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世界史漫才51:ムスタファ・ケマル編

 苦:今回はトルコ共和国の初代大統領ムスタファ・ケマル(1881~1938年)です。国内ではケマル・アタテュルクと呼ばれ、日本では、革命当時のケマル・パシャの名で言及されることも多いです。本名のムスタファは、「選ばれし者」を意味し、ケマルは数学が得意だったために付いた「完全な」を意味するというあだ名です。
 微:日本のDQN夫婦なら、サッカーがうまくなるよう、「蒸太斧亜 蹴鞠」って登録してるな、絶対。
 苦:ヤンキー万葉仮名やキラキラネームはいいよ! ムスタファ・ケマルは、1901年に士官学校を卒業して少尉に、1905年に参謀学校を修了して参謀大尉に任官します。
 微:よほどオスマン帝国は人材不足だったんだな。
 苦:士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱き、参謀学校の同期生らと最初の任地ダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を設立するなど、早い段階から政治活動に参画しています。
 微:新興国家に多いパターンだな。穏健な中産階級が層をなさない分、軍が政治化する。
 苦:1906年に青年将校や下級官吏が青年トルコ党、正式には「統一と進歩協会」を結成します。ケマルの属する「祖国と自由」も青年トルコ党に吸収され、1908年の青年トルコ革命は成功します。
 微:その時のメンバーが昨年集まったんですが、周囲から「老人トルコ党」と呼ばれていました。
 苦:話を作るな! その混乱の間隙を衝いて1911年にイタリアがリビアに侵攻したため、ケマルは青年トルコの特務機関の活動家たちとリビアに赴き、ゲリラ戦に従事しました。
 微:だけどサッカー以外でイタリアに負けるって、どんだけ弱い軍隊なんだ・・・。
 苦:第一次世界大戦では第19師団長のケマル中佐は、1915年4月の英仏軍のガリポリ上陸作戦を食い止め、その功績で1916年に准将に昇進して「パシャ」となります。
 微:スマホで写真を撮りまくってインスタに上げまくったんだな。
 苦:パシャは将軍の意味です。大戦末期の1918年、ケマルはスルタン宛に休戦を勧める電報を打ちます。勝ち目はないと判断したのでしょう。10月30日にオスマン帝国は休戦協定を締結しました。
 微:というか、19世紀後半から負け続けのオスマン帝国軍で、よく昇進できるよな。
 苦:アメリカだと小さな勝利で大統領までなれますので、もっと恐いものがあります。大戦終結後、オスマン帝国は連合国に分割占領され、アラブ人地域は英仏の委任統治となり、やがて独立国になります。
 微:この領土分譲販売でスルタンは荒稼ぎして累積債務を清算したそうです。
 苦:そんな立派なスルタンなら破産しねえよ! そしてアナトリア各地で占領への抵抗運動が起こります。イスタンブルにいたケマルはひそかに抵抗運動の指導者となろうと決意していました。
 微:それで、まずはトルコ国民新党を結成したわけだな。
 苦:それは息子の郵便事業の随意契約を維持するために自民党を脱退した綿貫のジジイだろ! 1919年にアナトリア北部に赴任したケマルは反占領運動の指導者となり、各地に分散していた帝国軍の司令官、旧青年トルコ党の有力者を招集し、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げる一方、抵抗運動を組織化していきます。
 微:なんとか5人確保して、政党助成金は確保しました。
 苦:それも日本の制度だよ! 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月に首都イスタンブルを占領します。首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちはアンカラで大国民議会を開き、スルタン政府にかわって国家を代表するアンカラ政府を樹立しました。その首班がムスタファ・ケマルでした。
 微:いかつい軍人ばっかりだったので、陰で”バンカラ政府”と呼ばれました。
 苦:高校生にはわかんねえだろ、そんな死語! この頃、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていましたが、ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍を撃退すると攻勢に転じ、1922年9月に地中海沿岸のイズミルをギリシャから奪還します。聖書にエペソとして出てくる都市です。
 微:”エペソ・イズミル”と繰り返すと、妖しい呪文に聞こえるな。
 苦:余計なことしなくていいよ! アンカラ政府はその実力を連合国に認めさせ、トルコ側に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功しました。同年10月、ローザンヌ講和会議に連合国はアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘します。ケマルはトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、大国民議会にスルタン制廃止を決議させました。オスマン帝国が消滅した瞬間です。
 微:そしてケマルは自分が新しいスルタンに就任しました。
 苦:袁世凱じゃねえよ! ケマルは翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任したのです。
 微:まさに袁世凱! やっぱり軍人の考えることは同じだな。
 苦:1924年、世俗主義者ケマルはトルコ共和国をイスラームから解放するため、議会にカリフ制の廃止を決議させました。これでトルコの脱イスラーム国家化の動きは一気に進みました。
 微:このM&Aと収益部門の切り売りのノウハウを提供したのがリーマン・ブラザーズで、最後までこの成功体験の呪縛から逃れられなかったようです。
