2024年4月5日の日記

自分だけがわかってしまって、感性を鈍らせている人は自分自身の痛みにも鈍感で感情を抑圧していてストレスにも耐えて生きられて、自分はその人たちの繊細さを欠いた言葉でストレスを感じるのは不条理だと思う。

主人のことはどうでもいいんです、もう慣れましたから。でも、文官の方のなかには乱暴で、ぶっきらぼうで、教養がない人が、どうしてこうも多いのかしら。乱暴な人を見ると、私、心おだやかでいられなくて、傷つけられたような気になります。デリカシーを欠いた人や、がさつな人、思いやりの足りない人を目にするたびに、いたたまれなくなるんです。主人の同僚の先生たちと同席しなければならないときなんか、もういたたまれなくって……。

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』光文社古典新訳文庫、190頁


『桜の園』を読み終えて、また再び『三人姉妹』を読んだ。もうかなり憂鬱。先週の土日もかなり沈んでいたけど療養の甲斐もあって月曜日から少し元気にはなったけど、結局木曜日くらいからまた陰り始めて、週末にかけて滅入っていった。

『三人姉妹』、解説なども調べたあと改めて読んで初めてはっきりとストーリーがわかった。なんか正直最初に読んだとき、戯曲で、カタカナ(ロシア語)の名前がたくさんあって人を把握できていなかったかも。刺さるところが書ききれないほどたくさんあったし、読んでいて救われた。感想を調べていると批判的なコメントみたいなのがあったのがすごくショックだった。会社でも残酷なことがあった、いや、特になにってわけじゃないけど、ちょっとしたエピソードとかを小耳に挟むだけでもいやだ。『三人姉妹』の長女オリガも(冒頭の引用は次女のマーシャのものであるが)「私、そういうの、耐えられないの……目の前が真っ暗になったほど……。」「ああいう仕打ちを見ていると胸が締め付けられるようで、気が遠くなるの……。」「それがどんなにささいなことでも、乱暴な振る舞いや、繊細さを欠いた言葉を目にしたり耳にすると、はらはらどきどきしてくるの……。」と言っていた。

こういう考え方に批判的な人や合理的な人はわたしのような考え方を馬鹿にするかもしれない。『三人姉妹』の批判的な感想もなんか…(『三人姉妹』で描かれていることに同調する)自分の態度が嘲笑されているように感じてしまった。たしかに、感性を鈍らせる方が絶対に生きやすい。迎合して、無理やりだとしても色々肯定して適合させて…。そもそもこんなことを未だにうだうだ言っている時点であほらしい。

でも、レディオヘッドの『OK Computer』のライナーノーツにも「愚かで、絶望的で、子供じみてたって構わない。俺達には理想がある。 本作のジャケットに描かれた「迷子(LOST CHILD)」のアイコン──僕らがまるでそんな風に見えたとして も、僕らは泣いてばかりいるわけじゃない。「抗生物質漬けの檻の中のブタ」になるぐらいなら、踏み潰される虫けらになりたい。」と書いていた。

痛みがわかる人こそできることがあると思う。それはこの世の残酷さを減らしていくこと。この世の中の残酷さを減らすようなルールを定めたり、他人の苦しみに共感できるような人を育てたり、思いやりを持てるような考え方を徐々に浸透させていって、人を無慈悲に苦しめるようなことはもうやめようと考える人々を増やしていくこと。そしてより良い社会をつくること。
わたしたちが苦しんで生きていく意味はそこにもあるのではとも思えた。もちろん、それぞれが良い生活を送ることがもっとも大事だとも思うけど。

ヴェルシーニン  おやおや!(笑う) 余計なことばかりですって! 知的で教養のある人間を必要としない、そんな退屈で停滞した町なんかありません。いや、ありえないと思いますね、私は。たしかに、ここは立ち遅れ、停滞しているかもしれません。そしてこの町に住む十万人のなかで、みなさんのような人間はわずか三人にすぎないかもしれない。みなさんがまわりの無知蒙昧な人びとの群れに勝てっこないのは道理でしょう。 みなさんは生きていくなかで、じりじりと後退を余儀なくされ、その十万の波に飲み込まれ、あなた方の存在は生活にかき消されるかもしれない。だからといって、みなさんが消えてしまうわけではない。 かならずや、なんらかの影響を残さずにはおかない。みなさんが亡くなったあとに、あなた方のような人間が六人、いや、十二人とふえていき、やがては、みなさんのような人が大勢を占めることになるかもしれない。 二百年後、三百年後には、この地上にえも言われぬような、すばらしい、うっとりするような生活が出現するかもしれません。人間にはそうした生活が必要です。 たとえ今それがないにしでも、人はそれを予感し、夢見、態勢を整えておかなくてはならない。そのためには、自分の父親や祖父の世代よりも多くのことを見聞きし、知ることが必要なのです。(声を立てて笑う) それなのに、あなた方はそれを余計なことだとおっしゃる。

同書、163-164頁。

トゥーゼンバフ  そうですね。 未来の世界では、人びとは気球に乗って飛びまわり、ジャケットの形も変わり、ひょっとすると、第六感なんてものを発見して、その能力を大いに発展させているかもしれません。でも、生活のほうは相も変わらず大変で、謎だらけで、それなりに仕合わせなものなんでしょうね。 千年経ったって人間は相変わらず、「ああ、生きてくのがつらい!」と溜息をついてることでしょう。それに、死を怖がって、死ぬのをいとう気持ちも変わらないでしょうね。

ヴェルシーニン  (少し考えてから) さて、なんと言えばいいかな。私にはこの地上の一切は少しずつ変化していくにちがいないそんな気がします。いや、すでにもう変わりはじめているのかもしれません。 二百年か三百年も経てば、あるいは千年も経てば、いや問題は年数にあるんじゃない、未来には新しい、仕合わせな生活がきっと訪れる。その生活にわれわれが参加できないことはもちろんですが、私たちはその生活のために今を生きているのだし、仕事をし、苦しみ、それを作り出しているのです。この一点にこそ私たちの存在の意味がある。まあこう言ってよければ、私たちの仕合わせもあるのじゃないでしょうか。

同書、198-199頁。

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