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自分に付けるタイトル

※この記事は2016/1/30のものです

伯父が亡くなりました。

菊の花が大好きだったそうです。

お正月に古い写真を整理していたとき、彼の屈託のない笑顔の写真が目に留まりました。
そしてなぜだか、目を離すことができませんでした。

私が生まれる前の、若い頃の彼。
まだ20代だったのかな。

それから数えきれないぐらい色々なことがあったであろうけれど、
彼を思い出すときにはいつもこの笑顔しか思い浮かびません。

私と同い年の息子がいたけれど、10歳を迎える頃、
闘病の末に亡くしました。

そんな経験をしてもなお、あの笑顔で人と接することができたのは
彼の強さでもあり、哀しみを振り払う代償行動だったのかもしれません。



2週間程前。

入院先の病院で体調が悪化し、医者から
「ここ2-3日が山です。覚悟をするように」と言われたと、
伯母から電話がありました。

集中治療室に入っていて、家族であっても面会が出来ない。

もうお坊さんも手配したから。
だからお見舞いは来なくていいよ、と。



連絡をもらって2日後。

「今日なら会える!」

朝からそんな予感がして、両親と叔父・叔母を伴って病院へ向かいました。

到着すると、まだ予断は許さないけれど、今日なら面会も可能とのこと。

ベッドに横たわり、眠っている伯父。

私はみんなに「話しかけてあげて」と促し、思い思いに声を掛け始めると、反応が見られました。

少しだけ首を動かし、懸命に目を開けようとする。

何か言いたいのか、顎を動かすけれど声にはなりません。

私は見舞っている間、彼の肩に触れてヒーリングを行いました。

ドクドクと、ものすごい勢いでエネルギーが流れていき、次第に頬に赤みがさしてきました。

「もっと生きたい」という反応なのかな?

そう思うと同時に、「もう逝きたい」と思っているとしたならば、
私はヒーリングしていいのだろうか?と疑問も湧きました。

伯父のガイド(守護霊)に聞いてみようという気持ちにはならず、
ただ姪の立場として「生きて欲しい!」と願った私は、
帰ってからも遠隔でエネルギーを送りました。



それから2日後。

伯母から電話があり、伯父がすっかり元気になったと朗報を聞きました。

よかった。

眠っているよりも、彼には断然笑顔が似合う!

彼の屈託のない笑顔は、周りもつられて笑顔になってしまうほど。

笑顔の力は大きい。



しかし10日ほどして、再び体調を崩した伯父は、
伯母に見守られながら天国へ旅に出たのです。



折りしも先週。

(毎度おなじみ)並木先生の個人セッションがあったので、
ヒーリングについて聞いてみました。

「伯父にヒーリングしたのだけど、そうしながら、もしかして、もう逝きたいと願っているんじゃないかって思ったの。そういう人に対して、私はヒーリングしてよかったのかな?」。

並木先生の答え。

「ヒーリングは、(※ヒーリーの)最善を引き出すためにするんだよ」。

※癒しを与える側をヒーラーとした時、ヒーリーとは、癒しを受ける側。



私は自分で言うのも恐縮ですが、卓越したヒーリングの力を与えられたと思っています。

そしてこの力は、神様からのギフトだと思っています。

今まで数えきれないぐらい大勢の人の心やケガ、病気の治癒にヒーリングを行ってきたけれど、この力がどこから来て、どのように作用しているのか、あまり考えたことはありませんでした。

私はただ宇宙エネルギーを自分の肉体に取り込んで流すだけ。
それはお役目だから、意味を知る必要性を感じていなかったのです。

ヒーリングすることによってヒーリーの自然治癒力を高めていると思うぐらいで、作用の仕方はヒーリーが自由に受け取っていいとし、私自身は意図することなく無心でエネルギーを送るのを好んでいました。

でも並木先生の「ヒーリングは最善を引き出す」という一言は、これまで私がうやむやにしてきたヒーリングの行為に、確固たる目的を与えてくれたように思います。



このように日常の行為や、自分の信念、価値観など、自分にとっては当たり前の事をあえて『言葉』にして問い直すことはとても重要だと思います。

無意識のものを意識化するのです。

言葉にすることで、まず誰かに伝えやすくなり、理解や共有化するのに役立ちます。

また意識化するとそれがきっかけとなり、進まなかった思考や行動が急に動き出すことに繋がる場合も多々あります。

こんなふうに、無数の目に見えないものを言語化した集大成に、本来の『自分』というものが確立するのかもしれません。



私の伯父は、『底抜けに明るく、笑顔の人』でした。

明るく振舞えないときも、笑顔になれないときもあったでしょうけれど、結局のところ、死をもっても彼の本質を取り上げることはできなかっただろうと思います。

この先何年経っても、少なくとも私は彼を『底抜けに明るく笑顔の人』と呼び讃え続けると思います。

この形容詞(タイトル)は、彼の生き様であり、彼が生きた証です。

亡くなってもなお、彼の笑顔は私を楽しい気分にしてくれる。

出会えたことに感謝します。

おじさん、ありがとう。



さて。あなたはこの人生をどのように生きますか?

あなたの生きる様がタイトルになるとしたら、あなたは何と呼ばれたいでしょうか?

呼ばれたいように生きてみる。

これもまた真理であろうと思います。


私?

私は「変わらず、変わり続ける人」、かな。

それとも「生き生きと、チャレンジをやめない人」?

今夜、夢の中で考えてみようと思います。


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