[りんごは、本当に「りんご」?]第12回ー視られる身体ー

 ことばがあるから事象は、ものは、世界は認識される。

上の画像をみて、ある人は頭のなかに、「リンゴ」という文字を、ある人は「りんご」またある人は「林檎」をおもいうかべただろう。さらに別の人は"apple”を思い浮かべるかもしれない。(ほかの言語や方言等は略)。

逆に、「りんご」ときいて頭に思い浮かべるイメージは人それぞ異なるものだともいえる。ある人は1つの「ふじ」(りんごの種)、またある人は「つがる」を、同じ「ふじ」でもある人はまるまる1個を、またある人はカットされたりんごを、またある人はりんごのなる木を想像するかもしれない。今回はコミュニケーションには触れないがこのイメージの違いは、コミュニケーションの中で考えれば、齟齬や伝達に影響していく。これに関しては、今後、言語コミュニケーションに関して書くことがあればまた記載しよう。

さて、

本当にりんごはりんごなのだろうか?

この🍎という食べ物とそれを指し示す「りんご」、"apple”という単語は恣意的(一般的な語の意味:その時々の思い付きで物事を判断するさま)で、一種の言語と対象をつなぐ言語圏、文化圏の約束のようなもので、もしかしたら🍎は、「みかん」だったかもしれないし、「もも」だったかもしれない。まさに記号論ではじめに言われる「我々は意味をつくる欲望に駆られ」て、「りんご」という文字(signifié)を"ringo"(正確に言えばら行はり以外ははじき音なのでrでも表せないのだが)と発音(signifiant)している。

私は、時々、様々な事象を記号論的見方で見るときがある。記号論(semiotics)あるいは記号学(semiology)は、なんらかの事象を言語等の別の事象で代替して表現する手段について研究する学問である。記号学と記号論という呼び名の違いは、前者(semiology)がソシュールが用いた言葉で、後者(semiotics)はパースが用いた言葉という違いである。ソシュールとパースの考え方は異なるため、関心のある方は記号論を調べていただくとよいかもしれない。

ここで少し話はかわるが、私は自分の身体に自信がない。それはもちろんプロポーションがモデルのようではないという意味もあるけれど、身長は160cmと少しあるし、もともと骨格がしっかりしているから劇的に細いわけでもなく、一方で体重も体脂肪率も体型も同年齢の女性平均と比較すればいたって普通程度である。それでも、とてつもなく、自信がないのには少々過去の“呪い”がある。

その呪いとは、過去の恋愛において、男性に身長高いんだよ縮め!!といわれ、一方、体重に関してはモデルのように細い子を例にとって、あの子くらいがいいと言われ(言った本人は記憶もしていなかった…)、また、その恋愛も終わった後に、「胸が○○に比べて小さい」という評価を下されたことも知った。そして、その人が○○と口にした女性に対しては、「君はあの人とか(私)より胸が大きいから」といったことを口にしたようだ。これに対して当時の私は、今回記載するようなことを反論したが、反論した当初、その男性は「○○のことは褒めたつもりだ」といい、「別に大きいのがいい、小さいのが悪いとは言ってない」と主張していた。つまり、

そもそも、女性の身体について評価をするという行為はいかがなのか、というこちらの反論は全くもってその男性には響いていなかったのである。

今回は、上野千鶴子氏の『発情装置』から「記号としての身体」を、上記の記号論の考えを頭において読みながら考えたい。

身体は誰のものか、それはもちろん、自分のもので、人間は身体をもった存在として世界を生きて、他者と関係を結んでいる。魂(心)だけでは生きられないのだ。(この辺り、今後、シュタイナーについて書くことがあればまた書きます)肉体があってはじめて存在していると言える。しかし、その"自分の身体”全体は、自分の目ではみることはできない。本当に身体は自分のものといえるのか、この発問から、上野氏は「本当に身体は自分のものなのか」という問いを立てている。

ウェーバー3で、女性の美容整形は、女性の自由意志なのか、社会からの「女性は美しくあれ」という要望によるものなのかという話をしたが、上野氏も

女性 は「視られる身体」としての自己身体を早いうちから否応なしに発見させられ、“誘惑の客体”として男性主体の視線から、評価され、比較され、値踏みされることを指摘している。

