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子供の感性から学んだ夜

※この記事は2015年03月30日 のブログです

昨夜テレビを点けると、3.11の地震と津波を経験した中学生にスポットをあてた「命と向き合う教室」という番組が放送されていました。

3.11があったとき、生徒達はまだ小学生。今は中学3年生になりました。

担任の先生が「命と向き合う教室」と名付け、生徒は作文を書きます。

みんなに知らせてもよいと承諾を得て、先生が一人の生徒に、
自分が書いた作文をクラスみんなの前で読むよう促しました。

その生徒(仮にA君とします)は津波によって、
目の前でお母さんとお姉さんを亡くしました。

お姉さんがお母さんを懸命に助けようとしていたそうです。
そのとき自分は足が動かず何も出来なかった、と作文の中で打ち明けました。

A君は津波で家族を失った事をクラスメートに話していなかったそうです。

彼はこの4年の間に、
「死んだのがお姉ちゃんでなく、自分だったら良かったのに」と
繰り返し考えてきたと言います。

僕は生きていても、誰の役にも立てないから。

彼はそんなビリーフ(思い込み)を作ってしまったのです。

観ていて、私は涙が止まりませんでした。

今は中学3年生となったとは言え、私から見れば彼らはまだ”小さな子供”です。

その小さな心でいったいどれだけの苦痛を味わい、悲しみを受け入れ、
そしてどのように涙を拭きながら日常に戻ってきたのだろうと考えると、
胸が張り裂けるような思いでした。

私は対人援助者として、3.11の後には無料カウンセリングを受ける等、自分に出来る事で貢献したいと励みましたが、他にすべき事があったのではないか?と思いました。

大人よりも子供をケアすべきだったのではないか、と。



災害時の心のケアが必要だと言われたのは1995年の阪神大震災があった後。
知る限り、初めて社会が「心」の存在を認めてくれた、それぐらい大きな出来事でした。
当時私はまだカウンセラーになろうとは露ほどにも考えていませんでしたが、災害時のメンタルケアについて強い興味を持ち、国内ではまだ少なかった本や、海外のレポートを読んでいました。

その後、導きに従ってカウンセラーとなって学ぶうち、
子供のトラウマは大人のそれとは異なる構造を持って形成されることを知りました。

阪神大震災から数年して、今でも忘れられないインタビューがあります。

震災で母親と弟を亡くした高校生の女の子。
発災時は小学校の高学年でした。
今まで誰にも言ってこなかったことがあると、インタビューで初めて心の内を吐露しました。

地震があった前夜。
彼女は弟と、些細な事で兄弟喧嘩したそうです。

そして仲直りすることなく眠りに就いた後で、地震に見舞われたのです。

インタビューで、彼女は泣きながら答えていました。

「私が悪い子だったから、天罰が下ったんだ。
私のせいで、お母さんと弟が死んでしまった」と。

子どもは大人から見れば理不尽とも言えるストーリーを作り上げ、
自分を責める形で「原因」と「結果」を結び付けしまう傾向があります。

また子供は心の内を説明するに十分なボキャブラリを持たないこともあって、そばにいる大人が気付いてやれない苦悩を抱えていることがあります。

こうしたことから、心のケアは大人に対するものと子供に対するものとでは全く違うアプローチが必要なのです。


3.11で被災したA君が作文を読み上げた後で、クラス全員が感想を作文に綴り発表しました。

「A君ちに遊びに行った時の帰り道。
一緒に行った友達と、A君にはお母さんがいないんじゃないかって話しました。遊びに行ったとき、お母さんが出てこなかったし、仏壇に、お母さんらしき人の写真があったからです。

でも僕はそれをA君に確かめることはできませんでした。

なんだかわからないけど、A君に申し訳ないような気持ちがしたからです・・・」


ここでまた、私は号泣。

子供は子供の感性で、最善と思える配慮をして友達と接しているのです。

人の思いやりや気遣いは、いつの頃から育まれるものなのでしょうか。
いかに形成されるものなのでしょう。

精一杯の気遣いと思いやりでA君に接している生徒の姿に、私は感動しました。


両親を、津波で失った女子生徒も紹介されていました。

祖母に引き取られ、明るく元気に活発に過ごしていますが、
教師達が話をしようと声を掛けるが「大丈夫」と言って、
話し合いを拒否し続けていると言います。

その彼女がA君の作文に触発されて、初めて心の内を作文にぶつけました。

繰り返し、両親が夢に出てくること。
会いたくてたまらないこと。

人知れず、一人で泣いてきたこと。
おばあちゃんにも言えなかったこと。
誰にも助けて、と言えなかったこと。

助けを求めることは、迷惑をかけることだと思っていること。
人に迷惑をかけるのは絶対イヤと思っていること。


「強さというものは、脆(もろ)さの裏返しなのかもしれない」。
私はそんなふうに感じました。

表面的な立ち振る舞いや言動だけで人を判断することは、とても危険です。

話はそれますが、カウンセラーの資質として必ず必要なことで、
私が最も大事にしていることは『自己一致』です。

簡単に申せば、「あるがままの自分」を認め、尊重できているか、という事。
知識として理解できていても、実践できる人はごく僅かではないかと思います。

人は、ただ一つの人格で構成されていると思われがちで、
「〇〇さんはこういう人よね」と一言でまとめられがちだけれど、
「本音と建て前」に代表されるように心の内側は複雑です。

