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世界史漫才再構築版55:孫文編

11月以降の新規作成ではありません。在庫を思い出しただけですが。

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:今回は1911年の辛亥革命で初代中華民国臨時大総統となり、「中国革命の父」と呼ばれる孫文です。
 微:オレは高校の時に「時々、政治活動をする亡命家」と習ったぞ。
 苦:まあ、大陸で政治的に敗れて日本に亡命し、捲土重来を期すことが多かったのは事実です。
 微:まあ、来るたびに支援者がいたこと自体が、この人の魅力を示しているな。ホラ多いけど。
 苦:日本では孫文として知られていますが、中国では号の孫中山で、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記Sun Yat-senで知られています。
 微:日本で孫中山と表記したら”なかやまきんにくん”のおじいさんと勘違いするぞ。
 苦:それは大阪のガキ、いや小学生くらいです。日本にも長くいた孫文ですが、革命家としての最初の活動はハワイにおいてでした。
 微:つまり、常磐ハワイアンセンターでフラガールをしていたんだよな。
 苦:違うます! 彼は清朝時代に広東省香山県翠亨村の客家の農家に生まれます。
 微:日系ブラジル人もハッカ栽培で成功したんだよな。
 苦:そっちじゃねえよ!! 太平天国の乱で説明すべきでした。客家はもともと後漢時代に華北にいた漢族の自称「名門貴族」の子孫です。
 微:日本にも自称「秦の始皇帝の子孫」がいるよな。機織りの秦氏。
 苦:遅れて移住した集団だったため、山間部に居住したり、商業に従事することが多く、独特の言語・文化を持っています。
 微:マタギとか木地師みたいなもんか。独特の天皇との由緒を記した文書まであったりして。
 苦:主な居住地域は、山の多い広東省・福建省・江西省・湖南省・四川省などで、東南アジア諸国に暮らす人も多く、外国国籍を持つ華人の3分の1は客家人です。
 微:「佳人の奇遇」ならぬ「華人の寄寓」か。で町そのものがチャイナタウンになる。
 苦:まあ神戸南京町もそうです。子弟の教育にも熱心なことで知られ、商業の他には教育の高さから教職につくことも多く、これらの特色から「中国のユダヤ人」などと呼ばれることもあります。
 微:ユダヤ人みたいな連中と聞いてシンガポールという金儲け国家が納得できたぜ。それと、なぜそこにタイガー・バーム・パークがあるのかもな。ひょっとしたら大阪を作ったのも客家の移民か?
 苦:ギトギトとコテコテの違いは理解してくださいね。
 微:いや、客家の商魂がなければ『ブレードランナー』の2019年ロサンジェルスもない。
 苦:また伝統中国の発想として卑賤視された軍人となった者や、反乱や革命に参加者も昔から多いのも特徴です。
 微:失うものがない人間は肝が据わるんだよ。
 苦:有名どころでは太平天国の洪秀全や、中国国民党の孫文、中国共産党の鄧小平やシンガポール元首相の李光耀(リー・クアン・ユー)などを輩出しています。
 微:客家でヒーロー戦隊を作れば最強じゃねえのか? 例えば『守銭奴戦隊 ハッカマン』とか。
 苦:結成しなくても活動してます、世界を舞台に。話を孫文に戻しますと、彼はアメリカ領となったハワイにいた兄の孫眉を頼ってハワイに渡り、そこのキリスト教系学校で西洋思想に目覚めます。
 微:学校から帰ったら、「藪からスティックに」なんて言ってたんだろ?
 苦:それはルー大柴だよ! 西洋思想に傾く孫文を兄や母が心配して中国に戻されます。 帰国後、香港西医書院(現香港大学)で医学を学び、ポルトガル植民地のマカオで医師として開業しました。
 微:カジノで身ぐるみ剥がされ、逃げ出したそうです。
 苦:それはありません。医師となっても革命思想を捨てることはできず、「病んだ中国を治す医者」ということで革命家になることを正当化したようです。
 微:ふっふっふ、未だに病んだ中国は完治していない。孫文はヤブ者だったんだな。
 苦:上から目線でしゃべるな! そして1894年にハワイで最初の革命団体興中会を組織しました。ですが、海外の小さな革命団体にすぎませんでした。
 微:オウムもそうでした。まずは薬局からスタートしました。
 苦:余計な比較はいいよ! 翌年、広州蜂起に失敗して日本・アメリカ経由でイギリスに渡りますが、清国公使館に拘留されてしまいます。
 微:イギリスで中国系は目立つだろ。
 苦:ですが、その体験を『倫敦被難記』として発表し、逆に世界的に革命家として有名になってしまうなど、逆境をチャンスに変える天才でもありました。
 微:その逆で日本の2000円札首相こと森元首相はチャンスをピンチに変える天才でしたね。
 苦:なんだよ、その「2000円札首相」って?
