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世界史漫才20:グレゴリウス7世編

 苦:今回は西欧世界に大きな影響力を及ぼしたローマ教皇です。
 微:ああ、あの聖書のどこにも根拠がないのに偉そうにしている奴だな。
 苦:まあ、日本の首都を明記した法律がなくても首都は東京なんで、ぜひ、ここは大目に。
 微:しかたない、越後屋の頼みとあらば、無下に断るわけにもいくまい。
 苦:いつから時代劇になってんだよ!(ペシッ!)
 微:ほんにお主も悪よのう。
 苦:いつまでやってんだ、コラ!(バシッ!) たくさんいるので、今回はグレゴリウス7世です。
 微:わかりました。でも昔から気になっているのが「法王」「法皇」の表記だな。あれはいいのか?
 苦:宗教学上、特に仏教において「法」は厳密には釈迦が悟った真理、仏教の核心となる真理で、”ダルマ”の漢訳です。ですから「法」の字をキリスト教に使い、「法王」「法皇」の語は不適切です。
 微:ほーおー、よく勉強したな。
 苦:どさくさに紛れてしょうもないダジャレを入れるんじゃねえよ! なお、現在のフランシスコ1世から「教皇」で統一する強い要請があり、ようやく統一されました。
 微:強硬に抗議されたわけだな。
 苦:まずグレゴリウス7世ですが、叙任権闘争で神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と争い、屈服させた教皇です。実際のところ、叙任権闘争はドイツ内の聖職者の任命権を皇帝に認める1122年のヴォルムス協約で妥協しますが。
 微:えっ、ダチョウ倶楽部?
 苦:無視ね。叙任権闘争とは、西欧で行われていた聖職者以外の人間、つまり俗人が神の秘蹟につながる聖職者の任命を行うことを禁止しようとしたことから始まりました。
 微:キミのように無資格・無免許で仕事するようなもんだな。
 苦:デマを流さないように!(怒) 世界を遍く覆うに至ったイエスの聖霊による秘蹟は聖職者しか行使できない。その秘蹟に与るからパンがイエスの肉体に、ワインがイエスの血となるわけです。
 微:オレ、ずっとキリスト教はフィジーで生まれたと思ってたぜ。偉大な指導者の肉を食べることでその霊的力を得ようとするカンニバリズムだと。
 苦:あくまで象徴的行為だよ! そしたら『迷える子羊たちよ』で始まる説教を聞いているのは、みんな羊なのかよ? モンティ・パイソンじゃないぞ。
 微:アッシジのフランチェスコは鳥に説教したからな、つい。
 苦:妙に詳しい知識を入れるな! ボケはボケらしく、一般人的な誤解をふくらませてボケろ!
 微:わかった。
 苦:俗人による聖職者任命は、実は前に扱ったカール大帝から本格化していました。王国の高官経験者が司教に任命され、教会はカールの介入を受け入れたのです。そして彼の祖父カール=マルテルによるフランク王国の騎士制度創設も教会財産を巡ってローマ教会と結びついていました。
 微:それを略したのが『カルマル同盟』だな。
 苦:それも15世紀の北欧の連合王国だろ! ごく普通の高校生や大学生はわかんないよ。
 微:勉強しろ、勉強!
 苦:爆笑問題の太田かよ! 話を教会と国家の関係に戻します。その関係の曖昧さが強みでもありましたが、やがて際限のない世俗権力の介入と、それに伴う聖職者の乱れを招きます。司祭の地位を売買したり、独身であるべき聖職者の妻帯がその代表です。
 微:日本の上皇とか法皇って、そんなやつばっかりだろ、白河といい、後白河といい。
 苦:まあ、官職売買で生活していましたから。それに敢然と立ち向かったのがクリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世だったわけです。さて叙任権闘争のクライマックスは1077年のカノッサの屈辱でした。雪が降る中、教皇の赦しを得るために、カノッサ城の外に粗末な服を着て、つまり道を踏み外したことを悔やむ子羊として、立ち続けたのです。
 微:それって、20年ほど前、深夜番組で実況中継されていたよな、フジテレビ系列で。
 苦:あれは名前を借りているだけで、中身はホイチョイプロが当時の日本をパロったものです。それまで強気だったのに、皇帝がその地位と権力を示す一切の装飾を外してひたすら赦しを乞うたのです。
 微:昔のワイドショーであったよな、月一回くらい。逃げた奥さんに戻ってくれるよう、ダメ夫がテレビから呼びかける企画。ギャンブル狂のオッサンが、「○○子、帰ってきてくれぇー。ワシが悪かった。許してくれぇ。賭け事はみーんなやめた。きっぱりやめた。なんなら賭けてもええ」って、いきなり賭けを始めるという展開が一番すごかったな。スタジオ中がずっこけて。
 苦:古い話をするな。もうすぐキミもテレビで訴えれるから、その時まで待ちなさい。話を戻しますと、選挙王制を採っているドイツでは有力諸侯が敢えて弱小貴族を王に選んだり、選挙で揉めていました。そこで歴代ドイツ王はローマに行って教皇から皇帝に戴冠されることでヨーロッパ全体の軍司令官たる皇帝として命令しようとしました。これをイタリア政策といいます。
 微:ハインリヒ4世の場合、”ヘタリア政策”だな。
 苦:ベタなこと言うんじゃないよ。また王家が教会を建立し、そこの司祭・司教を自分で任命し、行政の手足として活用する帝国教会政策も伝統的な諸侯への対応でした。そのドイツ王権の根幹に叙任権問題は関わっていたのです。
 微:自分の支持者を政府の官僚や役人に任命するアメリカのスポイルズ・システムみたいだな。
 苦:アメリカは報復を正義と理解するなど、中世的な要素が多分にあります。グレゴリウス7世は書簡を送ってハインリヒ4世がたびたび約定を違えることを批判し、教会による懲罰だけでなく、王位の剥奪まで示唆して警告しました。
 微:それこそ絵に描いた越権行為、叙任権問題だろ!
