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世界史漫才再構築版68:アデナウアー&ブラント編

 苦:今回は西ドイツ首相の二本立てです。
 微:昭和の頃の地方映画館だな。この漫才も寂れてきたな。
 苦:オメエのボケが面白くないからよ!! まず、西ドイツことドイツ連邦共和国初代首相コンラート・アデナウアー(任1949~63年)です。
 微:得意技はイナバウアーです。
 苦:スケート選手じゃねえし、トリノは古いよ! アデナウアーはドイツが帝国だった1876年にケルン市で生まれ、ケルン市職員を経て1909年に助役に就任しました。
 微:33歳で助役とはあくどい系の有能さだったんだな。
 苦:1906年にはカトリック政党のドイツ中央党へ入党し、1917年に41歳でケルン市長になり、1933年まで務めます。就任当時は最年少市長でした。
 微:橋下は38歳で大阪府知事だからな、負けてるな。
 苦:1922年から1933年にはプロイセン枢密院議長も務めました。
 微:ほとんど出勤もしないし、仕事も専決で処理してただけだろ。
 苦:松井市長じゃねえよ!! ケルン市長として第一次大戦後の食糧確保に尽力しました。
 微:食糧備蓄がピンチの時はケルン大聖堂を赤く点灯して市民の危機感を煽ったそうです。
 苦:そんな強力なライトもLEDもまだないよ!! またケルン市の再開発、ケルン大学再建、外国企業の誘致、アウトバーンの建設などケルンをドイツ一の産業都市に発展させていきました。
 微:何度も言うけど、アウトバーンはナチス以前から始まってたからな。
 苦:はいはい、平松大阪市長の施策の成果を横取りして手柄にする地域政党もありますから。
 微:夕張市も、最初はこういう感じで持ち上げられていましたね。
 苦:アデナウアーは大のナチス嫌いで、1933年に首相ヒトラーがケルンを訪問しますが、握手を拒否したため、ケルン市長とプロイセン枢密院議長辞任に追い込まれました。
 微:でもそれが敗戦後には勲章になる、と読んでいたな。
 苦:1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件の直後には強制収容所に入れられました。
 微:絶滅収容所でなかったんで、生き延びたそうです。
 苦:詳しい人間しか区別できねえよ!! 大戦後はキリスト教民主同盟(CDU)の設立に尽力し、1949年8月の第一回ドイツ連邦議会選挙で当選、翌月の議会での投票で初代連邦首相に選出されます。
 微:ドイツは象徴大統領制、ドイツの良心を体現するだけの大統領なので、首相が実質的国家元首なんだけど、ここを説明しない教科書がほとんどだから補足してやるよ。
 苦:偉そうに。1950年にCDUが全国組織として発足すると、アデナウアーは初代党首に就任し、この後4回の連邦議会選挙を勝ち抜き、14年にわたって連邦首相を務めることになります。
 微:ナチス協力が「致命傷」になったハイデガーと逆だな。
 苦:「さいでっかあ」と大阪弁で返しておきますね。1951年に西ドイツの外交主権が回復されると、外務大臣を兼任したアデナウアーは旧連合国との和解に強力な指導力を発揮します。
 微:その頃、アデナウアーが愛飲したのが強力わかもとでした。
 苦:関係ねえよ! リドリー・スコットかよ!! 彼はマーシャル・プランを利用して経済復興を進めます。
 微:資金が足りなかったんですが、日本の町から誤送金されたお金をネコババしたそうです。
 苦:田口くんかよ!! アデナウアーは欧州社会復帰に向けて、石炭と鉄鋼の独仏共同管理を骨子とするシューマン・プランに乗り、1951年には欧州石炭鉄鋼共同体を発足させました。
 微:ああ、絶妙なパスだったな。1990年のブラジル戦でマラドーナが出したような。
 苦:1954年に西ドイツがワールドカップ優勝したからスルーしますね。同年のパリ協定で主権回復を確定し、1955年の主権回復と同時に再軍備と北大西洋条約機構加入を果たしました。
 微:駅前で赤い服着た若いお姉さんに”NATO BB”と書かれたモデムセットをもらったらしいな。
 苦:ソフトバンクじゃねえよ! 1958年の欧州経済共同体、欧州原子力共同体の発足に貢献し、ヨーロッパ統合を進めました。1963年にエリゼー条約(独仏友好条約)に調印しています。
 微:日本の東北地方の”奥州共同体”は失敗したよな、戊辰戦争で。
 苦:いつの時代の話だよ!1 アデナウアーは1955年にはモスクワを訪問してソ連に残っていたドイツ人捕虜の帰国を実現しています。
 微:脳内で「スターリングラード冬景色」が再生されてしまう、「♪キエフ発の夜行列車降りた時から~ ハリコフ駅は雪の中~ 」
 苦:もういいです。ですが、東ドイツは国家承認もせず、ドイツ共産党も非合法化しています。その意味では極めて現実的で実際的なんですが親米保守の政治家と言えるでしょう。
 微:それで『逆シャア』でクェス・パラヤの父の薄汚い政治家の名前に使われているのか。
 苦:1959年ごろからアデナウアーの威信は低下し始めます。
 微:西ドイツ市民に幻覚を見せていた薬の効果が切れてきたそうです。
 苦:どんな薬だよ!! 「経済の奇跡」の立役者として人気を博ていたエアハルトを政治的権限のない大統領に棚上げし、自身の政権の延命を図ろうとしたのが災いしました。
 微:「83歳なんだから、自分の寿命を延命をしてやがれ!!」とぼろくそに批判されたそうです。
 苦:まあ、当時の平均寿命を考えると至極当然です。しかし、すごい執念です。
 微:人間の寿命に換算すると200歳を超え、尻尾も7本に分かれていたそうです。
 苦:化け猫かよ! 次の失敗が、1961年の「ベルリンの壁」対応です。この危機に、アデナウアーはベルリンに行きませんでした。「首相はどこに行った」と強く批判されました。
 微:ゴルフを続けていたんだろ、チョコレート握って。
 苦:それは”えひめ丸”がアメリカの潜水艦の体当たりで沈没した時の森元だろ! 
