の波の描写の集大成と言われています。
僕にはこの渦巻きが火焔型土器の胴体部分と重なって見えるのです。
つまり北斎がその生涯を通じてこだわり続けた「波」または水の動きとは、火焔型土器の胴体に描かれた海流と同じ着想から得たモチーフなのではないでしょうか。

考古学からも指摘されているように縄文人は船を使って移動する海洋民族でした。
おそらく彼らは潮の流れや海流をとても重要視していたと思います。そこには水の流れを神聖視する信仰も当然あったことでしょう。やがてその遺伝子が北斎まで引き継がれ、だからこそ江戸に生まれた天才絵師はダイナミックに躍動する波の姿を生涯描き続けたのではないでしょうか。

つまりこういうことです。

縄文の海流信仰を受け継いだ北斎は、波の動きを生涯探求し続けた。

これはあくまで僕の仮説ですが、縄文の精神が脈々と受け継がれ、江戸時代に浮世絵となって甦ったのであれば、芸術とはなんて偉大な人間の営みだと、つくづく感心させられます。

さて、火焔型土器の胴体部分の考察はひとまず決着がつきました。
残るは開口部分の装飾です。今度は別の画像を載せますね。

堂平遺跡発掘 火焔型土器 信濃川火焔街道連携協議会ホームページより

おそらく上部の突起部分が燃え盛る炎を表現しているとみなされて火焔型土器となったのでしょうが、やっぱり僕は腑に落ちません。胴体部分と同じように開口部分の装飾にも「水」が関係していると推理します。

そもそも縄文人はこの火焔型土器でいったい何を表現したかったのでしょうか?

この謎について、僕はある時ひらめきました。それはまったく別の調べ物をしていたときです。

僕は以前、日本の沿岸に沈む海底遺跡を調べていました。
与那国島、熱海、館山、青森など、日本にはいくつもの海底遺跡が存在します。
どの遺跡も詳しい調査は行われておらず、現時点では何も解明されてはいないのですが、その存在自体は確認されています。
これらの海底遺跡の解明が進めば、世界史は大きく書き換えられることになるのでしょうが、いかんせん、現時点では情報が乏しく、今後の調査に期待するしかありません。

与那国島の海底遺跡 気になる趣味あれこれより引用

海底遺跡の考察が情報不足で前に進めず立ち往生している最中、僕はあることにひらめきました。

そもそも海底遺跡とは、海底に造られた遺跡のことを指すのではなく、もともとは陸地にあった場所が海に沈んでしまったから海底遺跡となったのです。

つまり陸地が海に沈むような出来事が、かつてこの島で起こった

ここで僕はあるイメージに気がつきます。
ともかくまずは画像をご覧ください。

これは水面に雫が落ちた瞬間を捉えた写真です。
跳ね返る水飛沫が、火焔型土器の開口部に似ていませんか?
火焔型土器の突起はもっとダイナミックに表現されていますから、
雫ではなく、何か大きな物体が海の底に沈んだ光景を表現しているものと思われます。

その大きな物体とは何か?

仮に陸地ほどの物体が突発的に海に沈んだのだとすれば、海面は荒れ狂い、大きな水柱が立ったことでしょう。それはあたかも燃え盛る炎のように見えたかもしれません。
ここで火焔型土器と日本近海に沈む海底遺跡がつながったのです。

残念ながら与那国島や熱海の海底遺跡がどのような経緯を辿って海の底に沈んだのかはわかっていません。海水面の上昇により徐々に沈んでいった可能性も考えられます。そうなると画像のような水飛沫が海面上で起こるはずもありません。
しかし世界には他にも沈んだ大陸の伝承が語り継がれています。

ムー大陸やアトランティス大陸は一夜にして海に沈んだと言われています。

海底遺跡を調べ、行き詰まる最中で思いついた偶然のひらめき。そこから僕は火焔型土器が表現するのは沈んだ陸地の伝承だと結論づけました。
それは必ずしも日本近海の海底遺跡のことではないのかもしれません。
しかし世界には一夜にして海に沈んだ大陸の伝承が残っています。
縄文人がその伝承を後世に伝えるために火焔型土器を残したのだとすれば、
彼らはその大陸の思想を受け継ぐ民族だったと言えるのではないでしょうか?

縄文人は何らかの意図を持って火焔型土器をデザインしたはずです。
もしもその意図が後世に向けられたものであるならば、現代に生きる僕たちは、残された火焔型土器から何かを汲み取らなければなりません。

僕の考察では火焔型土器とは胴体部分で海流を表現し、開口部の突起は大陸が海に沈んだ時に発生した水柱を象徴的に具現化したものと推定します。
この仮説が正しければ、縄文人は沈んだ大陸の思想を受け継ぐ存在であり、その痕跡を後世に伝えようとしたことが連想できます。

縄文人が我々に伝えようとした、海に沈んだ大陸の伝承。
僕にとって今後の大きな研究課題となりました。

ちなみにこれはただの勘ですが、江戸時代は縄文時代に近い時代だったのではいないかと個人的に思っています。たまに落語を聞きますが、なんとなく縄文の息吹のようなものを感じるんですよね。
そんな江戸時代に突如現れた葛飾北斎。
これは歴史の因果か必然か。
いずれにせよ縄文の精神は途切れていません。連綿と記憶の中で続いています。

長い歴史を持つこの島で、その時々の為政者が何度歴史を書き換えようと、人々の心の奥底までは、そう簡単に塗り替えられるものではありません。
芸術とは心の根底にある感情を形象化したものがほとんどです。

北斎が為した偉業とは、人々が忘れそうになっていた記憶の断片、あるいはモノクロにかすれてしまった思い出に再び鮮やかな色を塗り、躍動を与えたことにあるのかもしれません。 

僕は芸術家を愛しています。彼らは権力によって消されようとする感情を救い出し、ありとあらゆる表現方法を駆使して、現実世界に召喚します。

そんな彼らの表現に、僕の心はいつもときめいてしまうのです。

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