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世界史漫才38:ピョートル1世編

 苦:今回のメインはピョートル1世ですが、ロシアを理解するために話は1480年から始めます。
 微:実はネタ不足なんだろ、正直に言え! 昔、昭和の頃、タツノコプロの『キャシャーン』が勝手に再放送になったのと同じだ!
 苦:黙ってろ! ロシアの起源はイヴァン3世(1440~1505)のモスクワ大公国です。1463年にヤロスラヴリ公国、1474年にロストフ公国、1478年にノヴゴロド公国と次々に併合し、1480年にはタタール=リトアニア連合軍を撃破し、「タタールのくびき」を終わらせました。
 微:オレはいかなごの釘煮派だな。
 苦:関西人しか知らねえよ!! でもモスクワ大公国はジョチ=ウルス内のロシア系貴族の自治国ですから、ロシアの起源はモンゴル帝国にあります。
 微:飼い犬に手を噛まれたわけだな。
 苦:さらにイヴァン3世は1485年トヴェリ公国、リャザン公国の大部分を次々併合し、さらに1487年にはカザン=ハン国を服属させました。その後、1500年から1503年にかけてリトアニア大公国と戦い、リトアニアの支配下にあった多くの都市を獲得します。
 微:都市なんてその時代にあの地域にあったんかぁ?、ドラクエⅢでもせいぜいカザーフの村だろ。
 苦:そのモンゴル的起源を隠すようになったのがビザンツ帝国との関係です。1467年に最初の妻、トヴェリ公の娘マリアを亡くした後、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾエ=パライオロギナ)を2番目の妻とし、ローマ帝国の継承者であることを宣言したためです。モスクワを(ローマ、コンスタンティノープルに続く)「第3のローマ」と称したとされていますが、それは側近の聖職者が「そうなってはいかん!」という戒めとして語ったものです。
 微:今の日本で言えば、「第三の大阪市になってはいかん!」と神戸市、福岡市が市議会を諫めるようなもんか?
 苦:また、ローマ帝国の双頭の鷲の紋章をイタダキし、初めてツァーリの称号を名乗ったのもイヴァン3世です。ちなみにパライオロゴスって和訳すると「古着商」、ビザンツ皇帝が日本で初めて紹介されたのは夏目漱石の妻をからかう「オタンチン・パレオロゴス」というダジャレでした。
 微:昔はいいよな。その程度のダジャレで国民的作家になれるんだったら、オレは世界的作家だな。
 苦:それは世界的錯覚です。彼が1490年に急死し、次のヴァシーリー3世をはさんで1530年にイヴァン4世(1533~1584)が即位します。ヴァシーリー3世は1526年にリトアニア系貴族グリンスキー家のエレーナ・グリンスカヤと結婚し、夫妻は1530年に長子イヴァン、1532年に次子ユーリーを授かります。エレーナの母アンナはジョチ・ウルスの子孫と言われています。モンゴル的容貌がスラヴ化で薄れていても、やはりツァーリ権力の起源はモンゴルのハーンにあるのです。
 微:和食のテクニックでいう”隠し味”だな。
 苦:無視無視。イヴァン4世は父の死によって1533年12月に3歳でモスクワ大公になりますが、実権は摂政の母エレーナと、その愛人イヴァン・オボレンスキー公が握ります。しかし1538年にエレーナ没後、後ろ盾を失ったオボレンスキー公も失脚、それ以後9年間にわたって有力貴族たちが実権をめぐって暗闘を繰り返すのですがし、イヴァン4世は傀儡のままでした。
 微:武家政権時代の天皇と同じで、実権がないから温存されるんだな。
 苦:のちのイヴァン4世の回想によれば、この頃イヴァンと弟のユーリーは貴族たちの横暴に苦しめられ、日々の食事にも事欠く有様でした。
 微:そういう時、母親は彼氏とカラオケとか旅行に行ってるんだよな。
 苦:大阪市内のネグレクト母じゃねえし、死んでるよ! 1547年、イヴァン4世は16歳で正式にツァーリとして戴冠されました。その治世の初期に常備軍銃兵隊(ストレリツィ)を創設します。
 微:三段構えで突進してくる騎馬軍団をボコボコにしたそうです。
 苦:長篠の戦いじゃねえよ!! それも信憑性薄いし。また「ゼムスキー・ソボル(全国会議)」を開設します。身分制議会ですね。一方で教会は国家に服属させられました。
 微:今の大阪府みたいだな、知事が突出し、それを面白がる世論がさらなる暴走を期待して。
 苦:外征では、東方のタタール諸国へ進出し、1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国を併合しました。このほか、1581年にはコサックの首領イェルマークのシベリア遠征に援助を与え、ロシアの東方拡大の端緒も作りました。
 微:目標は黄海沿岸にあったテンシン・ハン国だったんだろ。」
 苦:お前は餃子の王将にでも行ってろ! 西方に対しては、バルト海進出を目指し、スウェーデンやリトアニア、ポーランド、ドイツ騎士団などと戦いましたが、戦争の長期化で国力は疲弊します。
 微:失政をごまかすために井戸知事を攻撃する吉村みたいに見えるな。
 苦:そろそろ大阪から離れてください。イヴァンは戦争遂行のため、軍人となる士族の収入を確保しようと農民の移動を制限しましたが、これが後にロシアの農奴制を生み出します。
