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世界史漫才57:ニコライ2世後編

 苦:さて、ニコライ2世編の後半ですが、前回の日露戦争に関連して、一人のドイツ出身のユダヤ系アメリカ人を取り上げたいと思います。
 微:アメリカの映画・音楽産業ってほとんどユダヤ人だし、2008年の金融危機で名前の出た投資銀行って、全部ユダヤ人が創業したものだしな。
 苦:ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847~1920年)です。シフはフランクフルトのユダヤ人で、ラビの系に生まれ、18歳の時に渡米します。いくつかの銀行を転々とした後、ソロモン・ローブの娘テレサと結婚し、「西半球で最も影響力のある国際銀行」クーン・ローブの頭取に就任しました。
 微:「逆玉の輿」だな。略して「逆玉のシフ」。
 苦:ガンヲタ・ネタかよ! シフは常にユダヤ人社会への強い絆を感じ続け、ロシアでポグロムに苦しむユダヤ人の解放に尽力しました。そのシフが攻撃的かつ個人的な「反ロシア」外交を勝手に展開したのが日露戦争に際してです。
 微:ロシアからしたら知らない相手からの一方的な恨みによる妨害・嫌がらせだな。
 苦:日銀副総裁高橋是清がロンドンに戦争外債募集に赴いた時、2億ドルの融資を通じて日本を強力に支援しました。さらにイギリスに渡り、ユダヤ財閥ロスチャイルドに代わって、日本の外債募集に応じるようイギリス財界の大物を説得しつづけたのです。
 微:『屋根の上のバイオリン弾き』のポグロムをテヴィエに告げる警察署長室の壁にニコライ2世の写真があったな。まあ、ユダヤ人にとっては最大の敵だったわけだ。
 苦:さらにシフの帝政ロシア打倒工作は第1次世界大戦の前後の帝政ロシアへの融資妨害まで及び、1917年の十一月革命ではレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2000万ドルの資金を供与して支援します。
 微:それって、融資じゃなくて寄付だろ、実際。でもそのためにトロツキーは必要だったんだな。
 苦:話を1905年のロシア第一革命に戻すと、ニコライ2世は基本的な人権の承認、集会の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権拡大を盛り込んだ十月勅令の発布に追い込まれます。
 微:ヴィッテも頑張ったんだな。
 苦:勅令に関して彼は「今度の背信行為は恥ずかしくて病気になりそうだ」と語ったそうです。
 微:それは草薙君が言っても不自然さがないですな。
 苦:蒸し返してやるなよ。1906年にロシア第一国会(ドゥーマ)が召集されます。それに内務大臣として臨んだのがストルイピンです。彼は国会運営に辣腕を振るい、7月に内閣総辞職に追い込みます。
 微:どっちの方向で頑張ってるんだよ!
 苦:これを機にニコライ2世から首相に任命されると、その翌日にドゥーマを解散し、翌年の第二国会開催までに「ストルイピン改革」を進めていきました。
 微:なんかミャンマー的なというかタイ的な臭いがぷんぷんするな。
 苦:そのストルイピン改革ですが、一応は「体制内改革」と銘打たれていましたが、農業の土地改革の他に、言論・出版・結社・集会の自由の拡大、地方裁判所改革、地方自治体の再編と自治の近代化、中央政府の機構改革、都市労働者の生活改善、宗教改革、ユダヤ人の権利拡大まで含めた、極めて広範囲なものでした。ある意味、ピョートル1世以来の「上からの改革の総仕上げ」と言えるものです。
 微:あまりの強引な無茶振りに「ムチャブリスト」と呼ばれたそうです。
 苦:ストルイピンは革命派を容赦なく弾圧し、戒厳令を施行します。裁判迅速化のために軍事法廷を導入し、そこで死刑宣告を受けた被告は即日絞首刑に処せられました。中国の人民法廷みたいですが。
 微:それで絞首台が「ストルイピンのネクタイ」と皮肉を込めて呼ばれたんだな。
 苦:しかし予想以上に革命機運は高まり、翌年の第二国会は社会民主労働党、社会革命党などの左派政党が躍進します。ストルイピンは6月に社会民主労働党の国会議員を逮捕し、国会を解散した上で選挙法を改正して第一次ロシア革命を終わらせます。ですがストルイピンは、その強いイニシアティブに不快感をもったニコライ2世と対立していました。
 微:敵か味方かわからないくらい目まぐるしい展開だな。
 苦:さらに土地改革は、農村共同体(ミール)からの農民の自由な脱退や、個人の私的土地所有権の確認、個人経営農場の創設などを導入したのですが、これが予想に反して、ミール解体を嫌悪する多くの農民から反対を生み、ストルイピンは孤立無援状態に陥りました。
 微:「革命を避けるには革命の理念を先取りしなければならない」と喝破したプロイセンのハルデンベルクを見習って欲しいね。
 苦:1911年、ストルイピンはキエフでユダヤ人アナーキストに銃撃され、4日後に死去しました。
 微:そのアナーキストは誰に雇われたんかな。ニコライ2世もあり得る。
 苦:改革は頓挫した状態で第1次世界大戦突入です。7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦すると、ニコライ2世は3日後にロシア軍総動員令を布告し、ドイツと開戦しました。
 微:まだイギリスは宣戦布告していないのに。やる気だけは満々。
 苦:しかもロシアはピョートル1世が作った人民に対する負担強制システムのまま20世紀の総力戦に突入したんです。すでに日露戦争で限界が見えていたのに、手つかずで。
 微:ロシアって、いつも微妙な位置で連合国にいるよな。イタリアと違って裏切らないけど。
 苦:その微妙さこそロシアの本質です。1915年春に、近代兵器を擁するドイツに大敗を喫して「大退却」を余儀なくされると、皇帝ニコライ2世は、ラスプーチンの予言もあって、司令官ニコライ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執りました。
微:逆に士気が下がっただろうな、現実を理解していないトップがしゃしゃり出るほど現場の士気は下がり、混乱し、ヨイショ人間が出世していく・・・。
 苦:現在の日本でもそんな会社や学校も多いでしょうね。その怪僧ラスプーチンですが、祈祷による病気治療を通して「神の人」と称されるようになり、アレクサンドラ皇后に紹介され、血友病患者であったアレクセイ皇太子を治療して皇后の信頼を得ました。
 微:ロシア版ライフスペース、神仙会か?
