見出し画像

世界史漫才17:カール大帝編

 苦:今回はカール大帝です。
 微:ほとんどカールって奴か。明らかなまがい物だな、名前からして。
 苦:無理してボケんな! 大帝”は偉大なる皇帝の意味だよ!
 微:あ、わかった! おやつのパッケージに使われているヒゲ面で麦わら帽子かぶったオッサンだな。」
 苦:あれは日本人で、ただのカールおじさんだろ!
 微:最初からそう言えよな。
 苦:おまえが言わせないだけだろ、まったくもう。日本ではカール大帝の呼び方が一般的ですが、フランスではシャルルマーニュと呼びます。これも「偉大なるシャルル」で同じ意味です。イスラーム勢力の地中海南岸征服が地中海商業を衰退させ、そのことが農村を舞台とする現物経済に基盤を置いた西欧封建社会を生み出した、と説いたベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌの著書『マホメットとシャルルマーニュ』が日本では知られています。なお、邦訳の題は『ヨーロッパ中世世界の誕生』です。
 微:さしづめオレとオマエのコンビは『林家ペーとパー子』だな。
 苦:余計な置き換えはいらねえんだよ! ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌ(1862~1935年)は、西ヨーロッパ世界の成立、つまり古代世界から中世初期の世界への移行の決定的要因として、ムスリム勢力による地中海沿岸の征服により、ローマが「我らが海」と呼んだ地中海商業が破壊されたことで、古代の経済生活や古代文化の名残の多くが消滅したと指摘しました。
 微:ソ連の千島列島占領によって蟹工船できなくなったようなもんか?
 苦:いわゆる「ピレンヌ・テーゼ」です。この学説は歴史学会に大きな衝撃を与え、賛否両論が巻き起こりましたが、その正否については未だ結論が出たとは言えません。
 微:ヨーロッパの邪馬台国論争と言われてます。
 苦:混乱させる余計なウソはいらねえよ! 話をもどすと、カールはフランク王国カロリング朝初代のピピン3世の子です。父ピピンは751年にクーデタでメロヴィング朝を滅ぼし、フランク王に即位しました。ですからカールは生まれた時は王子ではなく、宮宰の子だったわけです。
 微:ピンピンの父ちゃんか、味があるな。でも、なんで生まれた時に9歳なんだよ?
 苦:年齢の”きゅうさい”ではなく、役職の”きゅうさい”! 王族がそれぞれに宮廷を構えていたので、各宮廷間の連絡・調整をする役職です。
 微:メールやLINE、amazonのない時代は大変だな。
 苦:あったら逆に怖いよ!! ただ、当時のメロヴィング朝の一族は、正直言って使えない人材しかいませんでしたので、フランク王国の実権を宮宰職に就く人間が握るようになったんです。
 微:なるほどね。首相や大臣がバカばっかりだと、今の日本みたいに、内閣官房の官僚が実権を握るようなもんだな。まあその結果がアベノマスク2枚なんだけど。
 苦:父ピピンの死後、768年から弟カールマンとの共同統治として彼の治世は始まりました。ですが、カールマンが771年に早逝したため、以後は単独の国王として長くフランク王国に君臨しました。
 微:死の直前にカールマンは夏祭りのカレーを食べたらしいな。ほいでもってカールが鍋の蓋を開けているところを小学生に見られて。
 苦:それは和歌山のカレー事件だろ!
 微:いや、カンニング竹山あるはキングコング西野か。
 苦:カールの生涯の大半は征服行で占められ、43年間の治世の間に53回もの軍事遠征を行っています。苦労したのはドイツ北部のザクセン族平定戦争で772年に始まり、30年以上かかりました。
 微:持続化給付金の申請から振り込みと同じだな。
 苦:そこまで日本政府も無能じゃないです。給付金詐欺はありましたが、消えた給付金はなかったはず。
 微:というか、カールってザクセンと戦争してたこと途中で忘れたんじゃないのか。
 苦:774年にはランゴバルド王国を征服し、778年にはスペインのスペインのカタルーニャに遠征します。この遠征を題材にしたのが『ローランの歌』ですが、この話のなかでカールは200歳を越す老騎士として登場しています。
 微:当時の人たちは特殊メイクを見破れなかったんだな。まあ、今でも大阪の人間は辻本の”しげぞうじいさん”を本物と思っているけどな。
 苦:若林的にスルーしますね。788年からはドナウ川流域に力を入れ、バイエルン族、スラヴ系ヴェンド族、パンノニア平原のアヴァール人を討伐しています。795年にはスペイン辺境領を置きました。他には北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧しています。
 微:そんな長いこと家を空けていて大丈夫なのか?
