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世界史漫才18:ビザンツ帝国その1

 苦:今回はビザンツ帝国(330~1453年)です。マイナーな分野だけど、2019~20年にかけてビザンツ本の刊行ラッシュでした。
 微:アンタ・ノムネンナの『アレクシアス』の翻訳も出たよな。
 苦:アンナ・コムネナだよ! 相野先生怒るぞ。まあ、クーデタ失敗してやけ酒飲みたい気持ちはわからんでもないですが。
 微:それと、そのアンナ・コムネナの取り調べ調書な。
 苦:それは井上浩一先生の『歴史学の慰め』で、『アレクシアス』の矛盾や沈黙を解き明かしたきちんとした歴史学の本!
 微:ほんで小林先生の『生まれくる子どもと対面すること』ね。
 苦:ラマーズ法かよ! 『生まれくる文明と対峙すること』だよ。
 微:ねずっちの『聖デメトリオスは我らとともにあり』ね。
 苦:馴れ馴れしいよ! クレモナのリウトプランドの『コンスタンティノープル使節記』の翻訳も。
 微:はいはい、みやげのランクが下がったからディスった奴ね。クレモナが「くれよ、もっとな」の略に思えてしまうよな。そして極めつけは中谷先生の『間違いだらけのビザンツ帝国』ね。
 苦:それはただの嫌みだろ! 誤植や間違いは多かったけど、千年を超えるビザンツ帝国の歴史を一人で書くのは大変だよ。まあ、12世紀以降は原稿段階でチェックしてもらっても良かっただろうけど。
 微:たしかに宋の中国統一から改革・開放までを一人で執筆するのは至難の業だな。
 苦:その微妙な979~1979年というぴったり千年の年代設定は何だよ! でも田中先生の『ローマ史再考』、南雲先生訳の『ローマ帝国の崩壊』など、周辺分野も盛り上がったのが2020年でした。
 微:これも東京オリンピック延期の余波というか恩恵だな。
 苦:まったく関係ないです! さて、お約束の始まりですが、研究者によってローマ帝国がどの時点でビザンツ帝国になったのか、見解は一致してないんです。ビザンツも19世紀のドイツの歴史学者が区別のために用いた名称で、ビザンツ側はずっと自分たちを「ローマ人」と呼んでました。
 微:ただし、ローマも支配していない上に、途中からギリシア語でだろ。
 苦:そうです。だからビザンツ帝国という呼称が作られたんです。キリスト教、帝都コンスタンティノープル、ギリシア文化が3要素と考えると、4世紀初めのコンスタンティヌス帝が有力候補になります。
 微:寄進状を偽造した男だな、教会指導権をローマ教会に認めるってやつ。
 苦:それはローマ側が勝手にやったことです。彼の時代は帝国は東西分割されてはなく単独皇帝ですし、公用語もラテン語でした。また4~6世紀の「古代末期」をモムゼン的にローマ帝国のどん詰まりと見るのか、ピーター・ブラウン的に古代と異なる独自の時代と見るのか、という問題もあります。
 微:聖人を中心とする新しい人的結合関係、流動的社会が生まれてくるというやつだな。
 苦:そうです。皇帝がコンスタンティノープルに定着するのは4世紀末のテオドシウス帝からで、彼が392年にアタナシウス派キリスト教をローマの国教と定め、395年の遺言で帝国を最終的に東西に分割しました。しかし、政治的にも経済的にも重心は東部にあったので、対等な分割ではありません。
 微:『ケーキの切れない子どもたち』だな。
 苦:それとテオドシウスの前の皇帝ウァレンスの西ゴート人との戦いでの戦死です。びびった西ゴート人は海岸線沿いに西へ西へと進み、410年にローマを掠奪し、最終的にイベリア半島に建国します。
 微:びびったのはコンスタンティノープル側もだろ?
 苦:有名な話ですが、476年に最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵隊長オドアケルに廃位され、西の帝位はずっと空位となります。
 微:鶴竜みたいなもんだな。
 苦:それは休場です。故渡辺先生が書いているように、ゲルマン人の建国や領内通過を許可しながらコントロールしているのはコンスタンティノープルにいた東のビザンツ皇帝なんですね。
 微:うわー、子どもを一人前扱いしながら絶対に自分の思い通りにしか行動させない毒親みたいだな。だから西欧人から嫌われるのか。無意味に派手で大袈裟だし。
 苦:まあ、西は所詮は田舎ですから。潜在的なものも含めてインペリウムというか主権はコンスタンティノープルにあり、であるがゆえにユスティニアヌスは地中海世界再統一を目標にできるんです。
 微:でも結局は余力を使い切って、却って帝国は苦しくなるんだよな。
 苦:話を戻すと、最大公約数的にはヘラクレイオスの即位に至る330~610年を初期ビザンツ、そこからバシレイオス2世が独身のまま死ぬまでの610~1025年を中期(盛期)ビザンツ、貴族反乱のなかからコムネノス朝が生まれ第4回十字軍に滅ぼされるまでの1025~1204年を後期(封建化)ビザンツ、1204~1453年を末期(衰期)ビザンツと区分します。
 微:でも教科書に出てくる鉄板の人物や事項ってほとんど初期ビザンツだろ。コンスタンティヌス、ユリアヌス、ウァレンス、テオドシウス。ユスティニアヌス、ハギア・ソフィア聖堂、『ローマ法大全』。中期以降はテマ制、レオン3世、プロノイア制。大穴でヘラクレイオス、バシレイオス1世、バシレイオス2世、アレクシオス1世。あとウラディミル1世の改宗、第4回十字軍、1453年の滅亡絡みでメフメト2世とイヴァン3世。しかもいまだに皇帝教皇主義という誤りが残っている。
