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GURFA

 

先に書こう、
これはこの春には
書き終えていた記事だ。


この春、


GURFA




その言葉が、

脳裏に焼き付いていた。



 私の頭には、あまり許容がない。

視覚優位なのか、
新しい情報が目に入ると特に、
すぐに頭の中が溢れて、
必要な情報を何処かへ、
ぽーんと、知らず識らずのうち、
落としていってしまう。


 記憶の忘れ物センター
みたいなのが
あればいいのに…


 ちゃんと頭だって、
必要なものが抜け落ちないよう、
意識的に選べればいいのに…


 何度思ったことだろう。


 本当に、いろんなことが抜け落ちて

新しい情報はどんどんと入ってきて、

目に見たもの、耳で聞いたもの、
読んだもの、

 どんどん吸収して、
どこかに吐き出さないと、
排出しないと、
頭の中に溢れて溢れて溢れかえって

そしてどこかへ消え去ってしまう。
流れていってしまう。



 もっと細かくいうと、

自分の思考
(頭の中で湯水の如く降り注ぐ、
泉のように湧き出てくることばや考え、気持ち)に、

自分自身のメタ認知が
追いついていない。


 さらに、そのメタ認知に、

気持ちが追いついていない。

 その気持ちや思考に、

 身体が追いついていない。

 そうして、

 アタマとカラダとココロは、

 すべてがバラバラで、

 アタマのスピードには
ココロもカラダもついていけないし、

カラダの持久力ほど、

アタマやココロには持久性がないし、

ココロの許容の広さほどの容量は

アタマやカラダにはない。


 

 普段から、目にした情報、

認識した情報は
片っ端から頭の中に取り込まれるし、

聴いている言葉は、
頭の中でどんどんと文字化されて、
その文字が頭の中を、
クロで覆い尽くしてしまって、

 “文字酔い”


 を起こす。

画像1


 文字酔い、

 それは、字義通り、

 文字に酔ってしまうのだ。

 頭の中に情報が吸収されすぎて、

その一つ一つが文字となり、

画像などもそれに関する情報が

上からベタベタと貼られて、

文字情報に変換され、

アタマの中を、頭に入った

溢れんばかりの情報の、

黒い文字が覆い尽くして、

思考する、考える、

ということができなくなってしまう。

 

もうそうなってくると、

 情報過多になりすぎて、
何もできないので、思考ができない、

少し前の記憶やちょっとしたことも
覚えておけない。


 でも、母や周囲の人は、
わたしよりもっともっと

記憶容量も情報整理も得意みたいだ。


 だから、小さい頃から、
「なんで前に言ったのにこんなことも
覚えてないの」

と叱られたり

忘れっぽいことを認識しているから
幼少期からメモを取るようにしていると

「メモを取って安心するんじゃなくて、頭に覚えておくよう努力しなさい」

ともう20年ほど謎に怒られ
続けてきた。
(個人的には、
頭に知識としておいておく必要のない
ことはメモをして頭から
出してしまうのが良いと思うのだが…)


それに、頭が、
他の周囲の友人と比べて
すぐいっぱいになってしまうから

皆が、頭から溢れずに
整理できる情報も、

一度頭から出して文字で整理しないと

頭に留めた状態で、
整理整頓できなかったりする。

頭がいっぱいになると、
心が焦ったり不安になったりして
いっぱいいっぱいになって、
そうするとなんとかしなきゃと
もういっぱいいっぱいの頭を
さらになんとかして使わないと、
となってしまったり、心がいっぱいで
寝なかったり眠れなかったり
身体を休めることができない。



ココロも、
アタマも、
カラダも、

悲鳴をあげる。

 


もともと私は、

記憶の容量が少ない。

一つ新しい情報がはいれば、

頭の中のお皿がいっぱいになって

大事な情報が溢れて流れてしまう。

 

