樋口恭介〈生きること、その不可避な売春性に対する抵抗──マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』〉(『すべて名もなき未来』より)

2020年にSF作家の樋口恭介さんの『すべて名もなき未来』という評論集を読みました。その中でも、マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』を評している章が印象深くて、感動しました。その章の全文はこちらに載っていたので良かったら読んでみてください。


 本書は、古典的とも言える資本主義への認識──自己保存と自己拡張を永久に繰り返すシステムであること──を再確認し、資本主義があらゆる事象に浸透していった過程とその結果、資本主義のオルタナティブについての思考することさえも奪われた、出口のない現代について描出する。「資本主義リアリズムとは、「資本主義が唯一の存続可能な政治・経済的制度であるのみならず、今やそれに対する論理一貫した代替物を想像することすら不可能だ、という意識が蔓延した状態」のこと」なのであり、それは自らを普遍的な法則として定義し、私たちにそれに従うことを求める。

それはまさにミシェル・ウエルベックが描く「拡大する闘争領域」のように、変幻自在に姿形を変えながらあらゆる場所に浸透し、拡大し、私たちに「あらゆる分野での闘争」と「勝利のための不断の努力」、それからそうした「闘争領域」への参加に対する「服従」を強いるものだ。

(中略)

「資本主義リアリズム」とは要するに、生きることの不可避な売春性について、不可避であると信じさせられていることを指す。

そして『資本主義リアリズム』という本は、そうしたリアリズムの欺瞞を暴く/暴こうとする──抵抗のための書物である。

樋口恭介「すべて名もなき未来」晶文社、2020年、65-66頁。


これを読んで初めて気づいたのかどうか忘れましたが、こういう、今の社会の構造的な問題を指摘する考えを知るまでは、何も疑うことなく生きていました。その社会でうまくいかないことが多かったので、こういう視点を知れてかなり楽になりました。
 でも今のシステムで何の問題もなく生きていたり、成功したりしている人は、「へえ…こういう考え方もあるんや」くらいにしか思わないかもしれないです。むしろ、怒るまであるかも。「自分は自分の力でここまでやってきた」と思っている人は、自分の努力を否定されたような気持ちになって抗議したり、現状の制度に意義を申し立てることに冷笑的な態度を示すかもしれません。

また、次に引用する箇所ではうつと資本主義との関係が述べられています。

メンタルヘルスとセルフ・ヘルプの精神

生前、フィッシャーは重い鬱病を患っていた。生涯を通して希死念慮と戦っていた。彼はメンタルヘルスと資本主義の関係について考えていた。彼は鬱とともに生き、彼は鬱とともに、資本主義の時代に生きることの、その不可避な売春性について書き続けていた。
「メンタルヘルスはなぜ政治的課題か(Why mental health is a political issue)」と題された論考で、彼は「鬱病の増加は、現代を覆うアントレプレナーシップの負の側面だ」と書いている。「自主自立の精神を強要された者が、突き進んでいった先で壁にぶち当たったとき、何が起こるだろうか──誰も助けてはくれない。与えられるのは非難だけだ。オリバー・ジェームスの『利己的な資本主義者』にあるとおり、アントレプレナーシップのファンタジーに覆われた世界では、勝者だけが存在価値があるのだと教えられる。そして、勝者には誰もが──身分や民族やあらゆる社会的背景は関係なしに──努力次第でなれるのだと教えられる。勝てなければ孤独と非難が待っている。そして今や、あらゆる場所で同様の構造が見られるようになっている。今やストレスさえもが民営化されている。私たちはそうしたストレスの民営化に抵抗し、メンタルヘルスを政治的課題として認識し、強く訴え続けていかなければならない」

同書、69-70頁。

自主自立の精神を強要される環境では、すべてのことは自己責任であり、誰も助けてくれない、それ以外に道はないと思わされます。わたしもずっとその価値観で生きてきたので、何もかもうまくいかなくて、自分も悪いし、社会からも否定されているし、自殺するべきなのかと思っていました(最近はつらくても全然そこまで思わなくなりましたが)。

現代の鬱病に関する研究は、鬱病が「気の病い」ではなく「脳の病い」であると──脳内における物質論へと「素朴に」還元しうるのだと──今なお盛んに主張している。現代の鬱病の臨床・研究現場は、「モノアミン仮説」と呼ばれる仮説──鬱病とは、神経伝達物質のうち、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンといった、モノアミン類と呼ばれる物質の均衡が、一時的に崩れることによって発生する病いであるという仮説──に、ほぼ支配的に覆われている。心療内科や精神科に行って鬱病と診断されれば、レクサプロなどの抗鬱剤が処方される。神経伝達物質の量によって病いが引き起こされているのならば、薬によって神経伝達物質の量を操作すればよい、というわけだ。本書においてもフィッシャーは、メンタルヘルスについて多くの言を費やしている。たとえばそれは次のようなものだ。

