見出し画像

世界史漫才62:フランコ将軍編

 苦:今回はスペインに独裁者として君臨したフランコ将軍(任1939~75年)です。
 微:大道芸のついでで数学教えている変な外国人だな。
 苦:それはフランクルだよ! 20世紀スペインの独裁者です! 第2次世界大戦勃発前にファシズム体制を作り、1975年まで君臨しました。
 微:21世紀にまだ生きているナベツネには負けるな。
 苦:ナベツネも4億円横領の香川前会長も最低ですが、個人的にはチリの独裁者ピノチェト将軍以上に許せない人間のクズです! そして反ソ連であるならば、フランコでもマルコスでもスハルトでも、反イランであるならムバラクでも支持するアメリカも最低です。
 微:キミが言うくらいだから、資源ゴミにも出せないクズなんだろうけど。
 苦:放射性廃棄物レベルですね。話を整理します。
 微:断捨離だな。
 苦:キッパリ!と否定します。第一次世界大戦では中立だったスペインですが、戦後は、右派と左派の対立だけでなく、カタルーニャやバスクなどの独立運動もあって混乱が続きました。
 微:まあ、元々が連合王国な上に、ピレネー山脈あたりにナバラ王国やら色々あるもんな。
 苦:政治的ににっちもさっちも行かない状態を打破することになったのが結束した左派勢力の1936年総選挙勝利でした。これの背後には前年のコミンテルンによる反ファシズム人民戦線戦術指令がありまして、アサーニャを首班とする人民戦線政府が成立しました。
 微:映画的には、次はユウナニ政権だな。
 苦:ドイツの『朝な夕なに』なんて、70歳以上しか知らねえよ!! 話を戻しますと、選挙で勝った人民戦線政府ですが、基本的に左派というかリベラルの寄せ集めです。
 微:いや、スペイン自体がつぎはぎのように癖の強い地域の寄せ集めだろ。
 苦:その通りですが、人民戦線で「共和国派」と括っていいでしょう、社会主義から議会制民主主義までの幅広い勢力が違いを超えて一致できたのも、カトリック教会の政治的存在感あってのことでした。
 微:異端審問が最後まで残った国だもんな。
 苦:はい、ピカソがパリに出てきた時に一番驚いたのが、街頭で自然にキスしているカップルを見たこと、そしてそれを不道徳とパリ市民が思っていなかったことです。
 微:不道徳なことというか女性遍歴の王者が何言ってんだよ、って言いたいけどな。
 苦:こちらが言いたいのは、レーニンではないですが「目的のためにはどんな手段も正当化される」という人命を軽んじるというか、反体制派や政敵に対するテロ・報復と政治が不可分な政治文化がスペインでは当然だったということです。
 微:専制権力の一番単純な定義が「殺す権力」だから、わかりやすいといえばわかりやすい。しかも政治的には社会主義に近いアナーキストたちは1936年に警察を使って保守派の中心人物を暗殺するという方法的には極右というか極左的なことをしてます。
 微:自分で地獄の釜の蓋を開けたと。
 苦:体制側のテロの恐怖を実感した右派は反乱の準備を加速させました。1936年7月17日、モラ将軍を首謀者に植民地モロッコのメリーリャで軍が反乱を起こします。カナリア諸島に左遷されていた要注意人物フランコがモラ将軍の要請に呼応し、モロッコからスペイン本土に攻め上りました。
 微:えっ、モナの要請に応じるって、細野か二岡じゃねえのか?
 苦:そこまでボケなくていいよ、もう。そっとしておいてやれよ。反乱はスペイン全土の内戦へ拡大していきました。トレド攻略で声望を上げたフランコ将軍が反乱指導者に代わり、ドイツ・イタリアの支援を受けます。モロッコのフランコ軍はドイツの輸送機で本土各地へ空輸されていきました。
 微:しかも空爆の後で、空っぽのドイツ爆撃機を利用したんで、「エコだ」と表彰されたんだよな。
 苦:英首相チェンバレンは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選びます。
 微:ドイツへの宥和政策もあるし、アフリカ植民地独立運動に火が付くのも嫌だしな。
 苦:兄弟とも言えるフランスのブルム人民戦線内閣は閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換しました。
 微:まあ、支援できる軍事力もなかったな。大国といっても態度がデカいだけで。
 苦:内戦の初期においては、人民戦線側はバスク、カタルーニャ、バレンシア、マドリード、アンダルシアなど国土の大半を確保していました。反乱軍はマドリード陥落を目指しましたが、国際旅団部隊、市民が必死に抵抗したため、陥落しませんでした。
 微:人民戦線側はマドリードの歓楽街で勝利を祝い、二日酔いで次の攻撃でへばりました。
 苦:ベタベタですね。内戦の長期化を覚悟したフランコは北部の港湾、工業地帯制圧へと戦略を切り替えます。反乱軍は北部を制圧し、1937年春にはバスク地方が孤立し、ビルバオなど主要都市が陥落します。4月26日にはゲルニカが、ドイツから送り込まれたコンドル軍団による空襲を受けました。
 微:空爆ですべてが歪んでいたので、ピカソが珍しく写実的に描いたのに、全部が歪んでいる・・・。
 苦:あれは確立された画風! さらに、1938年にはアンダルシア地方の大部分がフランコ側に占領され、人民戦線政府側の勢力はカタルーニャとマドリードで南北に分断され、カタルーニャの孤立化が進みます。なのに人民戦線政府側は反スターリン派とコミンテルン派の間で分裂していました。
 微:つまり、中国に従うのか、将軍様に従うのかの争いだな、北朝鮮に置き換えると。
 苦:国際的情勢は、さらに人民戦線政府に不利なものとなりました。
 微:テポドン発射するからだよ。
 苦:スペインの話だろ! 人民戦線側の唯一の希望は、大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの構図が確立し、国際的支援を取り付けることでしたが、9月のミュンヘン会談でこの期待も挫かれました。
