木村敏『異常の構造』②

以前も言及していた『異常の構造』ですが、また読み返していて、どこを読んでも金言ばかりでもはや全文紹介したくなりました。この1冊読んだだけで大ファンになりました。

下記のあとがきで書かれていることに木村敏さんののメッセージが集約されていますが、基本的に自身を「正常」と認識して「異常な人」よりも優れていると認識しがちな大衆の傾向を批判的にみていて(というか逆に、異常だと思って生きている人へのまなざしがやさしいのかもしれませんが)、自分自身のことも反省されています。そして大衆が絶対的な信頼を置いている正常や合理性の虚構を暴いています。

かつてクルト・コレ〔一八九八―一九七五年〕
は、精神分裂病〔現在の呼称では「統合失調症」を「デルフォイの神託」にたとえた。私にとっても、分裂病は人間の智恵をもってしては永久に解くことのできぬ謎であるような気がする。分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす 「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。
私は本書を、私が精神科医となって以来の十七年余の間に私と親しくつきあってくれた多数の分裂病患者たちへの、私の友情のしるしとして書いた。そこには、私がしょせん「正常人」でしかありえなかったことに対する罪ほろぼしの意味も含まれている。

木村敏『異常の構造』講談社学術文庫、178頁。


ぱらぱらと読み返していて、よかったところをいくつか紹介したいと思います。気になったらぜひ買って読んで頂きたいです!

知能指数の異常を脳重量の例にならって純粋に量的な平均値からの逸脱という意味に解すと、右にあげた正常知能より以下の知能しかもたない人の場合はともかくとして、平均以上の高い知能の持ち主も異常ということになるのかどうかという問題が生じる。 異常という言葉になんらの価値的な意味を含めずに用いる場合には、それで問題はおきないだろう。しかしふつうの語感からいうと、「異常」という言葉にはすくなくとも「好ましくない」というニュアンスがどうしてもつきまとう。だから、例外的に知能の高い人をも知能発育の遅れている人と同列に扱って異常と呼ぶことには、どうしてもある種の抵抗が感じられるということになる。
この中には、すでにある種の価値的的論的なものの見方がはいりこんでいる。 つまり、知能は高ければ高いほど価値があり、 人間存在の目的にかなっており、したってそれだけ理想的な姿に近づくことになるというのがその考え方である。 この立場から
は平均以上の知能をもつ人は優秀な人間であり、これに反して平均以下の知能しかない人は劣等者だということになる。 規範的な考え方がはいってくればくるほど、それだけ強く「異常すなわち劣等」という見方が出てこざるをえない。 この見方が、ひいてはいわゆる知的障害の人に対する強い社会が近代的合理主義によって支配される程度に比例して、この差別意識はだんだん根強いものとなってこざるをえない。

同書、22-23頁。

ピネルによって象徴的に代表される自然科学的合理主義は、彼ら特有の人道主義でもって、精神病者を陰湿な牢獄から明るい近代的設備をそなえた精神病院に移し、鎖と足かせのかわりに医学的治療法を与えるようになった。 精神病者を合法的に保護する権限は、警察官から精神科医に移管された。いまや彼らは、献身的でヒューマニスティックな看護と、加速度的に進歩する治療技術の恩恵に浴することが許されることになった。――しかし、この精神病者の医学への受け入れは、それ自体はたして「精神病」とよばれる事態に対する正しい理解の上でなされたことであったのか。「精神異常者」ないしは「気違い」を「精神病者」と呼びかえることによって、はたして当の彼らにどれだけの「幸福」がもたらされたといえるのか。それは彼らにとって、真にふさわしい処遇といえるのか。このような「医学化」によって真になされたことは、そもそもなんであったのか。これらの問いが今日私たちにとって回避することを許されぬ問いとしてつきつけられている。
これらの批判的な問いの背後にひそんでいるのは、次のような疑問である。すでに本書の冒頭に述べたような理由で社会に大きな不安をよびおこさずにはおかない精神異常者は、いつの時代にもそれなりの方法で社会から隔離され、日常生活から排除され、人間としての存在権において差別されてきた。この隔離や排除や差別は、精神異常者を精神病者という名のもとに医学的施設に収容することによって、はたしていささかでも変化したであろうか。近代的な法律においては、精神病者はまさにその「責任能力」が病気のためにおかされているという理由から、彼らの行為の責任を問われることがない。しかしこの免責は、実は彼らか人間としての資格を剥奪することを意味するのではないのか。第二章で述べておいた「異常」すなわち「病的」の読みかえがおこなわれた結果として、彼らは中世の魔女裁判においても近世の牢獄の中でもなおかろうじて保持し続けていた、社会構成員としての権利という最後の体面すらも失うことになったのである。責任能力の免除、 これこそは実はもっとも徹底した排除と差別ではないだろうか。そして、医学への救済は、この残酷な極刑を見るにしのびない社会の側からの自分自身の心を安らげるための偽善的な奉仕を意味してはいないだろうか。
精神病者に対する「人道的」処遇と「人間的」治療が声高らかに叫ばれるたびごとに、そこにはもう一つの、それとはまったく不調和な声が、つまり精神病者をできうるかぎり安心して、みずからの心を痛めることなく排除しつくそうという「持続低音」が、低く、しかし明瞭に聞きとれはしないだろうか。新聞の同一紙面に、精神病院内での非人道的な行為と、精神病者の「野放し」の危険性とが肩を並べて大見出しで書き立てられているのは、まことに象徴的なことである。「異常者」は危険な存在だからひとり残らず病院に収容すべきである、そして病院内では彼らに最大限の「人権」が与えられるべきである――この二つの主張の奇妙な対位法こそ、現代の合理化社会の体質をみごとに象徴してはいないだろうか。
そこで私たちは、私たち「正常者」の社会は、いったいいかなる論理と正当性でもって「異常者」を排除しているのか、ということを問わなくてはならない。この排除は、これまで見てきたように、「異常者」が日常的な常識を構成する合理性から逸脱しているという理由にもとづいておこなわれている。とするならば右の問いは、さらに次の二つの問いにわけられる。まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか。

同書、139-142頁。


全文よかったというくらい、どの章も感銘を受けました。わたし自身自分を普通ではないのかもしれないと思って生きてきて、不条理なこともあったので、しっかりと研究されている方でこういうふうに考えてくれてる人がいたというだけで、清々しい気持ちになれました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?