 苦:昭和の頃は「悲惨つ」という自虐的言い換えがありました。確かに皇帝教皇主義は堪忍して欲しいですね。皇帝が一方的に総主教替えたりもしてますが、逆に教会側が皇帝を追い詰めたりと緊張感満載ですから。正確には何を正統教義とするかで皇帝も教会も大いに揺さぶられたわけで。でも入試のネタで単独問題になるには少しきつい。
 微:単品では料理にならない「こんにゃく」みたいなもんだな。
 苦:まあ、味はともかく、コンニャクのように柔らかいというか、弾力があるというか、見た目以上に重いとか、地味な存在というか。まさにコンニャクですね。
 微:オレもたまにはうまいこと言うだろ。
 苦:まあ、タイトルで(1)を付けたのは、やっぱり千年を超える歴史を1回でやるのは無理があるかなと思いまして。そこで初期ビザンツとくればコンスタンティヌスが主催したニケーア公会議です。
 微:誰を招待するのかで揉め、始まってからも揉めた最初の宗教会議ね、325年の。
 苦:はい、神学論争となると最後は「信じる・信じない」「もう君とはやってられんわ」「あいつらは異端だ!」になります。だから逆に政治という外部からの締め付けというか強制が必要になるわけです。
 微:挽肉をソーセージにするようなもんだな。
 苦:この会議でローマ帝国から追放されたのがアリウス(アレイオス)派です。単純化すると父なる神ヤハヴェと子であるイエス=キリストは同格ではなく、イエスはヤハヴェの養子、つまり選ばれた人間ということです。神が一時的に憑依した、つまりイエスは救世主だが人間であり、神の子ではないと。
 微:まあ、常識的に考えればそうだよな。
 苦:それに対して後に三位一体説と呼ばれるアタナシウスらのグループ(ニケーア派)は、父と子と聖霊という位格というか姿は異なっても神として位格は同じだとするものです。そうすると人間マリアがどうやって神の子イエスを産んだのか、という問題に発展します。
 微:まあ、「我らの姿に似せてアダムを創造した」んだから論理的には交わることは可能だがな。
 苦:これが爆発したのが431年のエフェソス公会議でのコンスタンティノープル総主教ネストリオスの唱えた解釈です。マリアの胎内において人間であるイエスに神が受肉したのだから、イエスにおいて人性は神性に優越し、マリアを神の母(テオトコス)と称えるのは誤りだというものです。
 微:まあ、確かにイエスは神そのものではないわな。人間であること自体が有限だから。
 苦:アタナシウス派は父・子・聖霊は姿は違えど本質は同じであり、子イエスの体内において人性と神性は「混ざらず、溶け合わず、分離せず」存在していると主張します。これはイエスを生乳に喩えたと考えればわかるんじゃないかと思います。これがテオドシウス帝によって正統とされます。
 微:わかったような気がする。けど、ずっと燻りつづけるよな。
 苦:問題は、会議を何回やっても問題は決着しない上にキリスト教が広がるにつれ、新しい解釈が次々と生まれてくることです。「キリスト教の歴史は分派の歴史」という言葉は真理で、そもそもユダヤ教的というか一神教をギリシア的に解釈・理論化しようとする訳ですから根本的に無理がある。
 微:マイケル・ジャクソンの白人化計画と同じだな。最後は肉体が崩壊し精神が破壊される。
 苦:ちなみにアリウス派を正式に異端認定したのは381年のコンスタンティノープル公会議です。あと451年のカルケドン公会議の決定に従うかどうかでも教会は二分されました。
 微:アメリカでは今もペンテコステ派などカルト的なものが生まれているもんな。
 苦:皇帝とコンスタンティノープルの関係に戻します。テオドシウス以後、皇帝はコンスタンティノープルを離れず、その荘厳化と水問題対応に励みます。ユスティニアヌス帝も戦場に行ってません。
 微:まあ、コンスタンティノープルあってのビザンツ帝国だもんな。パライオロゴス朝も。
 苦:ユスティニアヌスがやったのは戦費を調達するために色んな名目で増税したこと、トリボニアヌスに命じて『ローマ法大全』を編纂させたこと、ハギア・ソフィア聖堂を再建したことです。ですがコンスタンティノープル市民の反感を買い、ニカの乱に直面して亡命も考えました。
 微:逃げようとしたユスティニアヌスを「皇帝の服は最高の死装束」と啖呵を切っておしとどめたのが妻のテオドラ。さすが、ステージで度胸がついているおばさん。
 苦:まあ、プロコピウスが「どこまで本当かわからないけど側にいた人間しか書けない」暴露話をこっそり書いているからわかるんですが。『アネクドタ(秘史)』です。
 微:プロコピウスは元々は『東京スポーツ』の記者なんだよな。
 苦:それじゃあ日付以外は全部ウソだろ!! で、ユスティニアヌス時代のヴァンダル戦役も東ゴート戦役も宦官の将軍ベリサリウスが指揮してます。遠征軍資金管理とお目付役でも宦官を派遣しています。
 微:それに違和感を感じないとはLGBTが定着した進んだ社会だったのか?
 苦:いや、同性愛は弾圧されてましたよ。でも西欧と比べた時、この宦官がいる・いないはその文明を考える上で大きな指標ですね。宦官が大きな役割を果たすのは中国ですが、裏方というか家内用です。
 微:例外は鄭和、刑罰で切られた司馬遷くらいか。
 苦:宦官は専制王朝と異民族奴隷の安定供給が不可欠です。ただ、ビザンツでは宦官は嫌悪されるよりも神と人間の間にいる「天使」のように扱われました。ローマでもテノールも宦官担当でしたし。
 微:その高音域のハウリングからアラブ艦隊を焼き尽くすギリシア火が生まれたんだな。
 苦:それはもっと後の話だよ!

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