24時間テレビ改変してみたらいいのに…
24h TVが終わった。らしい。
というのも両日とも出かける用事を立てていたしもともとから観る予定もなかったからほとんど観ていない。なんか母が録画したからって観る前提になっていて観た部分と、かねちのマラソンゴールは観たかったから録画して観たけれど。
24時間テレビというのは、日テレ系列でやっている謎の24時間(というけど実際は、18:00だか18:30からはじまって翌日21:00ころに終わるから27時間テレビじゃないのよ。)8月末に、大掛かりな企画が様々に用意されて芸能人の皆さんが24時間同じ番組を放送し続けるあれで、放送をしながら視聴者や観覧者たちに募金を"お願い"しているチャリティー番組である。
24時間テレビを初めて観たのは、
嵐がメインパーソナリティをやりはじめた2回目の2008年だと思う。2004年に嵐がパーソナリティをしていた時観ていたかは記憶にないけれど、中学受験生である小5だったから夏期講習あったはずだし、勉強してたはずだし、嵐をまだジャニーズとたいして認識していなかった時期だから観てない気もする。まあそれで2008年に嵐がメインパーソナリティを務めた年から、2008、2012、2013あたりは観たんじゃないだろうか。(2013の夏は塾講師で夏期講習忙しかったからほとんど観た記憶はないが録画で嵐の歌とかなんか観たいところだけ少しばかり観た気もする。実は観てないかもしれない。)
24時間テレビなる番組は今年で45回目の開催でわたしは28歳、日本に帰国してから今までだと2003年だからそこから数えたら今年が20回目。でも、嵐がメインパーソナリティだったこの3回以外はほとんど観ていない。なんとなく嵐を観るために観ていたから。
嵐は櫻井くんと相葉くんのファンだったから、
ニノ個人に特別追いかけるほどの熱量は全然ないから今年も観る予定など立てることなく2日ともお出かけしていた。
母は、いつからか嵐がメインパーソナリティの年は全録を目指して必死に録画して見逃すと、ああ!入らなかった!!って悔やんでいるし、もともと嵐へのファン熱も母の方が私よりずっと高い。わたしは嵐のFC(ファンクラブ)に嵐の休止まで7年4ヶ月ほど入っていたがそれだって母が20歳のお祝いにと入会してくれて、FCの会費を最初の1〜2年だけ払ってくれていた。
今年のメインパーソナリティは、ジャにのちゃんねるの4人であった。ジャにのちゃんねるというのは、嵐の活動休止後、二宮さんが後輩であるKAT-TUNの中丸くん、Hey!Say!JUMPの山田くん、Sexy Zoneの菊池くんとはじめた半分プライベートなのでは?というくらいのYouTubeチャンネルで、そのメンバーが今年のパーソナリティに選ばれたというわけだ。日テレとしてはいいところに目をつけたと思う。ジャにののメンバーにとっては、YouTubeの宣伝になるから引き受けてくれるし、ジャにののメンバーは全員ジャニーズだからもともとパーソナリティを歴代お願いしている?やっている会社の人たちだし、メンバー4人とも、過去に別々に24時間テレビのメインパーソナリティを経験済みの人たちで、別々のグループの人たちを集めるということは、各グループのファン層の視聴を見込める。
さらに24時間テレビなる番組には初回からなのかいつからか、24時間を通して何キロか決まった距離や何かしらの目標でマラソンをする、チャリティーランナーなる人もいる。2022年のチャリティーランナーは、人気お笑い芸人EXITの兼近大樹さんだった。つまり、今年の24時間テレビに、出演者のファンが一定数観るのであれば、少なくともメインパーソナリティとチャリティーランナーだけで、嵐のファン、ニノのファン、Sexy Zoneのファン、風磨くんのファン、KAT-TUNのファン、中丸くんのファン、Hey!Say!JUMPのファン、山田くんのファン、EXITのファンがつく(ジャニーズには単推しはあると思うがたぶんEXITファンは、どちらが好きというのはあっても単推しということはないと思う。まあわたしは、特にかねちが好きなんだけど。漫才師だから2人いないとね。)