 苦:それは2008年だよ! ケマルは穏健野党の育成も図りましたが、野党の進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアで起きたクルド人の反乱から方針を転換し、1926年には反対派を一斉に政界から追放しました。ケマルが党首を務める共和人民党の一党独裁体制の樹立です。
 微:この辺は中華民国、中華人民共和国に通じるものがあるね。改革独裁というか開発独裁というか。
 苦:独裁権力を握ったケマルは、憲法からイスラームを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記をラテンアルファベットに改める「文字革命」を断行しました。
 微:ケマル自身がアラビア文字読めなかったそうです。
 苦:ジョージ1世かよ! さて、経済面ではケマルに好意を抱いてたソ連のスターリンが1932年に巨額融資を手土産に経済顧問団を派遣、これを受けて1934年5月からトルコも五カ年計画を導入します。
 微:これが第2次世界大戦末期の共産党との内戦のきっかけになるわけですね。さすが元祖ひも付き援助。
 苦:また、スイス民法ほぼ直訳の新民法を施行するなど、私生活の西欧化も進められました。1934年の創姓法をきっかけに「トルコの父」を意味するアタテュルクを大国民議会から姓として贈られます。
 微:狂ったようにトルコ国民国家を作ろうとしたんだから”バカテュルク”(トルコ馬鹿)の方が良かったんじゃないの? 役者馬鹿こと藤岡弘、みたいにもっと迫力出るし。
 苦:ケマルは1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡しました。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされています。
 微:世俗化は自分の飲酒を正当化するためだったそうです。
 苦:ケマルが死ぬまで一党独裁制下の強力な大統領として君臨しました。ですが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたようです。
 微:これも中華風味が漂うなあ。形だけは当選しない他の政党が存在してるもんな。
 苦:また、彼の死後にはケマルの神格化が進みますが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていました。
 微:そうです、神として敬うことをケマルは求めてましたから。
 苦:直接聞いたようにウソを言うな! 以上のようにケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷きました。しかし、そのために反対派を徹底的に排除してきました。そのため、彼の後継者となったイスメト・イノニュの政治姿勢は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者的な権威主義と共通する部分が多いです。
 微:ナベツネとかド・ゴールに通じるが、やはり中華的。ヌーヴェル・シノワ。
 苦:ナベツネは政治化じゃねえよ!! ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ケマル個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっています。
 微:現在のトルコでは両派による二大政党政治が展開しています。
 苦:どっちも同じだよ! ケマル主義の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手である軍の上層部は、ケマル主義(アタテュルク主義)を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきました。
 微:あー、この辺はミャンマー風だな。弾圧の仕方も、クーデタのタイミングも。
 苦:1960年と80年の軍事政変も「政治家のケマル主義逸脱是正」「ケマル主義擁護」を名目として実行されています。かつての東欧社会主義圏で「修正主義」と言えばどんな介入もできたのと同じです。
 微:修正主義と非難するのが習性になっていたわけだな。
 苦:トルコにおけるケマルの顕彰に対しては、さすがのトルコ国内でも、「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどです。
 微:政教分離って、完全に神扱いじゃんか、既に。まさに「語るに落ちる」だな。
 苦:個人的には、以下のように考えています。戦間期と大戦直後という国民国家システムが地球全体を覆う特別な時期は、国民国家建設という大義と永遠の権力者になりたいという私利、アメリカとソ連、こんな相反するフォース(ジェダイのフォースと、帝国の暗黒面のフォース)の中間に、一種の引力消失面が生まれた時代であった、と。
 微:出たな! 変な譬え。
 苦:その両方の引力というか反発力の消失面をリニアモーターカーのように利用して猛スピードで直進したのがムスタファ=ケマル。抵抗のない引力消失面の加速度を制御できずに、空間を飛び出してしまったのがスカルノ。私利という暗黒面のフォースに飲み込まれたのがスハルトとマルコス。
 微:その線で行くと、「暗黒面の力」を使いながら被害者顔をしていたのがカンボジアのシハヌーク。暗黒面のフォースを上回る呪術を駆使したのがビルマのネ・ウィン、になるかな。
 苦:そうです。さらに言えば、暗黒面のフォースの威力を利用しながら国民国家という大義を浸透させたのが台湾の蒋介石・経国親子と盧泰愚以降の韓国。暗黒面のフォースを日本的に利用したのが北朝鮮の金日成・正日・正恩三代だと。
 微:そしたらヨーダそっくりの宮沢首相のいた日本はどうなる?
 苦:慌てるしか能のないC3POに決まってるだろ!(チャンチャン)

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