 苦:ほんそれ、です。教皇による王位の剥奪の可能性という前例のない警告を受けたハインリヒ4世と彼の宮廷は激昂し、急遽ヴォルムスに教会会議を召集して対策を協議しました。会議は教皇廃位を決定し、ハインリヒ4世はこの議決を受けて、新教皇の選出を要請したのです。
 微:クラスメイトや学校に迷惑かけておいて、反省できない高校生が「担任が悪い! 担任を替えろ!」と自分を棚上げして喚くようなもんだな。
 苦:すぐにグレゴリウス7世はハインリヒ4世の破門を宣言し、臣下の服従の誓いを解きました。皇帝の破門は大方の予想を裏切って大きな影響を示し、ハインリヒ4世への服従を快く思っていなかったドイツの諸侯たちが教皇を支持して戦争をしかけてきたのです。
 微:まるで第1次安倍内閣!
 苦:そしてハインリヒ4世にとってショックだったことは民衆の間にも教皇支持が強まったことでした。まあ、後知恵ですが、これも間もなく十字軍運動が始まることを思えば自然なことです。
 微:要するに、反省できない調子こいたダメ高校生がクラスでも浮いてしまったと。
 苦:ハインリヒ4世には予想外の結果だったのでしょうが、あっという間に窮地に追い込まれました。教皇使節の呼びかけに応えて、諸侯たちは新しいドイツ王を選出すべく会合を開きました。
 微:自民党でもそこまでしないよ。
 苦:その会合というか会議ではハインリヒ4世に対して教皇への謝罪と服従の誓いを要求し、これが彼の破門から一年後の日までになされない場合には、王位は空位とみなすという決定がなされたのです。
 微:「お主は空位だから自由にしろ」だな。
 苦:「都市の空気は自由にする」だよ! またこの会議はグレゴリウス7世に仲裁役および権威の付与者として参加要請をしました。ハインリヒ4世には教皇との和解しか道は残されていなかったのです。
 微:私立高校なら「放校処分」、もう二度と高校には入れなくなるようなもんか。
 苦:それ以上です。一刻も早く和解しなければ、王位を奪われるだけでなく、敵対者の武力攻撃すら受けることになります。破門された人間には法的庇護がない上、キリストの敵です。キリストの敵を殲滅することは、神の意志に敵うことであるという攻撃的な考えは20年後に十字軍で現実化します。
 微:笑福亭鶴光に破門された嘉門達夫みたいに落語界や芸能界なら、違う道があるのにな。
 苦:まあ、自虐ネタにもなりますが。ハインリヒ4世は教皇に使者を送って和解を申し入れますが拒否されたため、自ら教皇と会うことを決めます。
 微:「ドイツの金正恩」と呼ばれたそうです。
 苦:喩えられてもうれしくないよ! ハインリヒ4世は北イタリアへは軍を率いて入り、武力による解決も辞さない姿勢でしたが、教皇の滞在するカノッサに赴いて直接謝罪を行うことにしたわけです。
 微:この話を日本の首相が北朝鮮にFAXしたらしいな。しかし謝罪しても、本心は違うだろ?
 苦:この2009年に出版された池上俊一さんの『儀礼と象徴の中世』によると、暴力が支配する中世において、「お約束」の和解のための儀礼が構築され、白黒をつけることよりも和解と共存が重視されていたそうです。まあ、禊ぎの儀式といいましょうか。
 微:なるほどな。儀式さえできなかったのがスノボの国母だったと。
 苦:古い話を蒸し返してやるなよ! で、話は思わぬ展開を見せます。ドイツ諸侯には「ハインリヒ4世破門」は追い落としの単なる口実に過ぎませんでした。破門解消後も諸侯はハインリヒ4世の追い落としを進め、1077年3月にシュヴァーベンのルドルフを新しいドイツ王として立てます。
 微:これも昔の話だが加勢大周の事務所移籍騒動を思い出したわ。
 苦:1080年にグレゴリウス7世はルドルフを皇帝とし、ハインリヒ4世の破門と廃位を宣言したのです。
 微:仏の顔をサンドバッグじゃねえ、仏の顔も三度までだな。
 苦:しかし前回の破門と違い、今回は諸侯と民衆が教皇を支持せず、しかもルドルフが同年10月に亡くなります。1081年、ハインリヒ4世はローマを包囲し、その圧力のもと、1084年3月24日に新教皇クレメンス3世が就任します。追放された教皇グレゴリウス7世はノルマンディー公ロベール=ギスカールによって救出されますが、逃亡先のサレルノで1085年に没しました。
 微:まあ、あれだな、強硬な教皇は周囲に恐慌をもたらし、自分に対する凶行を招くということだな。
 苦:偉そうに、誤変換を逆手に取ったオチを付けるんじゃねよ!(ペシッ!)

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