日テレとしては、それだけ視聴率が集まるだろうと期待できて、募金してます!という会社のイメージアップ宣伝もでき、24時間以上同じ番組を放送し続け、その多くの時間にこのメインパーソナリティを出すなどして長時間視聴者を確保できる。協賛企業もついてCMすれば企業からの収入もあるし、何を言っても莫大な宣伝効果を得られるのであれば続けるんだと思う。仮に、出演者の芸能人に高いギャランティを払ったとしても、そんなものには替えられない利益を得られるわけで。ただ、だからこそ、そうしたことを含めるといっそう、24時間テレビを嫌いな人は一定数出てくる。いたいけな中高生くらいは、まだよくわからなかったり、推しが出ているからみるというだけの目的であったり、純粋に素敵だと感じているのだろう。ただ、どこかしらの年齢で、24時間テレビに疑問を抱く人もいる。
チャリティー番組と銘打って、芸能人に多額のギャランティを渡して、障がい者や病気をお持ちの方を見せ物にし、やたら感動を煽る。そしてひとつにまとまろうだの、力を合わせてだの、頑張ることを素晴らしいとし、それをショーとしてみせ、視聴者に共感を煽る。
わたしもここ数年そういう傾向が嫌で観なくなっていたし、特別"素晴らしい"などと思う企画もない。
ひとつ付け加えたいのは、パーソナリティや司会やランナーや取材など仕事をしている芸能人やアナウンサーを含めた方々の、一生懸命に仕事をしている姿は素敵なことだと思うし、企画の中でその、障がいや病気やその他困難をお持ちの方などが、自らなのか番組に決められたのか知らないがある目標に向かって努力したり、一生懸命に取り組んだりしている姿は素晴らしいと思う。
それから、障がいや病気をお持ちの方が出演することで、そうした方々が一生懸命生きているまたは、生きたこと、視聴している私たちの知らぬところで生きていて何かに向き合っている方々がいるという部分にスポットをあて、そういう人が生きているのだ、と伝えられる点はメディアの役目を大きく担えていると思う。
だけれども、出演者の皆様は素晴らしいとは思うけれど、あの番組の趣旨や番組でのその、障がいや困難を抱えている方々の見せ方(つまり制作サイド)がなんか嫌なのだ。
(身体的な)障がいや病気を抱えている方を、悲劇のヒロインとして舞台上にあげさせ、その人たちに、なぜか困難が伴う企画をやらせて(もちろん応募してやっている方々は一定数一定程度は自ら志願したのだろうから完全強制とは言わない)、子どもであれば夏休み前頃からの貴重な時間の多くをその番組企画に沿った何かのために時間を使い、そしてあの1日2日の間に視聴者たちにその企画の発表会をし、なんとか成功させて、成功しました!素晴らしいですね!と視聴者たちに感動と共感を煽る。(もちろん頑張ったことそれ自体は素晴らしいけれど。)
何かに挑戦したり頑張ったりしている、障がいや困難を抱える方々の姿はとても熱く素晴らしいと思うし、自身の生活や環境ではとても挑戦できない、会えない人に会ってその何かに挑戦したいと考えるのは特別不思議なことではないし、実際、こうした番組に出演することで著名な選手やトレーナーがついたり、企画として安全をできうる限り担保して挑戦する場を整えてくれる。そういう機会を利用できるなら利用すればいい。
だけれども、番組の、その見せ方が鼻につくという感じというか、
いかにも
健常者=正常、手伝う側
障がい者=何か欠けている、何か特別努力をする企画を準備をして披露する
みたいな感じがどことなくしているのがおそらく嫌なのだと思うし、
障がい者やそうしたことに挑戦する困難を抱える人の区分がほぼ全て
身体に困難を抱える人、身体障がい者
なのが気に食わない点だと思う。
仮に、24時間テレビが、みんなで力を合わせて、だのいうのであれば、なぜ、精神障害や発達障害、LDやディスレクシア(学習障害)など目に見えて明らかに何か困難を持っていると他者にわかるものがない人たちは取り上げないのだろうか。企画として目に見えやすい企画を用意しづらいという面が大きいのかもしれないが、別に何か特別なことに挑戦しなくても、そうしたさまざまな大きな困難を抱えている人たちが生きていること、どんな困難を抱えながら必死に生きているかを見せればいい。(精神障害の区分にはさまざまあるので、いわゆる鬱などの目に見える形だけではないし、発達障害とて、ASDやディスレクシアの特性が強い方なんかは目に見えてわかりやすいかもしれないがおそらくADHDであればどんなにその特性が強い方でも「落ち着きがない」「だらしない」「(成人していれば)大人として態度がなっていない」となると思うのだが、近年やっと少しずつ多くの国民が知るようになってきた"発達障害"というものを、正しく、周知してくれればとても良い番組になるかもしれない。それから障がいだけでなくHSPなども。)