 微:あいつも無意味に長生きだよな。
 苦:1962年にアデナウアーは初めての心臓発作を起こし、翌年にしぶしぶ連邦首相を辞任しましたが、なおも党首の座に1966年まで居座り続けました。
 微:あまりしつこいんで”ドイツの昭和天皇”と呼ばれたそうです。
 苦:誰も言ってねえよ!! しつこさと生臭さで比較すると、サラザールとか中曽根康弘でしょうか。1967年、インフルエンザに心臓発作を併発し、アデナウアーは満91歳で没しました。
 微:西ドイツ市民は悲しんだのか、それとも喜んだんだろうか?
 苦:ルイ14世は喜ばれましたね。なお、東西ドイツ再統一を成し遂げたヘルムート・コールが1982年から1998年まで5期16年務めるまで、ドイツの民選首相としては最長記録でした。
 微:サッチャーよりもメルケルよりも長期か。
 苦:なお、最高齢首相の地位は21世紀でもなお破られていません。
 微:誰も破りたくねえだろ。
 苦:次は第4代連邦首相ヴィリー・ブラント(任1969~74年)です。
 微:一瞬、スタン・ハンセンがウェスタン・ラリアットかますのかと思ったわ。
 苦:プロレスから離れなさい! 「東方外交」と呼ばれる東側との緊張緩和外交を推進し、1971年のノーベル平和賞を受賞しています。
 微:平和賞な。佐藤栄作でももらえるけど池田先生はもらえない微妙な賞だな。
 苦:黄色いTシャツに包囲されるぞ! ある意味、ドイツ史上最も波瀾万丈な生涯を送った連邦首相でしょう。
 微:生まれてすぐに王宮から攫われ、羊飼いとして育ったそうです。
 苦:それはオイディプスだろ!! 本名はヘルベルト・エルンスト・カール・フラームで、1913年にリューベックで私生児として生まれます。
 微:王子の正反対か。しかしこいつらケルンやらリューベックやら、いかにもドイツだな。
 苦:1930年に17歳でSPDに入党します。ですが少年時代から急進左派に属していたブラントは生ぬるく感じ、1931年に脱退して社会主義労働者党(SAP)に入党します。
 微:動悸がひどかったんだろうな。
 苦:それは心臓薬の救心だろ! ナチス政権がSAPを活動禁止にしたため、地下活動を展開し、1934年にノルウェーに渡って偽名“ヴィリー・ブラント”で活動しました。
 微:その辺はボリシェヴィキ的だな。
 苦:確かにそうです。他の偽名も使ってドイツ潜入やスペイン内戦取材をこなします。
 微:危うく「グエン・アイコック」と言いかけたそうです。
 苦:ホー・チ・ミンかよ!! 1940年にノルウェーがドイツ軍に占領された時、捕虜になったものの正体がばれずに解放され、スウェーデンに亡命しました。
 微:ニシンを頭から丸かじりして納得させたんだろ?
 苦:知りません。1945年にはノルウェー紙の記者としてドイツに帰国してニュルンベルク裁判を取材しています。
 微:アイヒマンといいブラントといい、みんな身分を偽るのうまいな。国技か?
