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世界史漫才37:マリア・テレジア編

 微苦:ども、微苦笑問題です。
 苦:今回はオーストリアの女帝マリア=テレジアです。
 微:手塚治虫の『リボンの騎士』のサファイア王女というか王子のモデルだな。
 苦:そうです。シルバーランドの法では国王になれるのは男子だけ。そこに天使チンクのミスで男の心を持った王女サファイアが生まれる。自分のバカ息子を次の国王にしたいジュラルミン大公がプロイセンのフリードリヒ2世。ただしそのバカ息子のモデルは、どう見てもロシアのピョートル3世。
 微:話は亜麻色のカツラをかぶったサファイア王女に隣のゴールドランドのフランツ王子が一目惚れして進むんだよな。
 苦:名前からしてフランツのモデルは、当時としては奇跡とも言える恋愛結婚をしたマリア=テレジアの夫フランツ1世。しかもオーストリアの隣のロートリンゲン公国の君主。ただし小国だけど。
 微:手塚治虫は「読んでもらう」ためには何でもする人間だったからな。代表作で、子どもたちがその著作権で生活している『ブラックジャック』の裏話聞いたことある?
 苦:何本も連載を抱えた手塚先生の事務所に担当編集者が10人近く集まって手塚先生を缶詰状態にしている。作品が仕上がるまで、待合室のテーブルでは「さて、次に来週〆切の『ブラックジャック』の企画だが・・・」って、編集者のブレーンストーミングで話が次々と作られていったという、あれだな。
 微:小人の靴屋だな。まあ、瞳の白をホワイトで塗るだけのさいとうたか○先生もいるわけだし。
 苦:このまま行くと、世界史漫才マンガ家編になってしまうので、話を戻します。対外的称号としてはマリア・テレジア・フォン・エスターライヒ(Maria Theresia von Österreich 、オーストリア大公マリア=テレジア)です。1717年5月13日にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として生まれました。オーストリア系ハプスブルク家最後の君主であり、彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲンとの複合姓(二重姓)で「ハプスブルク=ロートリンゲン家」となります。
 微:なんか東京三菱UFJ銀行みたいだな。どう考えても後ろが消えていくことが目に見えている。
 苦:夫妻のなれそめですが、1722年からウィーンへ留学に来ていたフランツ・シュテファンに彼女が一目惚れします。父カール6世もフランツを大変気に入っており、1736年の2月12日に2人は婚礼をあげました。既に言ったように、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚でした。
 微:桂きん枝が探し出してきたんだよな。「こんな人知りませんか?」って聞きながら。
 苦:それは横山やすしが生きていた頃の「プロポーズ大作戦」だよ! ハプスブルク家は中世以来のサリカ法典に基づき男系で相続してきましたが、マリアの兄が夭折して以後、カール6世に息子は生まれませんでした。
 微:フェルナンドとイサベラ夫妻もそうだったよな。ファナが嫁いでから継承者の息子が死んで。
 苦:やがて彼女が次期後継者と目されるようになるのですが、サリカ法典が障害になります。そこでカール6世は国事勅書を出して、強引に国内および各国に彼女のオーストリア・ベーメン・モラヴィア・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせたわけです。
 微:あくまで領地の継承であると。アキエの行動は私人であって公人ではない、みたいな説得力のなさ。
 苦:まさにその通りで苦しい言い訳です。女子が軍隊最高指揮官でもある皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロートリンゲン公フランツ・シュテファンが就くことにしました。
 微:ヒラリーが実質の大統領をしていたクリントン夫妻みたいなもんだな。
 苦:彼女は一般に「女帝」と呼ばれ、実態も女帝そのものでしたが、実際には皇帝に即位したことはありません。そのカール6世の見通しの甘さは彼の死後すぐに露呈します。
 微:「記者会見をして、反省している」と言えば済む、と森元首相が助言したそうです。
 苦:火に油だよ! 周辺諸国は彼女による相続を認めず、領土を分割しようと攻め込んできました。これがオーストリア継承戦争(1740~1748)です。プロイセン王フリードリヒ2世が最初にハプスブルク家領のシュレジエンに攻め込みました。
 微:”跡目争い”じゃねえか! さしずめマリア=テレジアは岩下志麻のポジションか?
 苦:『極妻』じゃねえよ! 開戦時、彼女は23歳で、しかも第4子を妊娠中でした。1741年3月にヨーゼフが誕生し、6月にマリア=テレジアはハンガリー女王に即位しますが、これを認めないバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトも敵に回りました。
 微:小池ユリコが助言したそうです。
 苦:流れに乗ってるだけです、それでは。彼女はバイエルンとの決戦を戦うため、ハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で演説を行い、軍資金と兵力の提供を獲得します。
 微:志保美悦子だな、『二代目はクリスチャン』の線で。もしかしたら長渕剛の妻かも。
 苦:その後の戦況は苦しく、帝位もボヘミア王位もカール・アルプレヒト(皇帝カール7世)に奪われます。しかしカールが死んだため、1745年に夫フランツ=シュテファンを帝位に就けることに成功します。
 微:神経毒の入った紅茶でもてなしたそうです。
 苦:それじゃプーチンだよ! ですがプロイセンに負け、同年にプロイセンのシュレジエン領有を承認しました。英仏間で戦争は続行されたので、最終的に1748年のアーヘンの和約で終結しました。
 微:この戦争中にマリア=テレジアは6人の子を産みました。
 苦:私生活に介入してやるなよ。
 微:いや、マルクス先生も「君主の最大唯一の仕事は子どもをつくることだ」と言ってるしな。
 苦:君主としてのマリア=テレジアですが、国力増強のため、他国に先駆け、全土に同一課程の小学校を新設して義務教育を確立しました。さらに内政、軍隊の改革を行い、外交ではカウニッツを登用してフランスに接近します。
 微:これだけ子どもがいると、学校をいくら増やしても足りないもんな。
 苦:そっちじゃないよ! 長らくハプスブルク家と争ってきたフランスでしたが、当時対立していたイギリスがプロイセンと同盟したため、オーストリアとの同盟を決意しました。外交革命です。
 微:娘を差し出してまで。まあ、それだけフリードリヒ2世を恨んでいたんだな。
 苦:そのシュレジエンを奪還する目的で、フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝の3人の女性で反プロイセン包囲網を結成しました。「3枚のペチコート作戦」ともいいます。満を持して1756年、プロイセンにオーストリアは宣戦しました。七年戦争です。
 微:新しいニュースです。前の戦争が終わって七年戦争開始までにマリアは6人産んでいます。
 苦:前回と違いフランスやロシアの同盟を得たオーストリアが優勢に戦争を進めますが、1762年、ロシアのエリザヴェータ女帝が死去し、甥でフリードリヒ2世の信奉者のピョートル3世が即位したため、ペチコート作戦は崩壊します。結局、1763年のフベルトゥスブルク条約で、シュレジエンのプロイセンによる領有が確定しました。
 微:戦争が始まって最後の子マクシミリアン・フランツが誕生します。39才の時の子です。
 苦:出産中継はもういいよ! でも父が後継者問題で悩んだため、彼女はできるかぎり子を産もうと考えて、末娘マリア・アントーニア出産時以外は安産だったそうです。男子5人、女子11人の16人の子供を産む合間に政務をこなしなしていた感じですね。子ども一覧を下にまとめました。
 微:政略結婚のオンパレードだな。しかも「マリア」と呼び掛けたら「はい」って11人が振り向くぞ。