(ちなみに発達障がいのなかでもADHDに関しては、落ち着きがない、注意力がないなどにより日常生活を"普通に"過ごすのに、大きく支障をきたす特徴があるが、神経内科、精神科や発達障害専門医が中長期に渡り診察して経過を確認して、障がいとして認定するものであって、医師の診断なしには「私は発達障がいなの」などとはいえないものである。
忘れ物が激しい、もの忘れが激しい、3歩も歩けば何していたのか忘れる、予定を詰め込む、予定が立てられない、計画が立てられない、予測することができない、何かひとつに集中すると過集中に陥る、他のことを全て忘れてしまう、1つのことをやり始めたら他のことはすべて頭から抜けてしまう、何かをやっていた途中で別のことや情報が頭に入ったらそちらに意識が移って何やっていたのかを忘れる、(物理的な食べ物の)咀嚼が遅い、道に迷う、時間を見て行動ができないなど、この28年間苦労を重ねてきたがその私は「どんなに苦労したとしても大学院まで修了してるんだし、だから発達障害はない。それに、障がいを持っても得することなんてないから診断つけない方が君のためだ」と言われて今も診断に至っていない。ので私は今のところ発達障害ではない。)
それに、そもそも、このチャリティー番組のように、身体的障がいを抱えた人が、何かに毎回挑戦する必要もない。その当人が「○○をしたい」というのならそれを叶えてあげれば良いとは思うが、一律毎回何かに挑戦する企画であることに疑問を抱く。そういう希望を持つ人だけを抽出しているんだろうし、企画に沿わないような人は選ばれないだろうし、人選したら仮にその人が、つらくてやめたいと思ってもやめられないんだろう。番組サイドは途中で投げ出されたらたまったもんじゃないとなりそうだ。
でも、
障害を持つ方、そうでない方など含めて
皆で支え合おうなどというのであれば、それこそ
そうした困難や障害や病気を抱えた人を紹介するのであれば紹介し、その困難がどんなものであるのか、どのくらいその病気や障害を持っている人がいるのか、程度によってどのような困難を持つか、そういう人たちは(1万人に1人くらいの障害や病気なら特別なのかもしれないが)"特別"なのではなく、
私たちの社会に"ありふれていて"、視聴するあなたの隣の方がそうなのかもしれない、とか
こういう困難を抱える人がいます、こういう人たちはこういう配慮が必要です、社会として周囲の人間としてこうした助けが必要です、政府にこんな支援やこんな政策が必要かもしれません、みたいなものを視聴者たちに知らせてあげればいいし、私は、やはり先程書いたように
仮に当人が細かくこういうことをしたいんだと番組側に直談判してこない限りは、そもそもみんな、どんな人もおよそ一生懸命生きているんだから、特別何か目に見えて客観的に測れる形でのすごい挑戦に取り組んで、それを番組内で発表する場になんかする必要はないと感じている。
そうした点を含めた24時間テレビという番組自体の企画は、確かにモヤモヤする点や好かない部分が多くあるし、だから私は観なくなったんだと思う。
国民に募金を大規模に募り、芸能人にギャラを出し、障害や病気等の困難と向き合う人やその家族を選出し、企画をやらせて発表させて、そうした困難を伴っていないであろう視聴者たちに感動を煽る。
それらには、疑問や批判したい点があり、"偽善だ"と言われる面が大きいのは、正直なところよくわかる。それになにより、毎回同じ手法のままなのもちょっとつまらない。
チャリティーランナーなる人が謎にマラソンするのも、パーソナリティがいるのも、そのほとんどの場合ジャニーズのメンバーであることも、あらゆる障がいの方々が出てきて何かに挑戦するのも、羽鳥さんがだいたいどこかで泣くのも、最後にサライが流れるのも(今年が最後のサライだったそうなので来年はどうするのだろうと思うが)、いつも同じシナリオ。