社会に適応するために役割に応じた顔を持って使い分けているのが普通で、
それを「ペルソナ(仮面)」と言います。
母としての自分、妻としての自分、嫁としての自分など、その時々に合わせて自分を使い分けて表現しており、私たちはとても器用で、良くも悪くも計算高くもあります。

20年以上も前に読んだ中に、『24人のビリーミリガン(ダニエル・キース著)』という本がありました。

今で言う「解離性同一障害」、昔は「多重人格」と呼んでいましたが、
主人公のビリーは幼少時の虐待を機に、一人の肉体に24人もの人格が出来上がっていったという実際にあった話を物語にしたものです。

24人の人格の中には、男性あり、女性あり、大人あり、子供あり、国籍もまちまち、話す言語も異なり、趣味や特技さえ異なります。

解離性同一障害は実に興味深いもので、複数の人格は電気のスイッチをON/OFFするように簡単に切り替わり、切り替わった時には、他の人格を記憶していないのが一般的です。

様々な言語や趣味、特技を持つことは、ビリー本人が知らない別の人格のときに学習されたものです。

「ビリー」はカウンセラーのサポートで治療を続けていくうち、24人のすべての人格を知って統括している人格、「アーサー」が存在していることが明らかになり、解離性同一性障害はその人格を見つけるのが治療の第一歩であるというのが20年前の定説でした。

・・・と、だいぶ脱線しましたが、自己一致とは、このアーサーになり得るようなものだと言っても良いかと思います。

色々なペルソナや本音や建て前がある中でも、それらを自分の意思で作り出していることを理解し、どの自分であっても愛で満たし、すべてが自分であることを肯定する。

つまり、絶対的な自己理解を持って、存在することが自己一致。

ただしこれはあくまで3次元の世界での振る舞い。

もっと高い次元から見れば外側の世界に合わせて自分を表現する必要はなく、自己は一致させるものでなく、それ以前に唯一の自己としてただ存在するのがアセンションの流れかと思います。



「命と向き合う教室」では、「死にたい」と思っている他の女子生徒の作文が紹介されました。

両親が離婚して新しいお母さんがいる家の中に、自分の居場所が無いと言うのです。

また家に自分がいることが、家族へ迷惑をかけていると。

霊視してみると、それは彼女の思い込みであるのがわかりました。

両親の離婚が子供に与える影響が大きい事は言うまでもありませんが、
だからと言って死を選ぶことは乖離した考えです。

深い悩みを持っているときには、黒か白かといった両極端なところに意識が向かいがちです。
しかし実際には、黒と白の間に灰色の部分があり、さらに灰色の濃淡の数だけ解決のバリエーションがあることを私たちは知っておきたいところです。

とても感慨深い感動的な番組だったので、もっといろいろシェアしたいところですが、今日はこのあたりでとどめておきますが、最後に1つだけ。

私が「日本人にあればいいのに」と思うこと、それはハグです。

「命と向き合う教室」でも、子供たちや先生から目の前の人が困っているとき、悲しんでいるときに、「なんと声を掛けてあげればいいか分からない」「言葉が見つからない」と聞かれました。

気持ちを言葉にするのはとても意義のある事ですが、
言葉は発した人の感性でなく、受け取った人の感性でキャッチされます。

時に、発した側の意図が伝わらないケースもままあります。

その逆もあるでしょうが。

なんと声を掛けていいかわからないから声を掛けないとあっては、
伝えたい気持ちが行き場を無くしてしまいます。

そんなとき、ただハグするだけで伝わることがあります。

ハグするのが気恥ずかしいのであれば、手を握る、目を見てうなずく、
背中の中心を上下にさすってあげる、といった事もできます。

もしその瞬間には気持ちを伝えられなくても、あとで気持ちを伝えることもできます。

時を逃して今更言いづらいと思いがちで言葉を飲み込むこともありますが、心を伝えるのに案外時間は関係ないと思っています。

タイミングよりも、相手を思う気持ちを優先したいものです。

こちらの番組のエンディングは、生徒の卒業式でした。

両親が離婚して死にたいと言っていた女子生徒も映し出されていましたが、そこには新しいお母さんがお祝いに駆けつけており、女子生徒自身はつらい思いを言葉にして吹っ切れたのか、とても嬉しそうでした。


「話す」は「(手)放す」こと、と私はよく言うのですが、
話を聴いてもらうことで前に進む奇跡を私自身も経験しているし、
自分のカウンセリングがそういう場でありたいと思っています。


子供の心が成長していくように、私自身もいつまでも心を成長させていきたいと願う49度目の春です。

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