 微:つまり、現在のことなのに「こんなものもあったよなあ」と、過去形でしか思い出されない存在であることと、「あると却って迷惑な存在」ってこと。さらに後々まで害悪を垂れ流す・・・。
 苦:誰がウマイこと言えと言った、もう。孫文は以後、革命資金を集めるために世界中を巡ります。
 微:あまりに忙しいのでお釈迦様が筋斗雲を貸してくれたそうです。
 苦:それは孫悟空だろが! 1905年に東京の内田良平宅の二階で興中会、光復会、華興会を糾合して中国革命同盟会を結成しました。
 微:ポッと出の孫文が前面に出たら章炳麟とか嫌だったろうな。
 苦:三民主義、「民族の独立・民権の伸張・民生の安定」が革命の目的として掲げられました。ただ摘発を避けるため「革命」部分に白紙を貼ってごまかしましたが。
 微:これに感動した日本のセミが一斉に”ミーンミンミン”鳴き始めたわけか。
 苦:セミは一週間しか地上にいねえから知らねえよ! さて中華民国の建国ですが、発端は幹線鉄道国有化問題でした。
 微:西園寺内閣の鉄道国有法を参考にしたわけはないな。
 苦:民間資本、特に内陸の奥地四川省の民族資本家が推進していたんですが、突然の清朝による国有化に怒ったわけです。民族の財産を列強の借金の材料にするものだ、と。
 微:鉄道は大陸横断鉄道でもシベリア鉄道でも開発の起爆剤だからな。
 苦:国有化に反対し、保路同盟が四川暴動を起こします。これの鎮圧を命令されたのが湖北省の予算で編成された西洋式軍隊=新軍でした。
 微:洋務運動の唯一の成果とも言える張之洞の漢口開発あっての新軍だから、「仲間を倒せ」的な命令だな。金を毟り取るだけの清朝から命令されたらキレるわ。
 苦:1911年10月10日に湖北省で新軍の武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展しました。その時、実は孫文はアメリカにいたんです。
 微:ファーウェイの副会長みたいに逮捕・拘束されていたそうです。
 苦:無視ね。中華民国宣言ははいいんですが、14の各省は武昌派と上海派に分かれて争いました。それを終わらせるために孫文が12月25日に上海に帰着します。
 微:余計に混乱するか、一気にまとまるか、のどちらかだな。
 苦:そもそもが中華民国の主力となった省は南部沿海部、つまり自由貿易に組み込まれた開港場を持つ地域です。1860年の北京条約で中国が列強の食い物にされたのは事実の半分にすぎません。
 微:中国商人はしたたかだもんな。
 苦:それよりも張之洞の漢口開発のように、中国経済が世界経済と接続し、北京の政府と関係なく自律的な動きを見せるようになったことの方が重要です。
 微:ムガル帝国を無視して開港場付近がイギリス経済と一体化するように危険じゃないの?
 苦:そのインドでも「アジア間貿易」という収奪と関係ない交易網を持っていました。もともと、中国沿海部は華僑の移住とともに独自のアジア間交易網を持っていました。
 微:国境観念の無さもあったしな。変な表現になったけど。
 苦:それらのバラバラとも言えた中国南部はイギリスのポンドを事実上の決済通貨とする「長江・香港経済圏」としてまとまり、北京に従う意味は消えていたのです。
 微:漢口はドイツやアメリカと繋がっていたよな。
 苦:武昌派と上海派の対立は、世界経済内のどの国と結びついていたのか、の違いの表現なのです。
 微:それで革命派は揃って彼の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が、間をとって南京を首都に成立したと。
 苦:帰国間もない孫文は革命政府をなんとしても維持しなければなりません。そこで清朝が列強と結んだ不平等条約も継承することを各国に通告しました。
 微:明治政府が戊辰戦争で旧条約継承を宣言して介入を阻止したようなもんだな。
 苦:いや、そこは榎本武揚が蝦夷地共和国宣言で交戦国認定させたことの方が大きいです。列強の軍事介入を防いだ意義はもっと評価すべきです。
 微:というより、西洋列強と戦える軍隊はないもんな。清朝にも中華民国にも。
 苦:孫文には全国的人気と世界的知名度はありましたが、革命に不可欠な軍隊を持っていませんでした。北京の清朝政府は中国最強の北洋軍を持っており、その司令長官があの袁世凱です。
 微:ええっ、あの! ・・・ところでその遠赤外線って誰だ?