やたら障害を強調したり、頑張っていることを強調すること、特に後者には確かに疑問を抱く。頑張らないと、認められないんだな
頑張らないと、何かに挑戦しないと、それを目に見える形で例え失敗しても挑戦し、何かしらを発揮できないといけないと言われている気がするのだ。
また、生まれた時から、幼少期からそうした病気や障害を抱える人にもだが、ある程度大人になって今まで”普通に”過ごしていたのに、ある日突然悲劇に襲われ”普通”ではなくなってしまった、その悲劇のストーリー感も強い。もちろん、健康や自由に動かせる身体をある日突然なくしてしまうことは、悲しいことではあるだろうけれど、番組側が、いかにも悲劇であるストーリーに仕立てる必要もない。出演する側はみんな頑張ることができて、もう立ち直りつつある、どうにか苦しい時を乗り越えた後、良いストーリーを歩めている人だけが選出される。
困難を抱えているけど頑張っている人=
素晴らしい、正しい、正義
何も頑張れないし得意なことも別にないし、障害を持って困難を抱えている代わりに他に何か秀でたことがなく、頑張りたいとかそういう意欲を持って生きられない人=
よくない、正しくない
困難を乗り越え強く生きられる=目指す目標
苦しさに喘ぎながら困難や辛い気持ちにふさぎ込んだり絶望してしまう状態のままでいること=まだ目標に向かって歩めていない良いとはいえない状況
という構図を押しつけられる気分になる。
これは障害を持っているいないに限らず、
頑張る=正義
頑張れない=ダメ
という構図を前提としすぎている。
それに、障害と一言でまとめても、実際には程度があるのだ。
例えばよく24時間テレビに、
聴覚の障害を持っていると区分されて出演する方々、
その方々の中には
聾者、聾唖者、難聴者(これにも、伝音性難聴の人と感音性難聴の人がいる)、中途失聴者などが出るが、これらの方々は障害により本来全く別であるし、そのどこに属しているのかは、彼らのアイデンティティに関わるものではないのだろうか。
また、そうした聴覚障害の方=手話、みたいなイメージもあるかもしれないが、
手話は、日本語の喋っている補助ではなく、
手話を日常生活で使用する人にとってはそれが第一言語だ。手話で話す人もいれば、口話や読話でコミュニケーションをとる人も居れば筆談がその人にとっての第一言語役割の人もいる。
そうした情報を、もっと視聴者の“健常者"たちに、明確に周知させるような番組ならいいのにと思ったりもする。
障がい者関連に限らず、日本という国そのもの全体のお国柄としてもあるのかもしれないが特にマスメディアは、やたら
私たち と 彼ら
という対立やコントラストをつくりたがるきらいがある。
コントラストをつくって、意識的か無意識か、そこに正常と異常(欠けている)の区分けをつくっている。
みんなで協力して、とか一丸となって頑張ろうだのいうのに、我らと彼らのコントラストをつくるのは謎だ。
上記に挙げたような点は、考え方、根底からもう一度考え直したらどうだろうかと思う。障害区分についてもっと知るとか知らせるとか、(特に発達障害はそうだが)グレーゾーンで生きる人たちにもスポットを当てるとか、目に見えて困難のある障がいを持っているわけではないが苦労したり苦しんでいる人がいるとか、別に特別何かの企画にわざわざ挑戦する必要性があるのかどうかとか。
障がいや病気を持つ人たちにとっては、
"障害"や"病気"は実際持っているものであり目の前に困難がある。それを認定され、社会としてきちんと制度や支えがつくられることが、"障壁をなくし生きやすくなる"ことが、どんな人でも支え合える社会とやらには必要である。
そのひとつに間違いなく、その障害や病気を持つ人持たない人全て含めて"そういう障害や病気があるんだ、そういう人も生きているんだ"と知らせる、見せるというのはマスメディアの役割の一つだと思う。しかもそれをマスメディアが担っているのなら、現在時点の社会では比較的大きな影響を及ぼしていると思う。だからこそ、考えたらいかがなものかと思う。
チャリティーランナーがEXITの兼近さんに決まった、それも志願したんだときいたとき、
