第8回〈ウェーバーに関して1〉

専門分野等の発信と言っていたのになかなか来ない?となるかと思って、少し関連として英単語帳おすすめに関して間に挟みましたが、修士課程に進んだこと、研究とは何か、学問とは何か、という考えに関して十分理解していただきたくここまで書いてきました。今回は、題名の通り、マックス・ウェーバーに関してです。(結構、長いです。)

昨年、京都大学の本庶佑先生がノーベル生理学・医学賞を受賞したというニュースのとき、某番組で以前に本庶先生を取材した時の本庶先生のお言葉と、今回の受賞を受け同大学の山中教授への電話対談が放送されました。そこで、本庶教授は研究について「職業として研究者を選ぶ時の第一はcuriosityで、これを大切にすれば必ず道は開く」と、そして山中教授は「先生の言うことや教科書に書いてあることは信じず疑え」「型破りは型をしっかり学ばなければ、型破りにはならない。だからまずは教科書に書いてあることをきちんと学んだ上で疑え」というお話をなさっていました。

この話のなかで、理系分野について(私個人的には他の分野特に文系もだとおもうけど)日本の研究費が少なすぎるということをご指摘していました。それはさておき、この、本庶先生の研究者にとって最も大切なことが、いろんな人に理解されて、大学院生やその他、“安定して”いない人たちへの理解が深まれば嬉しいなと思いつつ、頭の中にウェーバーの言葉を思い浮かべていました。

2018年1月19日、修論も提出間近のこの時、前学長・学園長の特別講義「マックス・ウェーバーと〈20世紀〉の政治」が開かれました。修論時期的にはかなり余裕はなかったのですが、聴講しにいきました。ウェーバーは、大学3年次から関心を持っていて大学院を修了した2月にやっと『職業としての学問』を読むことができました。現代社会学や哲学、ウェーバーは専門分野ではないので詳しく書くつもりはないのだけど、研究者は学者として、教師として、この2つの素質に優れていなければならないと説いている。そして学問の専門性を高めるためには、ひとり自己の専門性の殻に閉じこもり何事も忘れてある解釈を得ることに熱中できること、そういう情熱を持てる人が向いている、と。この情熱が、いわばウェーバーのいう(そして私の解釈ではシュタイナーの霊感も一種こういうものだと思うけど)、「霊感」を生み出す地盤でありserendipityの元であると思う。

そして、ウェーバーの「合理化」「官僚制」を考えた時にパッと思い出したのはやはりエルサレムのアイヒマン。(彼については割愛します)これらの話に共通しているのは、近代化の中で進んだ「合理化」と事務的官僚制化による、司法の非人格化、要するに感情の棚上げ(thoughtless)が行われるということなのだけれど、
1月19日の講義の問題提起としては、官僚制的硬直化や没意味化といったウェーバーの「合理化」を、20世紀や現代の政治のコンテクストにどう当てはめるかということでした。レーヴィットはウェーバーのこの「合理化」について、手段が目的とされ合理化の形ながら非合理的なものを生み出すパラドックスについて述べている。そして1960年代〜70年代に入ると、高度経済成長の時代の組織の中で、閉塞感を反映する言葉となったと。本講義でここで重要だとされていたことをまとめると、どのような時代なのか、そこにある、コンテクストの違いを考えなければならないということだったと思う。

宗教はかつて経済、政治、科学とつながりを持っていたと。呪術から、生活態度の合理的な体型化を目指す現世拒否的救済宗教へ発展し、各領域で「固有法則性」が強まったと考えられると。これによって中世ではキリスト教がすべての学問と芸術のもとにあったのに対し、近代ではそれが分離され、学問と「(神を信ずる能力である)知性の犠牲」の達人となる能力は(つまり神と学問は)没交渉的となった。

また政治における合理化でも、司法や行政は、事務的官僚制化によって非人格化した。他方、国家と国民の間に共同的、感情的絆が強化され、この相反する2つが同時並行的、相互補完的に成立したと。講演はここから『職業としての政治』の方へと流れた。国家と国民の間の共同体的絆の感情が強まれば、戦争やテロが推し進められてしまうため、倫理観のある政治的リーダーが必要であり、ウェーバーにとって、「合理化」が政治の魔術化に抗う唯一の道だと考えていることがわかる。今日も合理化の帰結としての政治権力の魔術化による責任逃れによって、政治世界は非常に不透明である。先生は、責任を持つためにも脱魔術化し、“宗教性”から離れて考えるべきである、としながら最後に学生たちに向けて自分のベルーフ(Beruf:天職)を見つけること、それを一生懸命に探すことが大切だとしてこの講義を締めくくった。

このことを念頭に『職業としての学問』を読み返し①経済的意味の職業、つまり生計の資を得る道としての学問について、②職業としての学問に対し人々(特に教師や研究者)が取るべき心構え(専門の自己閉塞性と仕事への専心)、③学問と政治の区別(つまり教師は一切の政治的立場や価値判断から自由であるべき)と。

単なるserendipity、幸運を見つける能力は、ビジネスでも学問でも大切であるが、ここで重要なのは「個性」や「体験」という“偶像”を学問の領域でもつのは、その仕事に仕え、自己の専門性に専心している人で、つまり学問とは、有意義なものであるかどうかは重要ではない。

同じ院生の人の中にも、“私の(その人の)分野”の社会的意義や重要性をもとに人に話をする人がいたけれど、私はそうは思わない。日常の当たり前の、無意識なことは、知識が自動化されているため、いちいち考えることはない。電車がどのように進むのか、その物理的仕組みを知らずともただ、どのように動くか予測さえしうればいい。しかし、この“電車の物理的な動き”を主知化し、合理化していること(無意識のうちにいること)は、欲すればそれを知ることができると。そして、学問は宗教とは異なり世界が存在することへの意味づけをしないと。つまり、ある学問を行う場合、その学問が知るに値するかどうかというものは問うべきことではなく前提であって、その学問が成り立つのは、「それが有意義で価値がある」という前提のもとだと。教師は学生たちに、「いかにして学問するか」をつたえること、つまり「考えること、を教えること」が大切だと。教室で専門分野を教える教授たちは、“小預言者”ではないという事実に気づくこと、これらが、本庶教授や山中教授も仰っていたことにつながり、学問の道を歩む上で大切なことであり、そのスタート地点に立った修士卒の私が卒業したときやっと理解し始めたことだった。

大学院とは、自己の専門性を深める場であり、そこに必要なのは「なぜだろう」と疑問を持てることであり、自己の専門に真摯に向き合うことであり、だから「そればっかりできてもねえ」、「勉強ばかりしてもねえ」という1つの批判も、「文学ってなんの役に立ってるの?」「大学院までいったのにせっかくついた仕事辞めたの“もったいない”」という言葉も、私にとっては批判としてあまり的確に突いてないと思っていました。

私が修士課程に進学したのは、自己の中にある疑問や興味関心を考えるため、深めるためです。そこに能力があったかと問われれば疑問ではあるけれど、第一の理由はそれです。まとまらなくなってきたけど、世の中に、研究や文学研究科、そして(就職できないときの逃げ道としてではなく、やりたいと思っての)大学院進学の意義を少しでも考える人が増えてきたら嬉しいなぁと思いつつ、私は信念を見つめ直し、自己と向き合いながらBerufを見つけるべく頑張ろうと思います。

#ウェーバー #学問

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