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(5)「ドナドナ」の日本定着と意味の重層化~燕、栗毛、子牛、旅人、麦~

(2)「ドナ=アドナイ(主)」説について
 解放されたユダヤ人もビケルも1945年に東欧のDPキャンプ(11)において「ドナドナ」の元歌であるイディッシュ語版「仔牛」を「民謡」と誤解したこと、それがアメリカと西ドイツで異なる展開を生んだは既に記した。
 アメリカではすぐに作曲者のセクンダがビケルの誤解を解くために「仔牛」の著作権のことで手紙を彼に送ったとの娘ヴィクトリアの証言が残っている(12)。しかもビケルは1959年のニューポート・フォーク・フェスティバルにピート・シガーとともに参加しており、その経緯から1960年の『ジョーン・バエズ』では「ドナドナ」だけ作詞・作曲者が明記されたのだろう。
 他方、西ドイツからポーランドにかけての東欧ユダヤ人地域ではホロコースト前にはなかった"dona"の囃子言葉を伴う「仔牛」が「民謡」として広まっていた。メロディーは民謡起源だと思われたが、その詞の作者は誰か、ということが話題というか探索の対象となった。それに一つの回答を与えたのがビーアマンだった(12)。
 彼は「仔牛」の作詞者に最もふさわしい詩人としてイディッシュ詩人イツハク・カッツェネルソンだと指摘した。カッツェネルソンは大戦勃発後にワルシャワ・ゲットーに暮らし、創作活動と抵抗運動を続け、1942年に二人の子どもをアウシュヴィッツ絶滅収容所に「計画移送」され、彼自身も1944年にアウシュヴィッツ移送時に銃殺された。ただし、ビーアマンには誤りも多く、実際にはアウシュヴィッツではなくトリブリンカであり、「ドナドナ」は作者が誰かを問うことも無意味な歌になったと弁明している。
 だが、「仔牛」の作者と来歴を巡るこの誤解は思わぬ展開を生む。戦後西ドイツでユダヤ人のイディッシュ語民謡をイディッシュ語で歌った=反体制的ジャーマン・フォークを代表するバンドであるツプフガイゲンハンゼルの1985年発売のアルバム『わたしが耳にしたこと'ch hob gehert sogn』が「仔牛」の囃子言葉を"donaj"に変え、リフレインすることで「アドナイ"adonaj"」と聞こえるようにした。しかも彼らは「仔牛」の作詞者カッツェネルソン、作曲者不明とクレジットした(13)。
「仔牛」はアウシュヴィッツの非人間的・組織的虐殺を題材とする詩であり、さらにリフレイン部分の「ドナdona」はイディッシュ語の「アドナイadonaj(主)」(ヘブライ語のヤハウェ)が「擬態(ミミクリー)」したものであり、殺されるために移送されるユダヤ人の運命、強制収容所にまだ残っているユダヤ人同胞の運命をヤハヴェに訴えた歌だという魅力的で心を鷲掴みにするような細見和之氏による「誤解」も生み出した(14)。「ドナドナ」はアウシュヴィッツあるいはホロコースト(ショアー)の記憶を伝え、子牛とは「計画移送」されていくユダヤ人であり、その「悲しそうな瞳で見られて」いたのは、彼ら・彼女らを救うことができない、明日は同じ運命にあるユダヤ人同胞だったのだ、と。
 この「ドナ=アドナイ(主)」説を最初に文章化したのは細見氏だが、この説に驚愕したユダヤ人・文化研究の大家小岸昭氏は、イスラエルに赴き、そこで出会ったユダヤ人に「「ドナドナ」という歌を知っているか」「「ドナ」はヘブライ語やイディッシュ語の「主」と理解できるのか」と質問を繰り返した。だが、ヘブライ語専門家から「音韻法則上アドナイとなることはありえない」「ただの囃子言葉だ」と返され、東欧出身者は「ドン川」「水」じゃないかと答え、がっかりしたことを正直に記している(15)。
細見氏には気の毒だが、阪井葉子氏がやんわりと断定しているように、時間の経過を考えれば、イディッシュ語「仔牛」が生まれたのはアメリカにおいてであり、イディッシュ語を理解できるアメリカのDP関係者から伝わったと考えるのが自然である(16)。そして誤解の責任の大半は「ドナ=アドナイ(主)」説を信じて歌詞を変えたツプフガイゲンハンゼル側にはある。しかし、「ドナドナ」がイディッシュ語とユダヤ人の苦難に起源を持つことを知らしめた功績は評価されるべきである。
 それよりも、黒田晴之氏が指摘しているように、「ドナ=アドナイ(主)」説に立つならば、「ユダヤ人であること=絶滅収容所に送られること=殺されること」の不運から自分を逃れさせてくれるように主(アドナイ)に祈る仔牛、つまり「ユダヤ人であることを呪うユダヤ人」(「誰が仔牛に生まれろと言ったか」)は、本当にユダヤ教徒たり得るのか。そして同胞が目の前で絶滅収容所に送られていく様子を何の抵抗もせず、主(アドナイ)に祈る強制収容所のユダヤ人たちは何を祈り、何を願っているのか。これらを想像した光景はグロテスク過ぎるとしか言いようがないだろう(17)。
 ここまでを整理すると、1940年にニューヨークのイディッシュ語地区で生まれ、1941年にレコード化された「仔牛/ドナドナ("Dos Kelbl"/"DANA,DANA,DANA")」の伝播・受容ルートは2つあったと考えるべきだろう。一つはジョーン・バエズによってアメリカから日本へプロテストソングとして。もう一つはビケルの証言が示するアメリカから西ドイツ-1941~45年に具体的に誰によってどのメディアで伝わったかは不明だが-へイディッシュ語民謡として。イディッシュ民謡「仔牛"Dos Kelbl"」として西ドイツに伝わった「ドナドナ」はツプフガイゲンハンゼルによって労働歌・民謡として、つまり戦後社会へのプロテストソングとして広まり、20世紀末に日本のごく一部に伝わった。
 前者はベトナム反戦運動に参加・共感した学生・知識人には反戦歌として日本に入り、普通の人々には童謡として定着した。後者はホロコーストの事実とそれへの関与に知らぬ顔をしていた大人たちへの反逆としてあえてイディッシュ語で歌われ、流通することに意味があった。しかもツプフガイゲンハンゼルは囃子言葉を"donaj"と変形させ、リフレインによって計画移送された哀れなユダヤ人の祈り「アドナイ"adonaj"(主)」に転じる。「ドナドナ(仔牛)」が歌うのは「荷馬車」に乗せられ、「縛られ」「うめき声をあげ」「屠殺される」運命にある仔牛と、「だったら仔牛ではなく燕に生まれればよかったんだよ!」と罵る愚かな農夫。これ以上の「計画移送されるユダヤ人」と「虐殺を見て見ぬふりをするポーランド人/ナチス関係者/見て見ぬふりをしたドイツ人」となる暗喩があろうか。
 この「ドナ=アドナイ(主)」説は成り立たないのだが、大学の研究者にそう信じさせる魅力を「ドナドナ」が持っているのもまた事実である(18)。ただ、惜しむらくは、2005年に『ポップミュージックで社会科』(みすず書房)を書いた細見氏が同書で中島みゆきの「時代」(1975年)、「地上の星」(2000年)を取り上げ、後者で「なぜ空から地上の星を見ているのは燕なのか」と「ドナドナ」との関連を指摘しながら、燕が空から見ている「地上の星」に注目していない点である(19)。また他の楽曲にも思いを馳せるべきだった。
 -「地上の星」は「黄色い星」「ダヴィデの星」の暗喩ではないのか。
 -「旅人の歌」の「旅人」は安住の地を求めさすらうユダヤ人の暗喩ではないのか。
 -「麦の唄」(2014年)の「麦」は、安住の地を見つけたユダヤ人の暗喩で、遠い故郷
  にいる家族・仲間に自分の無事と幸せを呼びかけた歌ではないのか。
「麦の唄」は細見氏の著書出版後の楽曲だからしかたない。だが細見氏は「時代」を1975年の彼女の父親の死と関連づけるが(20)、それは見当違いだろう。氏が言及すべきだったのは、彼女が意図したのかどうかは不明だが-無意識層の話だから問うても無意味であるが-、「時代」に登場する「旅人」に最もふさわしいのはポグロムあるいは強制収容所の危機を何とか逃げ延びたユダヤ人であり、彼ら・彼女らを含めて「迫害された者」「故郷を失った者」を慰め、励ます歌として解釈できる普遍性にこの楽曲を含む中島みゆきの歌が到達していることである。氏に倣えば、中島みゆきが作り歌う楽曲が時代や性別、流行を超えて聴かれつづける普遍性は、「ドナドナ」が持つ普遍的な哀しさへの「返歌を名乗らない返歌」であることに担保されている可能性にこそ気づくべきことだった(21)。