 イメージでいえば、

頭の中のコップに、

見たもの、聞いたもの、
考えついたこと、感じるもの、
香るもの、

まさに、五感と思考の、

あらゆる情報が上から上から

積み重なっていく。


 正直なところ、わたしにとっては

情報が溢れ、どんどんと更新される

今の世の中、

加速度的にスピードが増す時代、

生きているだけで、

呼吸しているだけで、

精一杯だ。


目を開けて、1日をなんの仕事もなく

過ごしているだけなのに、

起きたその瞬間から、

目に入るもの、耳に入るもの、触るもの

どんどん情報が頭の中に入ってきて

すぐにいっぱいになってしまう。


 
 情報過多をとめる方法は、
今のところない。

 だって、仕事もなく、
勉強するのもやめ、
SNSの使用頻度を減らし、
読書もせず、人とも会わないで、

今までに整理していない
写真や文字をアウトプットしても、

毎日毎日、欲しい情報も、
欲しくない情報も、
どんどんと新しく更新されて
入ってきてしまうんだもの。



もう無意識に、わたしの体に
染み込むように、

ジョウホウは

侵入してくる。




 昨日より空気が冷たい気がするな

 今日はなんだか気圧が…

 あ、あの本読もうとしてたのに
まだ読めていないや

 この間、あれを考えていたあのこと、
そういえば…

 そろそろ仕事どうなるのか、
どうするのか考えなきゃいけないなぁ

 あ、昨日はこんなところに花が
咲いているとは気づかなかったのに
こんなところに赤い花が咲いている

今、通り過ぎた女性の香水、
あれ、フローラル系だったな、
どこの香水かな

 あ、今日の風は、ひんやりしていて
ちょっと攻撃的だな

 あ、木々が風に揺れて
ソワソワ音を立てている

 この風は、なんだか、
湿っぽくて、雨が降りそうな匂いするな

 あ、iPhoneが今日は、
アニソンを推してくるぞ、

 あ、そうだ帰ったらあの
アニメの続き観たいな…

 そういえば私論文書き直すって
言ったのになもう2年経ってるや

 論文書き直すためには、
でもやっぱり整理しないとだよね、

 整理する、そうだ、写真が
カメラロールに溜まりすぎてるから
ほんとに早く出さなきゃ

外に出て数歩も歩けば
もうこんな状態だ。


情報過多、

とかいう四文字では、

表せない。


 わたしの頭が、コップだとしたら、

常に水が溢れている。

 もう大洪水だ。

 それはもう、

大雨、とか水溜り、

なんて言っていられるような、

やさしいものじゃない。


言葉の通り、

 input flood

大洪水だ。



 わたしの頭がいっぱいになってくると

思考停止の前に、記憶が消えていく。

 ちょっとしたことを
覚えていられない。


 大切な情報が、
他の大量の黒い文字に
流されて埋もれて
どこかへいってしまう。



 もともと
記憶の容量が少ない方で、

三歩も歩けば、
自分が何していたのかも
忘れるような人間なのだが、

記憶が消えていくと、
普段は忘れないような、
大切なことを覚えていられなくなる。
普段さすがに無くさないようなものを
無くしてどこにも見つけられなくなる。

携帯とか、
キャッシュカードとか
毎日使っているノート、とか

そして、それが
 いつ最後に使ったのか、
 どこまで持っていたのか
 いつ頃なくなったのか

 ノートなら、
どんなノートだったのかすら

 全く記憶にない。


 わたしの頭の中のコップは、
本当にとてもとても小さいのだろう。

 コップ自体を大きいものに、
変えられれば、

 バケツとか、せめてボトルとか…

でもそう簡単にはいかなくて、

 コップの縁を一生懸命広げようとして

いつも、少し動かせば、

 ジョウホウという水が、

溢れてしまう。

 そんな状態だ。だから、

きっと、それを、

 両手で受け止めても、
少ししか入らない。



それを毎日、
必死で両手で受けとめ続け、
必死にこぼさないようにするのに、
両手とも使っていて、
もういっぱいいっぱいで余裕がない。


GURFA

グルファ、

ぐるふぁ、

GURFA、、、

日本語にはなかなか、
単語として存在しない言葉が、
世界の様々な国にはある。


エラ・フランシス・サンダース氏の
本には、
この状態をあらわすことばが
載っていた。

画像2




アラビア語で、

「片方の手のひらに

のせられるだけの水の量」

といったニュアンスの言葉だそうだ。


水の測り方としては、
はっきりとはしていない。


 とにかく、

“片方の手にのせられるだけの
水の量”のことをそういうらしい。



 意識的に情報を得ていないときも
頭の中に文字が溢れるのに、
 片方の手におさまる程度に
おさめようなんて、
そんな難しいことできるか、
とも思うのだが。

 
 GURFAという言葉を
知った時から、

私の頭には、

この、「手で水を受け止める」

というイメージが

概念として出来上がった。

 

 知らず識らずに、

 洪水を起こす様々な情報を、

コントロールするというのは、

 容易ではないけれど、

GURFA

を意識して、

 
両手で受け止められそうなときも、

片手程度に収めておく。

 そういう時間が、


 そういう意識が、

 必要なのかもしれない。

 GURFA。 


 わたしの頭に、

 日本語にはないニュアンスのことばが

 刻まれた。

 



いや、それにしても、


コロナウイルスということばが、

ニュースに取り上げられて以来、

毎日情報、情報、情報の海だ。

 家にいればテレビがついているので、

自動的に情報が入ってきて、

 受け身になってしまう。


テレビも、スマホも、情報過多。


特にテレビは、

受け身的に情報が吸収されてしまう。

家では親がテレビを
ずっとつけているので、

リビングルームに行けば、

受け身的に情報がシャワーのように

流れてくる。

 そしてカラダは、アタマは、

 無意識に吸収してしまっている。

 スマートフォンではある程度、

情報の吸収を制限できているが、

 先にも書いたように、

 ただでさえ、平常から、

情報の波にもまれているから、

意識的に不要なものは

どんどん外に出しているのだ。

その時スマホを、SNS等を用いる。

 するとどうしたって一定の情報が

入ってきてしまう。


 今のわたしはまだ、

 GURFA、にできていない。

 頭の中に文字が溢れた。

 

 なくしものがほんとに異常に
なりはじめて、
 しかも、自分がいつ最後に使ったのか
どこらへんにありそう、とかも、
一切記憶になく、さらに、
 探そうとすると、
どう探したら良いのか、
落ち着いて探そうとか、
 もうそういうのもなくなっている…
探そうとして、いや落ち着かなきゃ、
と思えば思うほど、どんどん、
何も思考ができなくなって、
サガサナキャ、サガサナキャ、
という文字だけが、
 頭の中に大きく張り出され、
何も考えられなくなってゆくのを
感じる。
 アタマから様々なものが、
水が溢れて流れてゆくが如く。
そして、そんなイメージが頭の中を
占拠して、
 ああもうこれは末期だ、
そう思いつつある。


 心が叫んでいた。


参考資料:

エラ・フランシス・サンダース. (2019).『翻訳できない世界のことば 』. 前田まゆみ訳. 東京:創元社. 第1版.

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情報過多イメージ画

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