現在において支配的な存在論では、精神障害に社会的な原因を見出すあらゆる可能性が否定される。この精神障害を化学・生物学化していく潮流はもちろん、精神障害の脱政治化と厳密に相関している。精神障害を個人の化学的・生物学的問題とみなすことで、資本主義は莫大な利点を得るのだ。第一にそれは、個人を孤立化させようとする資本の傾向を強化させる(あなたが病気なのはあなたの脳内にある化学物質のせいです)。第二にそれは、大手の多国籍製薬企業が薬剤を売りさばくことのできる、極めて利益性の高い市場を提供する(私たちの抗鬱薬SSRIはあなたを治療することができます)。すべての精神障害が神経学的な仕組みによって発生することは論を俟たないが、だからといってこのことはその原因について説明するものではない。例えば、鬱病はセロトニン濃度の低下によって引き起こされるという主張が正しいとすれば、なぜ、特定の個人においてセロトニン濃度が低下するのかが説明されなければならない。そのためには社会的・政治的な説明が求められるのである。そしてもし左派が資本主義リアリズムに異議申し立てを試みたいのであれば、精神障害を再政治化していくことが緊急の課題になるだろう。

同書、69-71頁。


神経伝達物質の均衡が崩れたとしても、「なぜ神経伝達物質の均衡が崩れたのか」ということは考慮されない。それが引き起こされた契機──資本から要請されてのあからさまな過労、あるいは親しい人々との別れや出会いのようなライフイベント──が、十分に取り扱われているとは言いがたい。人生の苦難にともなう不安感や焦燥感、無力感や絶望も、鬱病の発症の大きな要因となっているには違いない。
しかしながら──鬱病は明らかに個人と社会との摩擦によって引き起こされるものであるにも関わらず──精神科医療は、鬱と社会的・社会心理的要因との因果関係ないし、関連について検討することはない。患者の直面する根本的な問題に対処する、あるいは対処を支援する姿勢はほとんど見られない。それは彼らに与えられた仕事が「病気を治す」ものなのだから当然で、彼らからすれば「社会課題について考察するのは自分たちの仕事ではない」ということになる。壊れたネジを直してふたたび工場に届けるのが彼らの仕事なら、ネジが壊れる工場で何が起きているかなど、彼らが知ることもなければ知る必要もない。ネジは壊れ、彼らは直し、直したネジを工場に送り返す。ネジはふたたび壊れ、彼らはふたたび直し、ふたたび工場に送り返す。ネジは壊れる。彼らは直す。ネジは壊れる。繰り返し。

同書、71-72頁。

 大学4回生の頃、抑うつ症状を根本的に治したいと思って本を探していましたが、認知行動療法や考え方を変える、「自己肯定感」を養う、という内容が多くて、社会に問題があるというところには考えが至らなかったというか、それに結びつくようなラインがそのとき全く見当たりませんでした。
 うつ病の治療のプログラムみたいなのを本でやっているときも、たしかに脳の病気とか、脳内物質が云々というふうに書かれていて、「セロトニンを生成するために朝はやく起きて散歩してみましょう」みたいな感じでした。

 微妙なエピソードすぎて何と説明していいかわからないのですが、以前会社の研修で初対面の人5人くらいとグループワークをしていたときに、一人の男性が精神的につらそうで、時折何か言っていて(内容は覚えていませんが)それに対して一人の女性が「おいしいもの食べて元気出して」というようなことを言っていて、認識の違いを感じました。また、個人的に関わった人でも、わたしがかなり憂鬱だと言うと「温かいお風呂に入ってたくさん寝る」ことが最適だと言われました(あまり心の通じた話はできませんでした)。対処療法や物質的なもので解決するのはたしかに大事なことですが、何がつらいことかを具体的に明らかにして、次にその事象は社会や思想や国家など、何かしらの大きい構造の中での問題かを考えるとより問題が明確になるかもしれません。

 最近久々に精神科に行ったとき、初回はカウンセリングしてくれて、「夜鍵が閉まっているか気になりますか?」みたいな質問にいくつか答えていって、結局「社交不安障害」傾向があるかもしれないと言われましたが、これも形式的に当てはめて薬を処方しているだけかもしれないと今思いました。でもわたしは精神科は薬を出すところだと思っているので、そのこと自体は全然問題ないと思います。けど、精神科で根本的に解決できないなら、ここでも述べられているように政治的な問題として取り上げていくべきたと思いました。『社会学的想像力』(最近そればかりですみません)でも、社会学者の役割として以下のことが述べられています。

