見出し画像

マンホールの中を手入れして。


 都会のマンホール、たまらなく臭くて、
気持ち悪くなりそうな時がある。


 通り過ぎるのは一瞬だし、そんなに近づいているわけではないし、大抵のマンホールは以前とは変わらないから、特に臭いを強く感じることもないものも多いけれど、時々少し離れたところからすでに異臭を放つマンホールがある。


 あれの上を通るたび、硫黄というのだろうか、
腐った何かのような臭いか、もしくはヘドロのような臭いに、うっと顔をしかめる。


 都会と田舎の条件なんてよくわかっていないけれど、横浜生まれで海外も首都に住み、日本に帰ってきてからも横浜、そして23区で暮らしている私は

THE田舎、みたいな空気の場所に住んだことがないのだと思う。


だから、小説で描かれる田んぼ道なんかは
漫画や映画やアニメやそういうもので得た田舎がほとんど。


田舎には田舎のにおいというものがあって、
それにはやはり都会にも
マンホールの臭いとお店から香る心地よい匂いがあるのと同様、
いい匂いと嫌な臭いがあるのだろうけれど、


 でも、マンホールが異常にくさいのは、
都会だけなのだろうとなんとなく思う。

 いや、都会だったらどこもかしこもってわけでもない。現に私の家の付近や最寄駅付近はマンホールから異臭がするなんて記憶にはないし。


 でも、だからだろうか、マンホールから異臭がするとき、そこにマンホールがあることに気づく。ああ、マンホールか、と思う。


 マンホールの存在は当たり前のものでも、
マンホールの下に下水が流れていることを知っていても、マンホールの中がどうなっていて、下水とは何か、なんて知識としてあるだけで、生活と結びついたりはなかなかしない。


 私が時々顔を下げた時、臭い!と思って見つめる時、見ているのはマンホールではなくマンホールの蓋なのだと知識ではわかっていても、
私にとってのマンホールは、その、目に見えている蓋まで。マンホールの蓋を開けるには特殊な工具が必要らしい。そりゃそうだ。簡単に開いてしまっては困る。マンホールの蓋を開けると梯子みたいなのがかかっていて(すべてのマンホールではないなかな?)その底を管渠(かんきょ:給水や排水を目的として作られる水路のこと)という排水路が通っていてそこを下水や雨水が流れ電気・通信ケーブルなども通っているらしい。マンホール(下に降っていくためのもの)は、この管渠の点検や清掃のために人が降りていくためのもので、地下に続くその"階段"を蓋しておいているものを、一般的に
"マンホール"と言ってしまっているということだ。


 都会のマンホールは蓋だけであんなに臭うとしたら、その下マンホールを下って行った先はどれほどの異臭なのだろう。でも、排水路なのだとしたら、人口密度は違うにしろ生活排水だからやはり田舎のマンホールの蓋だって異臭を放っているのだろうか。


 "臭いものに蓋をする"とはいうけれど、
都心のマンホールは蓋しても漏れているのだからどこまで意味を成しているのだろうか。



 マンホールだって、蓋したって悪臭が漏れているのだから、ましてや悪事や失敗、目を背けたいものや自分の生活や周りとの差は、都会の方がやはり"蓋できない"のだろうか。


  私が「田舎」を思い描いてと言われて頭に描く時、それはきっとまだ都会なのだろうということは自覚している。


 田園風景、自然豊かな田舎を知らないわけではないけれど、東京のなかでも多摩地区や武蔵野市、あきる野市と向こうへ行けば行くほど田舎の方という認識は無意識にある。


 実際、あきる野市にある東京サマーランドへ向かう時、はじめて降り立ったあきる野市に、「ここはなんて田舎なところなんだ」と半ば感激し、
 新小岩の方へ東京都教採の試験で向かったときですら、「この辺ってだだっ広いなー」と思った。
(とはいえ私は東京の中心地:千代田区とかに住んでいるわけではない)


 けれど、私の中でなんとなく頭に描ける田舎は田園風景でも、そこに馳せる生活イメージは新小岩やあきる野市の生活イメージすらできない。バスは5分以内に来ないと焦るし、電車は2〜3分に1本の間隔より開くと待てない。コンビニは歩いて15分圏内に7〜8つ以上あるのが当たり前になっているし、これは私の特性とわがままも入っているけれど勤務地だって電車で1本、最寄駅から15分以内、家から勤務地まで1時間程度までが理想の勤務地だ。