 微:ミュンヘンで乾杯している間に、人民戦線が完敗、ウマイねえ、我ながら。
 苦:聞かなかったことにします。1938年7月、人民戦線側は南北分断状態を打開しようと、エプロ川で攻勢に出ます。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したんですが、戦線は膠着状態となります。
 微:前半の激しいプレッシングで体力を使い切り、後半は足が止まったそうです。
 苦:サッカーじゃねえよ!! 人民戦線側はずるずると後退し、フランコ側の約2倍の死者を出し、カタルーニャの人民戦線陣営は消耗し尽くしていました。
 微:サッカーでブラジルと戦った日本代表が前半で足をつらせるようなもんだな。
 苦:フランコ将軍は30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、1939年1月末にバルセロナを陥落させました。
 微:この頃、カタルーニャ出身のサマランチ会長も「も~、タマランチ」と叫んでいましたから。
 苦:スポーツ新聞のエロ記事じゃねえよ! 2月末には英仏がフランコ政権を承認し、アサーニャは辞任を表明しました。フランコは3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始します。
 微:まず、牛の大群を放ったそうです。
 苦:人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解し、4月1日にフランコは勝利宣言を出しました。
 微:でもエイプリル・フールなので、誰も信じなかったそうです。
 苦:オマエは毎日がエイプリル・フールだろ! 勝利したフランコ側は、人民戦線残党に激しい弾圧を加えます。フランコの軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を処刑しました。
 微:半分は生かしたということは、慈悲深いんだろうか?
 苦:容赦ないよ!! 自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語、カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治要求も独自文化も圧殺しました。
 微:それでフランコの息のかかったレアル・マドリーとの試合にバルサのソシオは燃えるんだな。
 苦:カンプ・ノウ球場の「カタルーニャはスペインではない」横断幕ですね。人民戦線側の残党から多くの国外亡命者が出た他、ETAなど反政府テロ組織の結成を招きました。ちなみに同じくレアル・マドリーとの試合に命を賭けるアトレティコ・ビルバオは選手全員がバスク人です。
 微:ちなみに「打倒巨人!」を掲げる阪神の選手のほとんどは大阪・兵庫の出身ではありません。
 苦:みんな知ってるよ、もう。スペインの混乱は一応の終息を迎えました。内戦による国土の荒廃も激しいものでしたが、フランコが生んだスペイン国民の心の荒廃はもっと凄まじいものだったのです。
 微:そうです。ヤケクソで人混みに牛を突進させて、それを見て笑う連中がたくさん出てきました。
 苦:それは毎年やってる牛祭りだよ!
 微:その次には、食べ物を粗末にし、トマトを相手かまわず投げつけるバカも大量に現れました。
 苦:それも恒例のトマト祭りで、もういいよ! 1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは中立を宣言しましたが、緒戦でのドイツとイタリアなどの枢軸国の優勢を見て枢軸国側に近づきます。1940年10月にはアドルフ・ヒトラーと会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示しました。
 微:その時の無修正写真がネットに流れて、えらいことになったんです。
 苦:その頃、ネットはおろか、パソコンもねえよ! フランコ政権は、彼が内戦中に組織した「ファランヘ党」の一党独裁政権であり、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行いました。そのため、国際連合は、1946年12月の総会で、スペインを排除する決議を採択しているほどです。
 微:その「ファランヘ」も創設者が殺されて微妙に政策は変化しつづけたんだよな。
 苦:しかし、東西冷戦の激化により、アメリカはスペインとの関係の修復を模索し始め、1953年に米西防衛協定を締結しました。ファシズム独裁がアメリカ公認の開発独裁に変わった瞬間でした。
 微:アメリカは、自分の正義は疑わないし、相手国の指導者が犯罪者なのに疑わない。
 苦:80歳を越えてフランコの健康状態が悪化し、後継者問題が表面化しました。フランコは前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを1969年に後継に指名し、1975年に83歳で没しました。
 微:イベリア半島の春だな、1974年と75年は。
 苦:1975年にブルボン朝が復活し、国王フアン・カルロス1世は政治の民主化を推し進め、急速に西欧型議会制民主主義および立憲君主制国家への転換しました。1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認し、正式に民主主義体制へ移行、「スペインの奇跡」と呼ばれました。
 微:1981年の軍事クーデタでも、国王は直ちに全軍の指揮官に応じるなと呼びか、失敗させてたな。ここにスペイン人のフランコ時代への拒否感がよく表れているな。
 苦:国王が国外に住んでいるタイやカンボジアはどうなるですかね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?