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世界史漫才46:ムハンマド・アリー編

 苦:今回はムハンマド・アリー(1769?~1849年)です。
 微:英語発音するとモハメド・アリだな、ヘヴィ級チャンピオンの。
 苦:トルコ語だとムハンマドは「メフメト」、ソロモンは「スレイマン」、イエスは「イーサー」、モーセは「ムーサ」になります。それは置いといて、19世紀国際社会とオスマン帝国を手玉に取って、近代エジプト王国の土台を作ったのがムハンマド・アリーです。
 微:そうだよ、こいつが要らないことしなければ東方問題も起きず、混乱しなくて済んだんだよ。受験生に謝れよな!
 苦:まあ野心家でしたから。ムハンマド・アリーはアルバニア系で、マケドニア生まれですから、エジプトとは全く関係はありません。
 微:やはりエジプトという地はメネス王以来、外来王でなければ治めることができないのか。
 苦:カッコつけんじゃねえよ! 1798年にナポレオン軍がエジプトに遠征します。オスマン帝国は対抗上派兵するんですが、その中にいたアルバニア人非正規軍の副隊長がムハンマド・アリーでした。
 微:淡路島ではなくエジプトのパソナだな。
 苦:ナポレオン軍はブリュメール18日のクーデタのため帰国します。18世紀末でもエジプトではマムルーク朝以来のマムルークたちが政治の実権を握り、オスマン帝国内の半独立国状態にありました。
 苦:ナポレオンの遠征でマムルークたちの力が削がれた千載一遇のチャンスを利用し、アリーはオスマン帝国のエジプト総督、マムルークを次々に破って混乱を収拾しました。出自はともかく秩序を回復したんです。1805年にカイロのウラマー、市民の推挙でエジプト総督に就任しました。
 微:形式的には古代アテネのペイシストラトスと同じ、非合法手段で正義を実現して地元有権者の支持を得るパターンだな。でも嫌われてしまうと、総督でも軍人でも西宮の今村元市長でも、終わりです。
 苦:中央権力が実効支配できない国、平安時代の日本や軍閥割拠時代の中華民国のように、地方有力者の非合法暴力を官職を与えることで合法化するパターンです。オスマン帝国のセリム3世はムハンマド・アリーの実力を認めざるを得ず、ムハンマド・アリーは名実ともにエジプトの支配者としての第一歩を踏み出します。
 微:そこに嫌がらせでマムルークが犬のウンコ置いたんだな。
 苦:セコすぎるよ! 1811年にアリーは自分に屈服したマムルークまで全員虐殺し、マムルーク勢力を一掃しました。これによりエジプト全域に対する総督の支配が実現したわけですが、実はアリー朝の事実上の成立でした。
 微:やっぱり、そのウンコ攻撃に業を煮やしたんだな。
 苦:ウソを引っ張りすぎです。ムハンマド・アリーは、エジプトの近代化に必要な税源として農業に目をつけ、服属した地方で検地を行って土地を国有化します。
 微:エジプトの豊臣秀吉と言われたそうです。
 苦:さらにオスマン帝国で行われていた徴税請負制度を廃止し、荒廃したナイル川デルタ地帯の灌漑水路を復興しました。
 微:エジプトの武田信玄と呼ばれたそうです。
 苦:また新たな農地の開墾も進み、小麦、綿花、サトウキビ、亜麻、絹といった商品作物栽培が進められ、それらは輸出専売制度によって国家財政を潤しました。
 微:エジプトの大久保利通と呼ばれたそうです。
 苦:全ての農地は国税台帳に記載され、税制改革によって政府の直接税収入はわずか十数年の間に額面にして約10倍に激増し、政府歳入の4分の1を専売収入が占めるまでになりました。
 微:正直者が馬鹿を見ていたんだな。アホが見るのはブタのケツだったけど。
 苦:いや、中国宋王朝以降の歴代王朝の税台帳や徴税額もいいかげんでしたから、こんなもんでしょう。日本でも江戸時代であっても農地の全部を掌握するのは不可能でしたから。
 微:それまでどんな徴税率だよ。本人が手続きしてないのに、勝手に免除通知でも送ったんか? そんなんじゃ国税庁はおろか社会保険庁でも採用されないぞ。
 苦:ムハンマド・アリーは改革で得た収入を財源に、西洋式軍を整備し、西洋式の兵器を国内で生産するための軍需工場を建設しました。またそれ以外にも輸出品である織物の国営近代工場を設立し、それらを支える軍人、技術者、教師をヨーロッパ諸国から招きました。エジプト人に近代的な知識を提供するための出版物の翻訳・出版を行う翻訳局も設立され、優秀な若者はパリに留学生として送られます。
 微:むしろ、末期江戸幕府や明治政府がムハンマド・アリーの施策をパクっていたと考えた方がいいな。
 苦:そうです。宗派に関係のない徴兵制が施行され、イスラム教育にかわって実用的な学問を教える中等・初等学校が設立されました。このように、ムハンマド・アリーは税制や教育、兵役などあらゆる面で全エジプト人が宗教の帰属にかかわりなく平等に扱われる新時代の道を開きました。その結果、近代的なエジプト国民の意識が創出され、1881年にその可能性が見えたのです。
 微:キミの模擬試験でいうと、年に1回だけ出るB判定くらい儚いものかもな。
 苦:イスラム世界における近代化をオスマン帝国に先んじて推進したアリーのもとで、エジプトの国力は急速に増強され、1818年にはワッハーブ派がアラビア半島に興したワッハーブ王国を滅ぼし、1820年からは南のスーダンに侵攻してスーダン北部をエジプト領に併合しました。
 微:ラメス2世でもそこまで征服しなかったのに。どこかから地上げ資金が流れ込んでいたのか?