 以前にも書いたけれど、友人に

君は、ずっと都心や中心地で生きてきて、生まれてきた経済的環境も周りの環境にも恵まれている。ずっと都会で育ってきて、小学校ではクラス30人中28人が中学受験するような地域に住んでいて、中高を私学で過ごしてきたということはその、一部特権的に経済的に恵まれた地域の中にいたのにそこからさらに、私学に進める人たち、しかも中心地に生きるような人たちしか集まらないなかで中高を過ごし、大学に入ってやっと、地方から出てきた人たちを目にした。けれど、大学内の友人たちの多くは皆都会育ち、私学の中高や
高校出身、しかも結局私大だからいくら地方から出てきた人がいても、やはりそれは都内の私立大学に進学できる人たちだけ。そういう一部しか見ていない。
 多くの人は都会で働きたくて頑張ってる。都会はそれだけ色んな人が切望して集まってくる。しかし、それだけ集まってくるとなれば求められる人の規定値は高くなる。そうなれば自然働くためには、生き残るためには努力しなければならない。それには競争がある。その競争の中を生きるのが苦しいなら都心で生きていくことはできない。君みたいにずっと都会育ちで生きてきて、「東京で勝ち残りたい」とか「東京で生きたい」「丸の内OLになりたかった」みたいな感覚を微塵も持ち合わせていないなら地方に行けばいい。競争に生きるのが苦しいなら、もっとゆったりと、競争も何もないところへ行かねばならない。もちろんそれには田舎の不自由がつきまとう。でもどっちもいいとこ取りなんて選べない。

という趣旨のことを諭された。あの時はじめて、
私は自分が、「都会育ち」だということを、客観的に知った。それまで、ふわふわ〜と"夢の田舎暮らし"的なイメージで田舎でゆっくり生きる、かぁ、島暮らし、ねえ


程度にしか想像がつかなかった私は、
その"田舎暮らし"や"島暮らし"にない、
今持っているアクセスの良さやなんでも揃う、手に入る利便性をわかっていても現実に描けなかった。

電車やバスが1〜2分遅れただけでも、なんで時間通り来ないんだ、と思ってしまうほどに時間通り(それも数分に1本)は無意識のうちに刷り込まれていて、仕事終わりにちょっとnoteを書くのに、ぼーっとするのにといってカフェにいつでもどこでもアクセスできるのも無意識に当たり前で、おまけにたとえば私の使う最寄駅にはカフェが最寄駅から歩いて1〜2分の距離だけで15以上ある。それが無意識に"当たり前"になっている。


 その無意識の"当たり前"は、こうして書き起こしたっていまいち"当たり前"ではないことを実感として得られない。実家暮らしの利便性だってそう。一人暮らしをして色々苦労したり楽しいことがあったり、経験をして外からのぞいてやっと、実家暮らしの良かった点を実感するのだろう。
見ているだけでは聞いているだけでは、頭の中だけではわからなくて、
実際に開けてみて、経験してみて、ぶつかって、初めてちゃんと「解った」になるのだろう。


 だから私は、働いてもいない、まともに
自立して働けていないうちから「働いてる方が楽」とか「働くのは大変」とかどちらも言えなかった。


 両親はたまに何かの拍子に「働きもしないでふらふらして」、「お前このままどうするんだ」と言われるけれど日々言われるわけではない。
(とはいえ年々言われる回数や頻度は増えている)


 もちろんその度に、ああ、ああ、どんどん、時間が経ってしまっている、何もできないままだ、と思うけれど、私がその自分の進路や周りの同世代の差を感じさせられるのはむしろ祖父母の家に帰った時だ。祖父母には、働いていないことも何も話してはいないから、どういう認識をされているのかは知らない。ただ、妙齢の女性、祖父母(というか祖母)の認識としては"そろそろ結婚は"となるだろう。コロナ禍ということもあって頻繁に帰省したりなどしないから聞かれる頻度が低いだけであって、思い返せばここ数年は帰省するたびに、「あなたたちの結婚までは生きなければ」、「ひ孫の顔が見られるかしら」といった類のことをボソっと言われたりする。