(11)大戦終結後、アメリカ軍政部が設置した"Displaced Persons"(追放された人々)を収容・保護するキャンプで1952年まで続いた。ナチスとポーランド人による虐殺・居住地の破壊が凄まじく、帰る故郷なかったためである。
(12)セオドア・ビケルの娘ヴィクトリアの証言では1945年にビケル自身がDPキャンプで難民が歌うのを聞き、「民謡」として採譜した。黒田晴之『クレズマーの文化史』(人文書院、2011年)163-175頁。
(13)録音は1979年で、細見和之氏が西ドイツ帰りの先輩からもらったLPはこれのようだ。
(14)細見和之『アドルノ』(1996年、講談社)のプロローグは感動的ですらあるが、イディッシュ語「仔牛」のオリジナルの"dona"も、『可愛いエステル』の挿入歌の"dana"も囃子言葉にすぎないことが渡辺氏と黒田氏が発見した楽譜によって確認された。
(15)小岸昭『離散するユダヤ人』(1997年、岩波新書)203-210頁。
(16)阪井葉子『戦後ドイツに響くユダヤの歌』(青弓社、2019年)、18ー19頁。アメリカ音楽産業はワーナーブラザーズのようにユダヤ系が支配しており、レコードからの伝播も考えられるが、具体的なメディアと伝播者は不明。
(17)黒田晴之『クレズマーの文化史』(人文書院、2011年)第6章、特に163頁以下を参照。
(18)細見氏は『ポップミュージックで社会科』52-55頁で「ドナ=アドナイ(主)」説が成り立たないことを認めるしかないが、「たんなる囃し言葉のような響きのうちに神への呼びかけ「アドナイ」が半ば無意識的に反復されている」という言い方で「アドナイ」と解釈してもいいと主張している。渡辺氏も「アドナイ」説が成り立たないことを確認しながら、「ドナドナ」にはアウシュヴィッツが反響していると矛盾したことを書いている。
(19)同書が書かれたのが2015年なら当然「麦の唄」も考察されていただろう。
(20)細見前掲書、131ー140頁。
(21)妄想に近いが、「地上の星」ではなぜ風の中に昴が、砂の中に銀河という星の集合体があるのか。昴とは多くのユダヤ人亡命者を受け入れたアメリカ合衆国、銀河とは1948年に成立したイスラエルなのではないか。

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