まさにVolanteer(志願兵)したんだと感じた反面、上記に挙げたような24時間テレビの性質を考えると、兼近さんが手を挙げたことに驚いた。
彼は、24時間テレビのような"ショーとして見せている(偽)善性"みたいなものをあまり好まないと思っていた。
実際、特別悪いことをしたとかでもないのに街のゴミ拾いを行う芸能界の風潮に、りんたろー。さんが「ボランティアは禊のためのものじゃない」と発言しているし、メディアで紹介されたりしないが、彼らは特別何か悪いことをしたわけでなくてもゴミ拾い企画をしたりする。ただ街を綺麗にしかつファンや人々と交流ができ、自分たちの宣伝になるからと明示する。
それに、取材でも語っていたが、かねちは、24時間テレビのようなものを偽善だと思っていた側の人間だろうし、その背景には彼が貧困の側にいて、手を差し伸べてもらう側で育ってきていて、だから、"手を差し伸べてあげますよ"と大々的に言い、大々的にその行動をパフォーマンスしているような24時間テレビみたいなチャリティー番組は、あまり好かないのではと思ったのだ。
しかしなぜ立候補したのかという取材に、かねちはこう答えていた。
極貧だった生活の幼少期で貧困の連鎖の中にいるんだと自覚し、貧しさは社会のせいなんだと恨んでいた。しかし、ある時「絶望的に優しい人」たちに出会って手を差し伸べてもらったことで自分の人生は好転した、だから自分みたいな人間でも笑顔で走れるようになったことを伝えたい。
偽善だという人もいるだろうし、自分自身も24時間テレビを偽善だと思っていたが、そう口にしていただけの時の自分は、何もしていなかった。
走る理由のこの発言をみて、
特別やる理由はないかもしれないけど、
別にやらない理由もないし、という感じは
実にかねちらしいな、とジッターのわたしは思った。
24時間テレビという多くの視聴者が見ていて会社を上げて大々的に”ボランティアだ!素晴らしいことだ!困難を抱えている人もいるんだ!"ということを大きなテーマに掲げているものに出演することで、他の媒体でいうより影響は大きいし、こうした”偽"善をやりやすいし、普段であればEXITのファンくらいしか彼の発言や行動に注目しないかもしれないが、この番組を借りればファン以外の人も見るから、きっと出ることにしたんだろう。
やらない善よりやる偽善は、
私が学生時代、ボランティア関連の活動に関心を持ち携わってきた時に、やはり友人などに"ボランティアは偽善だ"と言われて言い返せず、数年経って”例え偽善だったとしても、それが本当に誰かのために、なっているのならやらない善よりやる偽善"とやっと答えが出た時の想いと同じだと思った。
この発言をしてくれたのは、大きいことなのではないだろうか。
すべて観てきたわけではないのだが、
今までの24時間テレビのほとんどは制作側と出演者は、
助けてあげる側
手を差し伸べる側
の人間であったと思う。
また、出演に際し、24時間テレビを偽善だと思っていたとはっきり語るような人もたぶんこれまでいなかったのではないだろうか。
そこに、かつて手を差し伸べてもらう側だった彼が出演し、はっきり発言し、やる理由もないけどやらない理由もないからやることにした、という理由を挙げて出演した。
明らかに今までの出演者と異なると思う。
分断を好まない、分断をなくしたい彼だから、
疑問や批判したい点があったとしても出演したのかもしれない。
走る前々からコロナ禍であるから応援は画面の中でのお願いしていたこと、(私は観ていなかったが)走っている最中、実際には街中に応援に訪れてしまった人たちに、明るくサービスしていたことを考えると、彼はあくまでずっとちゃんとお笑い芸人であったんだろう。
出演者がギャラをもらっていたとしても、何か困難を抱える人たちがメディアという大きな力を借りて誰かに会えたり、何かに挑戦したり、何かを伝えようとしその手段になっているのだとしたらそれは悪いことではないんだろう。
ただ、多くの視聴者や国民から
”募金”というものを集め”ボランティア"だといいつつ、その裏では高いギャラや製作費がかかっていたり、何か”困難”を抱えたひとが、”何かに挑戦してこそ素晴らしいこと"というプロットのもと企画が進められたり、障害や病気を持つ方々を多く紹介しているが、その障害や病気そのものの周知よりその方々が何かに挑戦することにばかり重点がおかれていたり、障害とはいえいつも大抵身体障害の方に偏っていたり、
