2024年7月2日の日記

 孤独やって気付いた。駅のマツキヨで最近の音楽が聞こえてきて歌詞がめっちゃきつかった。こういうことはよくある。会社の人と合わないのもそうやし、街中の人の雰囲気にも合わない。感情を抑圧して限られた範囲で今を楽しんでいるという「陽気なロボット」とか関係なかった。そのへんの人みんな、根底には生きるのが楽しい、幸せだという思いがあるんだろうなと思った。生きるのは苦しいとか、つらいことが多いって人も何人か見たし、共感もし合ってきたけど、最近は人とそういう話ができていない。本も読めてないし、映画も見れていない。最後に読み終えたのは、1ヶ月くらい前だけど、ドストエフスキーの『地下室の手記』。この感想がとても良かった。感想を色々調べていたけど、わたしの思ったことを言語化してくれているというか、これを見てたしかにそうだったなと気付いたところがあった。


 生きるのはつらいとは思うけど、反出生なわけではなかった。シオランの思想を書いた、大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに』を読んだことがあったが、そこまで共感できるほどではなかった。シオランには、二階堂奥歯の書いている、この文章と同じような感情を抱く。

2002年1月14日(月)

にわかにシオランを読みたくなって地元の芳林堂に買いにいく。

私は生きていることに絶望などしない。なぜなら希望を持っていないから。
それは生を悪いものとして低く評価しているということではなくて、評価をしていないということである。
生を呪うのは裏切られた者だけで、そして裏切られるのは信じていた者だけなのだ。

生自体には根拠も目的もないということを自明のものとした上で、「あー! ○○ほしい!」「××したい!」という小さな(長いスパンのものも、短いスパンのものもある)欲望に引っ張られて私は日々をすごしている。
(それらは「○○を手に入れるまでは生きていよう」「××するまでは生きていよう」ということと同義だ)。

徹底的な絶望から生まれたものは、余計な夢や望みを脱ぎすてているから遠くまでいける。
そして純粋な絶望を書いたものは少ない。
絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。

シオランの文章だって大部分はそうだ。それが鼻についてもう何年もシオランを読もうとは思わなかったのだけど。



さてそれではなぜ今シオランを読みたくなったかというと、おそらく体調が悪いからなのです。
人間はまず第一にケミカルな機械なのであって、思考の独立性など願望でしかありません。身体の調子によって簡単にバイアスがかかってしまいます。
落ち込んだらまずするべきことはお風呂に入って暖まったり、ロイヤルミルクティを飲んでなごみつつカルシウムを補給することなのです。考え事をするくらい無益なことはありません。気持ちに基礎体力がないと楽な方に楽な方に流れてしまうからです。(もちろん悲嘆にくれたりくよくよ悩んだりするのは楽な方です)。

シオランなど読んでいるひまがあったら、風邪薬を飲んで寝るべきです。
ところで装丁が一番ひどい『生誕の災厄』(紀伊国屋書店)が一番中身が鋭いのではないかと思います。

http://oquba.world.coocan.jp/notes/oquba083.html


「絶望はすぐに自己憐憫と結びつき、自己憐憫という甘美な夢は思考を鈍らせてしまう。」たしかにそうだなと思う。

 人生で楽しい時期もあったし、みんなみたいに幸せに生きられるんなら幸せに生きたい。お金がほしい。無理ならせめて共有したい。とりあえず時間ができたら本読もうと思う。

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