 苦:1915年に皇帝になって自分の王朝を作ろうとした勘違いヤローだよ! 野心家だった袁世凱を革命側に抱き込むため、宣統帝の退位と引き換えに袁世凱に臨時大総統の地位を譲ったわけです。
 微:その袁世凱を利用して清朝を終わらせ、総選挙で大総統を奪還できる目算あってだな。
 苦:袁世凱は、映画『ラスト・エンペラー』で描かれたように、溥儀夫妻がのんびりテニスをしていた時に紫禁城になだれ込んで接収。宣統帝は退位を決め、ここに清朝は崩壊したわけです。
 微:その時、審判が”ゲーム・ウォン・バイ・エンセガーイ”ってコールしていたらしいな。
 苦:話を作るな! 皇帝になる野心に燃えた袁世凱は、孫文の国民党が圧勝した国会選挙を見て、国民党議員を開会前に捕らえて弾圧します。その上で首都を本拠地の北京に遷しました。
 微:ところで、ちゃんとした戸籍も土地台帳もない時代、しかも国家奉仕を嫌った当時の中国人の誰が投票したんだ? やっぱり利権目当ての連中だろ?
 苦:おっしゃる通りです。孫文は袁に敗れて孫文は日本へ亡命し、今度は中華革命党を結成します。
 微:「日本の中華料理界に革命をもたらす!」と意気込んでいたそうです。
 苦:秘密政治団体だよ!! 「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っています。この頃に宋慶齢と結婚しています。
 微:その結婚資金を支援したのが梅屋庄吉だよな。宮崎滔天も私財で援助していたし。いやあ、この頃の日本人は意気に感じる人がいたよね。今の日本の経営者は派遣切りかリストラだけで。
 苦:1915年に皇帝就任計画が総スカンを喰らい、失意のうちに袁世凱は死にます。
 微:孫文たちが日本にアフリカの呪術師に依頼したらしいな。
 苦:サッカーのカメルーンの試合じゃねえよ! 袁の死後、孫文は西南軍閥の力を利用し、1917年に広州で軍政権を樹立しますが失敗します。そして1919年の五・四運動を経験します。
 微:四月五日だったら、下ネタの日になってたな。
 苦:四の五の言うんじゃありません。孫文は秘密結社路線を捨てて大衆政党路線に転換することを決意し、中国国民党を結成します。そしてその2年後が上海での中国共産党結成です。
 微:孫文が先に作ったんで、共産党側は「新党抜け駆け」と批判しつづけたそうです。
 苦:それは1993年の日本の「さきがけ」だろ! 孫文は軍閥に依拠せず、自力で軍隊を構築し、統一政権を樹立することを考えます。そのヒントになったのが赤軍を持つソ連共産党でした。
 微:司令長官はレッドシャドーこと赤影でした。
 苦:いきなりズッコケだよ! 孫文はソ連に支援を仰ぎ、さらに中国共産党とも協力関係を結びます。1924年に第一次国共合作を実現し、「聯蘇(連ソ)・容共・扶助工農」を自ら唱えました。
 微:これはかなりソ連に妥協しているというか、近づいてるな。
 苦:これは反共的な蒋介石らや宋財閥との結びつきの強い人物からの強い反発を生むわけです。1925年、有名な「革命尚未成功(革命未だならず)」の遺言を残して孫文は死にます。
 微:ある意味、「後はヨロシク!」的な遺言だよな。
 苦:置き換えしなくていいよ! こんな孫文ですが、彼の評価は実に難しいのです。
 微:お金でも組織でもイデオロギーでも使えるものは何でも使うしな。
 苦:1924年の神戸高校での「大アジア主義講演」は、欧米の侵略主義に対して東洋の王道平和の思想を説き、日中の友好を訴えて絶賛され、偉人扱いされています。
 微:「国際都市神戸」のイメージには不可欠だもんな。中華同文もあるし。
 苦:ですが三民主義も、漠然としたもので具体性はありません。
 微:まあ、「駆除韃虜」も消えていきなり「五族協和」で漢民族の民族主義も消えたしな。使える物は何でも使っただけだろ。いいじゃないか、資源を無駄にしないエコ路線で。
 苦:しかも孫文は民主政を信じていません。『阿Q正伝』のごとく中国民衆の民度は低く、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱え、憲政期までの中国国民党独裁を主張していました。
 微:まあ、今の中国は共産党の「訓政」だわな、柔らかく表現して。
 苦:その意味で孫文の思想は今の中華人民共和国の権威主義的・非民主的な体制の起源とも評価できるのです。逆に台湾サイズだからこそ総統の直接選挙もできたんです。
 微:確かに民主主義や国民国家には適正なサイズというか小ささが不可欠だな。
 苦:まあ、場当たり的とも言える一貫性のなさは、孫文が臨機応変な対応ができる革命家だったということでもあります。『王道の狗』でも出てくるエピソードですが、若い頃は、その大言壮語を揶揄されて孫大砲(ほら吹き)と呼ばれていましたから。
 微:まあ、嘘つきでもホラ吹きでも、周りを明るくすることが大事だな。オレのボケみたいに。
 苦:キミの場合、意図しているんじゃなくて、根っからのウソなの!
 微:だから、日々、「オレはウソは授業中にしか言わん!」と授業中に宣言してるんだよ。

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