①マリア・エリーザベト(1737~1740)
②マリア・アンナ・ヨーゼファ・アントニア(1738~1789、エリーザベト修道院に入る)
③マリア・カロリーネ(1739~1741)
④ヨーゼフ2世(1741~1790、 神聖ローマ皇帝で啓蒙専制君主の一人)
⑤マリア・クリスティーネ(1742~1798、ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの弟の妃に)
⑥マリア・エリーザベト(1743~1808、インスブルック修道院長)
⑦カール・ヨーゼフ(1745~ 1761年)
⑧マリア・アマーリア(1746~1804年、パルマ公フェルディナンド妃)
⑨レオポルト2世(1747~1792、トスカーナ大公、のち神聖ローマ皇帝としてフランス革命に介入)
⑩マリア・カロリーネ(1748)
⑪マリア・ヨハンナ・ガブリエレ(1750~1762)
⑫マリア・ヨーゼファ(1751~1767、ナポリ王フェルディナント4世との結婚直前に死去)
⑬マリア・カロリーナ(1752~1815、ナポリ・シチリア王フェルディナンド4世妃)
⑭フェルディナント・カール・アントン(1754~1806、オーストリア=エステ大公)
⑮マリア・アントーニア(1755~1793、フランス王ルイ16世妃(=マリー・アントワネット))
⑯マクシミリアン・フランツ(1756~1801、 選帝侯の一人ケルン大司教)

 苦:打倒プロイセンのために、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族、その多くはルイ15世の孫と結婚しました。これがドイツ諸侯のハプスブルク家離れの一因になります。19世紀以降のドイツ統一の流れを考えると、この結婚政策は失敗ですね、はい。
 微:でも、へたにハプスブルク家と結婚すると吸収合併されて消えるしな、太陽神戸銀行みたいに。
 苦:子供に関してはえこひいきもありました。四女のマリア・クリスティーネを最も可愛がり、彼女にだけは相思相愛のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の息子アルベルトとの結婚を許しています。また見た目も良くなく、障害のあった次女のマリア・アンナは冷たく扱ってます。
 微:でも結果的に一番ひどい仕打ちを受けたのはマリー・アントワネットのような気がするがな。
 苦:政治でも、1765年にヨーゼフ2世が帝位につくと、啓蒙主義的な官僚の勢いが強まり、改革も次第に急進化していきます。例えば衣装の自由化やイエズス会の禁止などに彼女は怒ります。
 微:息子への最期の言葉は「もうキミとはやってられんわ」だったんだよな。
 苦:それは我々。マリー=アントワネットを心配しながら1780年11月29日に亡くなります。
 微:でもシェーンブルン宮殿の地下室を開けたら、あと10人くらい子どもが出てきそうだな。
 苦:冗談に聞こえねえよ!(ペシッ!!)

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