 苦:交通手段も物資輸送手段も発達していなかった8世紀、貴族も国王も自分の荘園を移動して生活していました。カールのいるところが首都だったわけです。この辺は古代から平城京や平安京を持っていた日本人には理解しにくいかもしれません。
 微:年老いた祖父が子どもたちの家庭をたらい回しにされるようなもんか?
 苦:全然意味が違よ! こうしてカール大帝はイギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、安定をもたらしたわけです。
 微:それって、内陸の田舎の州をほぼ制覇したけど選挙人の数で負けたトランプみたいなオチ?
 苦:そして広い領土を支配するために支配領域を州に分け、それぞれの州の地元有力者を伯(comes、Graf)に任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えました。伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みています。
 微:統一といっても、『カールの旦那には敵わねえや』的統一、一応って感じだな。やっぱ、ヨーロッパの国って、国というより暴力団というか組、王というより組長、領土というより縄張りだもんね。
苦:確かに、ローマ帝国が消滅してからは、ローマ法や道路、水道というインフラを維持する公権力はありませんでした。巨大な「私」がその巨大さゆえに「公」的な役割を果たしたいうのが実情でしょう。」
 微:国旗代わりの紋章って、要するに「代紋」だろ。ほんでもって王家同士の結婚で国が一つになったり、国が遺産として分割されたりと、まさに『仁義なき戦い』『極妻』だな。一族の人間が殺されたら復讐するのが正義だし。
 苦:そう言われると、返す言葉もございません。まあ、征服されたザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令の効力も限定的なものでした。
 微:今でも合併した企業がそれぞれの母体企業同士で反目するもんな。でも、世襲禁止は自民党にも見習って欲しいものだな。けど、強要はあっても教養のないならず者集団の維新もなあ。
 苦:カールは征服した各地に教会や修道院を建てます。その付属学校ではローマの学問やラテン語が研究されました。また、フランク王国内の重要な官職には聖職者をつけ、住民をアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化も進めました。
 微:聖職者なら世襲できないはずだが、どうなんだ?
 苦:そこはダブルスタンダードで、カールには複数の妻がいました。彼自身は都合良く教会組織を利用したんでしょう。ですがアーヘン大聖堂も建立し、内政ではアインハルト、アルクィン、スペインのテオドゥルフ、イタリアからはピサのペトルスなどの高名な学者や修道士を宮廷に招聘し、「カロリング=ルネサンス」と呼ばれるラテン語の文化運動を企図しました。
 微:会議や宴会の前に乾杯したんだな。
 苦:それはお笑い芸人だよ! それはさておき、歴史的大事件であるカールの戴冠です。
 微:クリスマスの日に寒さのガマン大会をやって優勝したんだな。
 苦:そっちの耐寒じゃねえよ! カールは、800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、アルプスを越えてイタリアへ行きます。ローマから約15kmのところでローマ教皇じきじきの出迎えを受けました。
 微:そこのサイゼリヤで休憩したんだな。2002年にはトッティらも毎日通ってたもんな。
 苦:まだないよ! 教皇はカールをサン・ピエトロ大聖堂内へ導き、800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずいて身を起こしたカールに、教皇レオ3世は西ローマ皇帝帝冠を授けました。
 微:でもカールは「だが断る」と拒否したんだろ?
 苦:それは岸部露伴専用のセリフです! その際の称号が「神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治するインペラートル」でした。
 微:「神により」というのがミソだな、上から目線で。仲介料も高かっただろうなあ。
 苦:カールの戴冠は、ランゴバルド王国から教皇を救ったことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマというかビザンツ帝国への対抗措置でもありました。
 微:つまり、土産物の本家・元祖争いみたいなもんだな。
 苦:この戴冠については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、『カール大帝伝』作者アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えています。自分主導で皇帝となるつもりだったようですが、行き当たり場当たりだったのでしょう。なお、皇帝を名乗るには、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝からの皇帝称号の使用承認を得る必要があることは西欧世界の伝統的な認識でした。
 微:勝手に宗家を名乗った和泉元彌の母ちゃんも学習しろよな、ホント。
 苦:カールは、自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えましたが、実現しませんでした。エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立し、東ローマ側はカールには単なる「皇帝」としての地位を認めました。
 微:コンスタンティノープルは「格下」と扱ったわけだ、さすがビザンツ人。
 苦:まあ皇帝を名乗ったところで帝国はなく、皇帝というよりも軍司令権(インペリウム保持者)という意味で理解した方がいいでしょうね。オットー1世も皇帝号の使用許可を申請してましたし。
 微:それじゃ申請ローマ帝国じゃねえか。
 苦:余計なダジャレはいいよ! 
 微:でも申請から受付、そこから給付にどれだけ時間はかかったんだろうなあ?
 苦:いい加減、2021年の日本から離れろっ!!(ペシッ!!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?