感動や共感の押し付け感が終始散りばめられている感じやマラソンのゴールはサライになって最高に感動的な演出になるようにそのプロットに沿って組まれている、つまりそれはただ視聴者を意識しているだけなのであって、結局日テレは自社のイメージアップと収益を狙っているだけであるんだろう。それならそれで、そう明示してしまえばむしろ清々しいのに、あくまで
”ボランティア"とか
”努力は報われる"とか
"病気の中で頑張っている、すごい"とか
”特別頑張ることが素晴らしい"とか
”健常者の我たち、障害を持つ彼ら"みたいな考えとか
そういうものに従って45年という長い間、
ほとんど価値観をかえず、やり方を変えずに続けている点は少々問題なのではと思った。
頑張れない人は、努力するのが辛い人は、報われない人たちは、目に見える困難を抱えていないけど確実に困難を持つ人たちは、
製作陣には、どう映っているのだろう。
特に社会に何もできていない私には、何も言えないけれど、でも、
せっかくやる(偽)善番組なら、
時代が変遷するなかで長寿番組になってきているんだから、もっと主旨から変えればいいのにと感じた。
わたし自身は、持病は精神障害区分だし、
発達障害の診断を受けたことはないが存分に特性を持ち合わせているし、
出生時の麻痺だから現在は、日常生活に支障はほとんどないけれど身体(軽)麻痺もある。
でも24時間テレビ製作陣にとっては
わたしは(障害を持ち何かに挑戦する対象になる)”彼ら"には含まれないだろう。
大学院まで出たし、ちょこちょこ左上下肢が動かしづらいことでできない部分はあるのだけれど幼少期に訓練もしたし軽麻痺だから日常生活を送るのに何も支障はないし、目に見えないから私が言わなければほとんどの人はわたしのそれらに気づかないし、
てんかんだって精神障害区分の病気だけれど、
大発作を目の前で起こさない限りはわからないものであるし、
私のように診断を受けていない、発達特性を持つ人間は、発達障害認定された方以上に、
ただ注意散漫すぎる、予定を立てられなくて、パニックになりがちで、落ち着きのない、
社会人として出来の悪い人、
と思われるだけだ。
あの番組をやっている限り、批判はあらゆるところに出るし、偽善だと言われると思う。でもやらない善よりやる偽善で、
それでも続けるのであれば、もう少し、
その出演する困難を抱える人が
なんの病気や障害をお持ちで、それがどんなふうに困難で、社会としてどう改善や仕組み改革をしていけるかを提示してみるとか
目に見えぬ困難を抱える人もきちんと把握するとか
別にその、困難や障害を抱える人が特別何かに挑戦せずとも、(ただ必死に生きているだけで)頑張っているんだから、そのただその人が普段生きている姿を見せるとか、
頑張ることを良いこと、素晴らしいこと、としすぎない番組にするとか
できないものなのだろうか。
まあ、一意見、だけど。
それこそ、今回ランナーとして立候補したかねちが言う、分断をつくらないこと、というものに、この機会に変えてくれないだろうか。
分断をつくらないためには、
"(目に見えた困難を抱える・助けを必要としている・何かに挑戦し感動を売るための)彼らと(目に見えた障害や日常の困難はなく・手を差し伸べる側の・感動を与えてもらう)我ら"の構図で描いている番組の仕組みを変えることも必要なんじゃないだろうか。
もし、24時間テレビが、
ギャラを出していることを公示し、
特段一般人が出演することなく、
ただ芸能人の方が何かに向かって自主的に挑戦する企画で、番組での収益またはギャラの一部を、(例えば毎回本当に抽選などにして)特定の寄付先を明示していたり、
ひたすら専門家(医師や教育者)?とかが
どんな病気なのか、障害なのか、説明したり、
貧困や暴力の最中の人など病気や障害にかぎらずどんな困難を抱えている人がいるのか、社会としてどんな制度や支援が必要かを、
当事者と制度を制作する側と企業と、支えていく”健常者"側が議論したりする番組だったら
もう少し興味がわくかもしれない。
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