・・・まったく致命的な無関心に直面することである。そのため私たちは、論争的な理論と事実を意識的に提示して、積極的に論争を促す必要がある。広範で開かれており情報に基づく政治的討論が欠如しているため、人々は自分の世界に影響する現実にも自分自身の現実にも触れることができない。とりわけ今日においては、私が述べてきた役割には、現実そのものについて対立する定義を提示することまで求められるように、私には思われる。通常「プロパガンダ」と呼ばれるもの、特にナショナリズム的な種類のそれは、多様なトピックと論点についての意見のみから成り立つわけではない。かつてポール・ケチケメーティ (Paul Kecskemeti)が指摘したように、それは現実をめぐる公式の定義の宣伝なのである。
 いまや私たちの公的生活は、神話や嘘、ばかげた意見だけでなく、そのような公式の定
義にも左右される。多くの政策―議論されるものもされないものもあるが不適切で誤解させるような現実の定義に基づいているときには、現実をより適切に定義しようとする人は騒ぎを起こす人であらざるを得ない。それゆえ、私が述べたような種類の公衆は、個性をもつ人々と同様、そのような社会に存在すること自体がラディカルである。けれども、精神や研究、知性、理性、観念の役割とはそういうこと、つまり適切かつ公的に意味のあるやり方で現実を定義するということである。 民主主義における社会科学の教育的・政治的役割は、個人的・社会的現実の適切な定義を展開して、それを受け入れ、それに従って行動する公衆と諸個人を啓発して支えることである。

C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』、320-321頁。


 また戻りますが、「資本主義リアリズム」は一つの思想に過ぎず、虚構であることが示されます。

サッチャー以降の世界では、そうした問題は社会的に解決されるものではなく、あるいは他者の支援を必要とするものではなく、「セルフ・ヘルプ=自助努力」によって解決されるものだとされた。
健康を崩すのはセルフケアが足りていないのである。成功できないのは自己啓発が足りていないのである。あらゆるものごとにはマネジメントが適用され、マネジメントによって成功に導かれる。そうでなければマネジメントが足りていない。マネジメント・スキルが足りていない──スキルとは努力によって身につけられるものであり、スキルが足りていないということは要するに、あなたの努力が足りていない──のだ。
人生の失敗はすべて自己責任であり、患者が鬱病になったのは自己責任であり、それは自助努力によって解消されるものである──資本主義リアリズムの中で幾度も反復されるあの言葉が、ふたたびここでも反復される──「自分が変われば世界が変わる」のだと。
反復されるその声は、資本主義を駆動する原理でもある。サッチャーはその原理を完全に理解し、完全に信仰し、自国民にもその信仰を強いた政治家だった。その原理は古くから、プロテスタンティズムと呼ばれている。そして「資本主義リアリズム」とは、プロテスタンティズムの現代版──ポップなアップデート版であるのだと筆者は理解している。

サッチャーは敬虔なプロテスタントの家庭で生まれ育った。マックス・ヴェーバーの古典『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』によれば、プロテスタントたちの勤勉で質素な精神──まさにセルフ・ヘルプに重きを置く、自罰的で合理至上主義的で個人の努力を尊ぶ思想──こそが資本主義を生んだのだという。サッチャーは、まさしくヴェーバーの分析の通り、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に骨の髄まで浸りきり、そしてそれを社会に敷衍させたのだと言える。

資本主義リアリズム。
プロテスタンティズムはそう名前を変えて、今なお健在で、「リアリズム=現実主義」となってさらに強化され拡大されている。
そこでは怠惰であることは許されない。非合理的であることは許されない。他者に助けを求めることは許されない。代替案は存在しない。逃げ道はない。すべての失敗は自業自得であり、そして失敗は許されない。成功することだけが成功することとして見なされ、成功することだけが許容される。そこでは、資本主義への貢献だけが人生の成功として許容される──私たちは「資本主義リアリズム」の中で、そう思い込まされている。
無限の競争の中で敗者が生まれ、敗者は退場を余儀なくされる。敗者は諦観に苛まれている。無能感に苛まれている。絶望だけが口を開けて待っている。自殺者が増えている。現実はそこにしかない。現実はそうでしかありえない。「自分が変わることで世界を変える」しか、生き残る道は用意されていない──それが「資本主義リアリズム」だ。
しかしながら、それは現実(リアル)そのものではなく現実主義(リアリズム)なのであり、一つの主義=思想である。そしてそれは言い換えれば一つの信仰にすぎない。プロテスタンティズムが一つの信仰であるように。
あるいはそれ自体が、一つの病いであるととらえることもできるだろう。

同書、72-74頁。


 「自分が変われば世界が変わる」たいていの自己啓発本はそうしたテーマが背景にあるように思えます。
 かつては資本主義(自助努力の精神)しかない、というかそれしか知りませんでしたが、それが一つの思想に過ぎないと当然のように思えるようになって良かったです。

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