 苦:1821年にはギリシア独立戦争が本格化するが、オスマン帝国はこれを独力で鎮圧することができずエジプト軍の来援を求めました。アリーは支援の見返りとしてシリア地方4州の行政権を約束されましたが、オスマン帝国のマフムト2世はこれを反故にしました。
 微:アリーは怒るわな、自分より弱いやつにやられると。足利義昭に激怒した織田信長状態。
 苦:ただ、信長の息子は石原慎太郎の子どもレベルですから。アリーは1831年に長男イブラーヒームをシリアに遠征させ、武力でこれを奪取しました。これが第一次エジプト事件です。
 微:アリーの強欲ではなく、オスマン帝国の節操のなさが原因だったのか。
 苦:列強がこの問題に介入し、結局1833年になってオスマン帝国とエジプトはムハンマド・アリーに一時的にシリアの行政権を譲ることで和解しますが、ロシアはオスマン帝国支援の代償として、ウンキャル=スケレッシ秘密協定でボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の自由通行権を獲得します。
 微:この時のロシア皇帝はニコライ1世だったよな、クリミア戦争をオスマン帝国に仕掛ける。
 苦:1830年代の後半に入ると、ムハンマド・アリーはフランスなどの支持を得てエジプトの独立をオスマン政府に認めさせようとしましたが、列強の強い反対で失敗します。しかし、この要求を知ったマフムト2世はアリーに対する敵意をより募らせ、1839年にアリーの長男イブラーヒームが駐留するシリアのアレッポに向けてオスマン帝国軍を進撃させ、ここに第二次エジプト事件が勃発します。
 微:こっちも原因はオスマン帝国側か。ロシアと同じくらい懲りない国だな。
 苦:開戦直後にマフムト2世が急死し、新たに即位した若いアブデュルメジト1世はアリーの子孫にエジプトの総督職を世襲させるという妥協案を提示して和解を図ります。
 微:ファミリーマートじゃない、タンジマートを開始したスルタンだな。
 苦:しかし、エジプトの勢力拡大を嫌ったロシア、オーストリア、プロイセンがエジプトとオスマン帝国の交渉に介入し、1840年にロンドンで四カ国協定を結んでムハンマド・アリーに撤兵を迫りました。イギリスはオスマン帝国と共同でシリアへの上陸作戦を敢行し、アリーはついに屈服します。
 微:イメージ的には、後北条氏の屈服だな。裸一貫から最初の戦国大名にのし上がったのに。
 苦:1841年、アリーの子孫にエジプト総督世襲を認める代償としてシリアおよびアラビア半島の全領土の放棄、陸軍兵数の制限、軍艦新造の禁止などの厳しい条件で和平が結ばれました。しかも、オスマン帝国がカピチュレーションに基づく治外法権の承認、関税自主権の放棄、国内市場の開放をエジプトにも承認させます。その結果、エジプトは列強の経済的植民地化の道を歩むことになるのです。
 微:自由貿易のこの辺の怖さを知っていて、アメリカは日本市場を開放するよう言うし、日本に自分からそうさせようとするからな。アメリカ礼賛野郎は、ホント、馬鹿だぜ。
 苦:ムハンマド・アリーは1848年に長男イブラーヒームに先立れ、失意と老衰のうちにカイロ市中の自邸で翌1849年に没しましたが、話は終わりません。国際貿易に市場が開放され、しばらくはエジプトは莫大な綿花生産が経済を支え、政府主導で近代化路線は形を変えて続けられました。
 微:明治日本が生糸と米のモノカルチュアになりかけたもんな。
 苦:19世紀半ばには土地私有が認められ、エジプト経済は綿花輸出の利益で繁栄を極めますが、それは南北戦争による綿花不足が生んだバブルでした。その最中に外債でスエズ運河建設が進められます。
 微:今の兵庫県や芦屋市の財政状態と同じだな。余計なもんまで作って借金増えて。
 苦:綿花輸出依存は要するにモノカルチュア経済です。エジプト経済は外国の景気変動の影響を増幅して受け、極端に不安定化しました。また1870年代に米国産綿花が国際市場に大量に流入すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、スエズ運河建設資金の返済はエジプト財政に過大な負担となりました。
 微:経済開発業界の中村うさぎだな。
 苦:巨額の対外債務は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河株をイギリスに売却することを余儀なくされ、翌1876年、エジプト財政は破産し、財政部門は列強管理下に置かれることになりました。
 微:IMFに管理された韓国、実質ドイツに支配されたギリシア・イタリアみたいに屈辱だろな。
 苦:しかしエジプト財政の破綻は1881年、近代化政策が生んだ新しい社会階層による、エジプト史上初の民族運動を呼び起こします。ウラービー大佐を指導者とするこの革命運動は「エジプト人のためのエジプト」を謳い、ウラービー運動と呼ばれました。
 微:この時、イギリスがスパイとしてオーストラリアのワラビーを放ったんだよな。
 苦:サファリパークじゃねえよ! 運動がウラービーの陸軍大臣就任、憲法の制定に及ぶと、エジプト財政を支配する列強の介入を招き、1882年にイギリス軍がエジプトに上陸、革命を打倒します。
 微:ウラービーの熱意が裏目に出たわけだ。
 苦:イギリスはウラービーをセイロン島に流し、エジプトを軍事占領下に置きます。大英帝国の宝石インドを支配するにはスエズ運河の安全保障が最重要課題だったからです。
 微:身の丈を越えた借金、基地の提供は危険だという教訓だな。でも、今の日本の国債発行残高と米軍配置を考えると、かなりヤバくねえ?
 苦:キミの勉強と同じで、成功は一度だけ、失敗は何度も繰り返すのです。何度も喩えた日本のように。

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