 まあ、私の年齢になれば、周りの友人には既婚者やパートナー持ち、子持ちが増えているし、結婚願望がある身としては、私だって「そろそろ」とは思っているけれど、こればかりは相手が必要なことであるわけだしその相手が今いないのだからどうにもならない。(かといって努力もしていないじゃないか、と我に返ってくるカウンターパンチ、からの往復ビンタ)。
地方の方々が帰省した時どういう状況に至るのかはよく知らないけれど、少なくとも結婚や子持ちになる年齢は都会の平均より少し低いのだろうし、かといって東京住みの私だって東京の中では結婚したいなら既に妙齢だ。その私は、結婚どころか自立すらできていない。


 私の周りは、もう3割から4割弱が結婚していたりパートナーがいたり、結婚しようと思っている相手がいて、そのうち1割程度は既に結婚して子どももいる。それを、「あなたのまわり結婚はやいよね」という友人もいて、私も27歳くらいまでそう思っていたけれど、実はそんなに早いことでもなく、自分の中で、特殊だと思っていることは世の中的に特別でもなく、世の中で多数の人が既に歩んでいる道を歩いていない私自身の方が、特異な部類に分類されるのだと気づいたのは、27歳をすぎた頃だった。


 経済的・生活的に自立できないまま、
将来を含めた現在のキャリアを設計できないまま、30歳が近づいてきて、だんだんとその、30歳という年齢の、まだモヤモヤとしているけれど確実にそこに分岐が近づいている目印が臭いはじめている。近づいてきて目を背け鼻をつまみたくなってきた。いや、実際はまだその30歳という目標の"マンホール".を見つけられていなくて29歳という"マンホール"すら「まだ遠い先」だと思い込んでいるけれど、知らずにどんどん近づいてそれは突然マンホールの上に立った時、「臭っ!え、もう29歳?」「え?30歳!?」と、このままではなってしまいそうだ。


 その"マンホール"が臭いものでしかないと感じるのは、その"マンホール"を降りていった底にたまったものが、そこに至った時の私自身が、嫌なものに蓋をして、現実を受け止めて責任を持って自立して生きられないできた結果に、周りの皆が責任を持って処理しているものを、そのまま垂れ流しして溜め込んだ「私の持つべき責任」の蓄積であって、うっと顔をしかめてもそれが私が流してきたものが溜め込まれているものだ。その管渠に降りて行って掃除したり整備したりするのは私しかいない。


 たまたま通ったマンホール(正確にはマンホールの蓋)がマスクの中まで入るほど臭かったところから、まさかこんな話になるとは想像していなかったが、それだけ私は、街の中のマンホール(の蓋)も自分の人生の"マンホール"も無意識の中で済ませてきたということなのだろう。そして私がそれを無意識のうちに済ませられていたのには、当たり前にそれを整備してくれる人が、生活を与えてくれる親がいるからなのだということを改めて実感した。



 マンホールは、英語では「人間が出入りする穴」という意味でmanholeともいうが、非俗な意味合いや差別的意味合いになることから、より直接的な言葉から用いられて"maintanance hole"や"utility hole"という方が無性的で良いとされる。しかし、実際にはこのmanholeのmanとは「男性の」という意味ではなく、man-は、
manual(説明書)やmanuever(操作する)などと同じく、「手」を意味しており、maintainance holeのmaintainanceのmain-も、実際にはman-と同様「手」を表す。
 (つまりmaintananceは、main(手)-tain(保つ)、手で保つ→維持するとなる)

 マンホールかて、元の意味を辿れば、人が入っていく穴、通路であり、その派生にはmaintainanceがあり、マンホールもまさに、人が入っていく先には、水路の手入れという目的がある。


 手入れし、手で保っていかねば正常に作用し続けられない。


 ある年齢やどこかの一時点の目的地は、どんなに手入れしたところで理想的にはならないかもしれないけれど、自分自身で手入れしてあげなければ、マンホールの底は汚水で溢れるし、現実を見据えて着地していかなければ、蓋をするのを忘れて底へ落ちてしまう。


 自分が通っていく先は、自分で手入れして、管理して、蓋が溢れないように、蓋の下が腐っていかないように、きちんとマンホールの蓋の上を歩けるように整備していく必要があるんだろうな、

と28歳になってやっとなんとなくわかってきた。


#マンホール


#人生



ありがとうございます😊サポートしていただいたお金は、勉強のための書籍費、「教育から社会を変える」を実現するための資金に使わせていただきます。