 微:この時、基準の濃度の6倍を超える農薬が検出されたけど、無視して強行したんだよな。
 苦:脳薄症、ちがう農水省から離れろ! イヴァン4世は非常に残虐な一方、敬虔な信仰心も持っていました。まあ、晩年は奇矯な行動を繰り返しましたが。
 微:晩年どころか日本の厚生労働省も農水省も最初から常軌を逸しているぞ。
 苦:1560年代以降のイヴァン4世は自分の意向に反対する者には、即座に拷問や処刑を行ないました。彼は拷問の様子を見るのが好きで、犠牲者の血がかかると興奮して叫びをあげたそうです。
 微:その血で石仮面の力を得たそうです。
 苦:ディオじゃねえよ! まあ、少年時代はクレムリン宮殿の塔から犬や猫を突き落とすのが趣味だったそうです。まあ、1581年には、怒りのあまり息子イヴァンを自ら殴り殺してしまいます。
 微:そう、普段から「ロシアの亀田史郎」と呼ばれていましたから、皆さん納得してました。
 苦:無茶苦茶な親でトレーナーだけど、そこまで酷くねえよ! 人格が破綻したとしか言いようのないイヴァン4世は1584年に没し、荒廃した国は息子フョードル1世に相続されました。
 微:ロシア史上の、メリル・リンチを引き取ったバンク・アメリカだな。
 苦:2008年ネタはもういいよ! それより、誤解が蔓延している「ツァーリ」概念を整理します。既に言った通り、イヴァン3世が、初めてその称号を使用し、1547年にイヴァン4世がツァーリとして戴冠され、ツァーリの称号を用いて各国君主、教皇と外交交渉を行いました。
 微:「ツバイ」だったら、お見合いばかりだな。
 苦:時間稼ぎにはいいでしょうが。イヴァン3世はソフィアとの結婚前の段階で「全ルーシのツァーリにして大公」という形でこの称号を用いており、ローマ・ビザンツ帝国を志向したというより、むしろキエフ公国(キエフ・ルーシ)の延長上に自らの国家を位置づけていたわけです。
 微:”先物取引”がこの時代にはもうあったわけだ。
 苦:さらにモンゴル支配時代には、サライに君臨するジョチ・ウルスのハンを指して「ツァーリ」と称する用例も見られます。「白い(西の)ハン」の意味です。ですから、ツァーリという称号は①「キエフ公国の後継者」としての地位、②「ローマ・ビザンツの皇帝(カエサル)」継承者としての地位、そして③「権力の根源」としてのハーン位の継承者を示すために三層構造だったと考えるべきです。
 微:昔あって、最近復刻した王将アイスみたいなもんか、チョコ・バナナ・イチゴの三層で。
 苦:1721年の北方戦争勝利の祝賀ムードの中、ピョートル1世は元老院から、「インペラートル」称号を認められます。これは明らかに古代ローマ帝国由来の称号なので、ピョートル1世はロシアの位置づけを東欧・アジアの枠組みだけでなく、ヨーロッパ国家としても位置づけたことを意味していると指摘されています。そうすれば彼の西欧化政策も、モンゴル系国家やオスマン帝国に対する軍事行動も整合的に理解できるわけです。
 微:ザキトワのスラヴ風メイクみたいなもんだな、素顔はどう見てもモンゴルというかタタール。
 苦:話を戻すと、リューリク朝断絶の動乱時代を経て、1613年にロシアの有力貴族たちは、ゼムスキー・ソボルにおいてミハイル・ロマノフをツァーリに選出しました。16歳の彼が選ばれたのは、大叔母のアナスタシア・ロマノヴナがイヴァン雷帝の后であった関係からです。
 微:この辺はマケドニア朝末期のビザンツ帝国と同じだな。
 苦:父でもあったモスクワ総主教フィラレートが摂政として政務を行いました。ミハイル・ロマノフ自身は意志が弱い上に病弱であったため、政治は自らはほとんど行いませんでした。
 微:都合が悪くなると病気を持ちだして投げるアベよりマシなっjなねえの?
 苦:日本への置き換えはもういいよ!! そして本命のピョートル1世(1682~1725)です。3歳で父を亡くし、1682年に10歳で異母兄のイヴァン5世とともにツァーリに就きました。はじめは摂政の異母姉ソフィア・アレクセーエヴナの専横を許していましたが、1689年にソフィア派を宮廷から追放し、同年にイヴァン5世を廃位して単独統治を開始しました。
 微:角川一族、いや西武の堤一族みたいなもんか?
 苦:ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保しました。1697年にはヨーロッパの軍事や科学技術を学ぶため総勢250名の使節団を結成し、自らもその一員として18ヶ月の視察旅行に参加しています。彼はプロイセンでは砲術を、オランダでは造船術を学びました。とくにオランダの造船所では身分を隠して船大工見習のピーター・ティンメルマンとして雇われ、皇帝自身がハンマーをふるいました。
 微:私も王衛(ワン・ウェイ)の偽名でかつて満州に渡りました。
 苦:それは「一方通行」のお前の授業のことだろ! オランダでは工場・博物館・病院なども視察し、なかでも歯科医の技術には強い興味を示し、初歩的な抜歯術の手ほどきを受けると抜歯道具を買い込み、帰国した後には廷臣たちの虫歯を麻酔なしで抜くという行為を生涯の趣味にしています。
 微:廷臣たちは「抜くなよ! 抜くなよ!」と叫ばされたそうです。
 苦:上島竜平じゃねえよ!(ペシッ!!) 

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