 苦:プラシーヴォ効果でしょうね、「鰯の頭も信心から」の言葉通り。首都ペトログラードではラスプーチンが政治も人事も動かし、皇后と愛人関係にあるとの噂が公然となされるようになります。ロマノフ朝関係者は王朝への批判をラスプーチン批判にすり替え、彼を「切る」ことでかわそうとします。
 微:津田三蔵を日本から呼んだのか?
 苦:その「斬る」とは違います。1916年12月29日、ラスプーチンは青酸カリを盛った食事を出され、それを食べたのに死にませんでした。さらに背後から何発も銃撃されても死にませんでした。
 微:食事の前に石仮面を被ったそうです。
 苦:ディオかよ!! 倒れたところを殴る蹴るの暴力を受け、窓から道路に放り出されました。
 微:その舞台がチェコなら戦争開始の合図だな。
 苦:それでも息が残っていました。しかたなくネヴァ川の氷を割って、開いた穴に投げ込まれます。三日後、ようやくラスプーチンの遺体が発見されますが、検死の結果、死因は溺死でした。川に投げ込まれた時もまだ息があったのです!
 微:暗殺版「大きなカブ」だな。「まだまだラスプーチンは死にません」の繰り返し。
 苦:適切な保存状態になかった青酸カリを使用したこと、青酸カリは熱や酸に弱いため、料理の調味料や熱で変質してしまったことが即死しなかった真相のようです。
 微:青酸カリが普通に宮廷の台所にあることの方がすごいんとちがうか?
 苦:おっしゃる通りですが、そこは突っ込む所ではありません。遂に1917年1月、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起し、軍の一部も反乱に合流し、ロシアは完全に混乱に陥りました。
 微:日本が江戸幕府のしくみのまま第2次世界大戦でアメリカと戦争するようなもんだな。
 苦:こうした状況下、社会革命党が指導する三月革命が起こります。内閣は総辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝廃位を要求しました。1917年3月15日、ほとんどすべての司令官の賛成によって、ニコライ2世はプスコフで退位させられます。
 微:これって、クリルタイの”逆バージョン”だよな、完全に。
 苦:ロシアのモンゴル的部分ですね。ニコライ2世は皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル大公に皇位を譲ろうとしましたが拒否され、300年つづいたロマノフ朝は終わりました。
 微:確か、大戦前の1913年にロマノフ朝300周年式典をやっていたよな。そのニュースを知った徳川慶喜が歯ぎしりをして悔しがったんだろ?
 苦:話を作るな! この後、臨時政府によって皇帝一家7人は捕らえられ、シベリア西部のトボリスクに流され、十月革命後にウラル地方のエカテリンブルクにあるイパチェフ館に監禁されます。
 微:ドイツ人エカチェリーナ2世由来の都市にか。
 苦:しかし、チェコ連隊の決起によって反革命軍がエカテリンブルクに近づくと、1918年7月17日、レーニンの命令を受けた処刑隊が皇帝一家7人、従者3人、侍医1人を館の地下で虐殺しました。
 微:で、青酸カリを盛ったけど死ななかったんで、銃撃したんだろ?
 苦:それはラスプーチンだよ! ソヴィエト政権は「ニコライ2世のみが処刑され、家族は安全な場所にいる」と発表しました。皇后アレクサンドラ皇后の血筋から諸外国とのトラブルを回避するためでした。これが「5番目の皇女アナスタシアが生きている」「皇帝一家は死んでいない」といった皇帝一家に関するさまざまな噂が長年にわたって生まれる原因ともなりました。
 微:西南戦争後の「西郷はまだ生きてロシアにいる」という噂と同じだな。
 苦:1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された共産党の記録から、皇帝一家全員が赤軍によって銃殺されたことが正式に確認されました。
 微:この話を昭和天皇は知っていたのかな? そう考えれば、共産主義革命を恐れ、米軍の日本防衛義務のは書かれていないのに、内乱・騒擾鎮圧出動は明記してある安保条約が説明できるけど。
 苦:まあ、事実上の”ラスト・エンペラー”だったしね。でも、どうやって知るんだよ?
 微:それは西郷隆盛から聞いたんじゃねえの?
 苦:そこから離れろ!(ペシッ!)

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