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『最善』を記憶する細胞

 今日すべきことに専念することができず、明日に回そうとすることは誰にも経験のあることだと思う。
そして翌日、やっぱり気乗りせず、あるいは何らかの事情でまた先送りにすることがある。
 私は現在、ヤングケアラーの啓発活動や防災活動についても行っており、講師やスピーカーとして出演を依頼されることがある。
何カ月も前から依頼されているのだから着々と準備すればいいものを、そうしたことに積極的に取り組めた試しがない。
いや、取り組んだものの、前もって資料が完成させられたことが無いと言うべきか。
膨大な時間をかけて何パターンものプレゼン資料を用意したこともあるが、それらが日の目を見たことはほとんど無い。
 ではどうしたかと言えば、プレゼンの前日、あるいは当日、きわめてギリギリのタイミングで辛うじて仕上がったものを採用する。
これは私の計画性の無さや集中力の問題であるかもしれないけれど、内側の部分で理由が分かっていて、どうしようもなく抵抗できない部分でもある。

 さきほどプレゼン資料はギリギリのタイミングで仕上げたものを採用したと書いたが、正確に言うと、それを用いても予定通りにはいかない。
話している中で、聴いてくれている人たちのニーズや「上」から降りて来るインスピレーションをキャッチすると、自覚のないままに口が勝手に話し出すという始末。
それならば最初から原稿や資料などは必要ないじゃないか、と思うけれど、これが私の煮え切らないところ。
何も用意せず「丸腰」で舞台に立つ度胸が無いのだ。
少しずつ慣れてきたとはいえ、私は人前で話すことが苦手だ。
人前で話すことが楽しくて仕方ないという人たちがいる一方で、私がその域に入っていくのはもう少し時間がかかると思う。
 
 人によっては「あの時、もっとあぁすればよかった」「なぜあんなふうに言ってしまったのだろう」と振り返って反省する。
その反省をもとに、よりよい方向に進めると信じている人も多いことだろう。
しかし私の場合には「反省」することは無い。
反省したくとも、自分が何を言ったか、どう表現していたか記憶にないからだ。
そしてもう一つ。
いくら反省しても後悔しても、「やり直すことはできない」と分かっている。
この次元には「可能」なことと「不可能」なことがあり、やり直すことは後者だ。
だから起きたことに「たられば」を付け加えるような、時間もエネルギーも使う必要がないと思っている。
自分では100点満点を付けられなかったとしても、その時には間違いなく「最善」を尽くしたのだ。それを認めよう。
「いや、私はもっとできたはずだ」と考えるのは「最高」を目指した結果だ。「最高」は終わりの無い旅。今日の98点の価値が明日の98点と同じとは言えない。最高を目指し出すと、永遠に満点に出会えなくなる。
最高でなく最善を尽くすことに専念する。
最善を経験したからこそ、次回につながるヒントが生まれる。
それこそがギフトだ。
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 私たちは1日に数えきれないほどの選択をしている。
目覚めてすぐに何をするか、昼食に何を食べるか、どのタイミングで休憩をとるか、誰と会っているときに幸せを感じるか。
生きることは選択することだ、と言っても過言ではない。
その一つ一つが正しい選択であったのかどうか、振り返ったところでやり直せない。
あとで明らかに選択をミスしたと思う時があったとしても、別な選択をしていたところで後悔しないと言い切れるだろうか。
選ばなかった選択肢はパラレルワールドで展開しているのだから、そちらの自分にまかせておけばいい。

 後悔をもって先の人生を進むか、最善の自分を受け入れて進むのかは、まるで次元が違う。
今、望まない時間を進んでいると思うのであれば、日々の小さな選択を無意識や習慣でなく、意識的にしていくことだ。
今の自分は最善の積み重ねによって存在している。
最善の定義は他ならぬ自分によって日々更新され、細胞に記憶される。
迷う時が来たら、目を閉じて一つ一つの細胞を感じてみよう。
思いがけないメッセージをキャッチできるかもしれない。




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