 苦:1948年にドイツ国籍を回復しましたが、大戦中の国外亡命をのちに政敵に攻撃されます。
 微:攻撃している本人は戦時中、大声で「ハイル ヒトラー!」って絶叫していただろうにな。
 苦:はい、「あの時、お前は何をしていた?」という重い質問は、ドイツの政治家の鬼門ですからね。1949年、ベルリン選挙区から出馬して第一回ドイツ連邦議会の議員に当選します。
 微:ここからベルリンとの関係が始まると。
 苦:1992年の死去まで断続的ながら合計31年間にわたり連邦議会議員を務めました。
 微:維新、N国、都民ファーストの会など、いくつもの政党を渡り歩いたそうです。
 苦:日本じゃねえよ!1 国政から一旦は退き、1955年に西ベルリン市議会議長に就任し、1957年には西ベルリン市長となりました。
 微:恥ずかしながら、ワタシ、ずっと西ベルリンを「東大阪市」みたいなもんだと思ってました。
 苦:まあ、West Australiaを西オーストラリア州と訳す国ですから。1961年、東ドイツがベルリンの壁を建設したのに対し、西ベルリン市長としてヴィリー・ブラントは果敢に対応しました。
 微:自分が東ベルリン市民の逃亡というか亡命をガンガン受け入れたからだろ?
 苦:たまたま、そういう時期に西ベルリン市長だったんです。
 微:ついでに壁にアデナウアーを塗り込めたかったそうですが、諦めたそうです。
 苦:「コンクリートから人が!」かよ!! 同年8月にアメリカ大統領ケネディが西ベルリンを訪問して市長ブラントと会見し、支援を約束します。
 微:「今すぐ壁の建築資材と職人を空輸する」と、ケネディは力強く宣言しました。
 苦:逆だろ!! 東西冷戦の最前線に立つブラントの姿は、彼の人気を高め、SPDも躍進します。SPD党内でのブラントの声望も高まり、初めてSPDの連邦首相候補となりました。
 微:「候補」と付けるんだから、候補で終わったんだな。
 苦:残念ながら他党との連立交渉に失敗し政権奪取はなりませんでした。
 微:「連立」こそドイツ政治の妙味というか妙技なのにな。やはりアデナウアーが邪魔か。
 苦:1969年の連邦議会選挙でSPDは勝利、ブラントは自由民主党の連立政権を誕生させ、西ドイツで初めてのドイツ社会民主党出身の連邦首相となりました。
 微:ドイツの自由民主党って、右なのか左なのか、どっちだ? ロシアは極右だけど。
 苦:そこかよ、気になるのは! ブラントは東ドイツやソ連など共産主義諸国との関係改善を推し進める「東方外交」を展開しました。
 微:首相就任演説で口を滑らせて「東方計画」と言ったそうです。
 苦:その瞬間、政治生命終わりだよ!! 1970年には訪問先のポーランドの首都ワルシャワで、ユダヤ人ゲットー跡地で跪いて献花し、ナチス期のユダヤ人虐殺について謝罪の意を表しています。
 微:小池や橋下なら絶対にできないな。むしろスプレーで落書きさせそうな気がする。
 苦:同年には初の東西ドイツ首脳会談も実現し、翌1972年には東西ドイツ基本条約を結び、お互いを国家として承認ました。
 微:調印式典で、”ざ・たっち”を招いて「ドイツの細胞分裂」をやらせて、大受けしたそうです。
 苦:誰も覚えてねえよ!! 今日ではどんな政治学者や歴史学者も「東方外交」が後の東欧革命やドイツ再統一の基礎となったと評価していますが、当時は保守派から激しく攻撃されました。
 微:田母神元空爆長も批判に加わり、えらい騒動でした。
 苦:そんなわけねえだろ!
 微:いや、「ドイツはガス室国家か」って本まで用意していたらしくて。
 苦:もういいよ!! 一方、内政的には不運で、1972年のミュンヘン・オリンピックではイスラエル選手団が暗殺され、1973年のオイルショックなどによる経済停滞もあって実績はわずかでした。
 微:地球儀を俯瞰するだけの外交よりマシだろ。
 苦:そこに1974年、個人秘書ギュンター・ギョームが東ドイツ国家保安省の潜入させていたスパイであったことが発覚し、ギョーム逮捕とともに引責辞任しました。
 微:名付けて業務上過失傷害だな。
 苦:くだらないシャレ言ってんじゃねえよ!! ブラントは首相辞任後、1976年には社会主義インターナショナル議長に就任し、1979年から83年まで欧州議会議員を務めました。
 微:やはり色物を集めた国際プロレス路線だな。
 苦:遙かに大物です!! カストロ、ゴルバチョフ、鄧小平、ホーネッカーなど共産圏の首脳と会談し、緊張緩和・平和推進に尽力しました。
 微:このクラスの指導者に簡単に会えるところがすごいな。しかもアポなしで。
 苦:アポ取ってます!! 1990年の湾岸危機の際はイラクに乗り込んでフセイン大統領と直談判し、人質となっていた194人の在留ドイツ人を解放させ、ドイツに連れ帰りました。
 微:それでいくらアメリカが探しても大量破壊兵器がなかったんだな。
 苦:ドイツ人、どんだけ強えんだよ!(ペシッ!)

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