(本書に則り、今回は女性という自己認識と身体をもつ者を女性、男性という自己認識と身体を持つものを男性と記載する。)

以前から、少なからず痴漢被害や強姦被害等にあった女性に対し「男を誘うような格好をしていたのではないか」「女性が服装に気をつけていればいい」といった意見はテレビでも言われていたし私自身も周囲の男性やオトナにも言われていたけれど、本当にそうなのだろうか…

女性は「視られる身体」としての自己身体と折り合いをつけるため思春期より何十年にもわたって自己の身体と葛藤する(上野氏)。身体の性的価値=つまり、この文脈の場合、「“女性として”魅力的な身体であるかどうか」という価値は他者が評価するものであるため他者に依存している。そしてこの他者への依存、つまり他者評価を捨て去った時、初めてその女性は自己身体を受け入れることができるという。

これは、自己身体がたまたま性的に高い価値を持っている場合でも容易なことではなく、女性は男性の(または、ただ一般に他者の)価値判断を一方的に押し付けられることで男性の(または女性を含む他者の)欲望や賞賛に依存する。

そう、アンジェラ・カーターの『夜ごとのサーカス』の主人公の外見描写にもこうした観点があると思う。上野氏の本に戻れば、ラカンの言う通り、欲望とは、他者に欲望されることへの欲望だということができ、この誘惑の客体として他者に依存しながら自己確認する嗜癖を、誤ってニンフォマニア(多淫症)と我々は呼んできた。

衣服や化粧も社会的な記号ではあるが着脱可能なものである。一方で、裸体が社会的記号で、市場価値を付与されるものならば、その規範に合わせて自己の身体をコントロールしなければならないという考えにいたる。これが現在の、身体への考えであり、だからこそ、上野氏が記載するように、「極端な肥満はそれ自体がセルフ・コントロールの失敗をあらわし、非難の対象となる(身体が人格)」のだ。

このように考えれば、身体(body、そしてスタイルの良さ)も身につけているものであると考え、「ウェットスーツを着るようにたまたま男から見て魅力のある女のボディを着ているだけ」だといえる。

そして、これまで、今もずっと、男性は「視る」側に固定され、女性は「視られる」対象であった。

これには、一種のマンスプレイニングがあったかもしれない(第10回投稿参照)。すると、女性がこの「視られる」存在として身体性へと還元されるなら男性は他者から「視られる」ことがなく、よって他者に自己身体を“発見”されない。「視る」ことの欲望は、ファインダーの背後に完全に身体が消えることにより完成した。カメラという発明によって、自分が被写体を“視る”ことばかり考えていて、自分の見ている被写体に見返されている(自分自身も見られている)という意識がない。

自己身体は他者によって「発見」されなければ関係することができないため、「視る側」に固定されている人は自己身体と関係できない。ここまでこの視る主体が男性で記載されているのは、視線の政治学が、男性に主体の位置を与えているからであり、男性が自己身体を発見できず、また自己身体と関係できないのもこれによる対価である。

性の市場では今や身体の記号化は、上野氏が指摘した1998年よりもなお加速し、身体の記号化はもはや完成しており、(ここではこの書籍からすでに20年以上経っているため、私個人としてはここ数年で一層人々の価値観は変化していると感じている)(本書籍でいう)男性も「視られる存在」になっている。男性向けグラビアが、男性の欲望を描いた女性像や女性性が求められるのと同様、上野氏が記載するように、女性読者向けの男性ヌードというのは、男性が考える「男らしい」ヌードではなく女性の好みを反映し、脅威を感じさせないボディの持ち主が選ばれる。よって男性も、ダイエット、シェイプアップ、筋トレに余念がなく、身体の客体化は女性同様に逃れられなくなっている。そして、身体の客体化によって、女性の場合と同様、他者の視線と賞賛への依存が高まり、他者に属していく。(上野氏より)

上野氏は、こうした他者の評価による自己疎外に対抗し得るものとして「エコロジカルな身体」を挙げている。「エコロジカルな身体」の持ち主とは、他者の欲望や、他者の視線を満たすためではなく、自己充足のために身体を作っている、という食べて呼吸して、排泄して生きる、ただそのことが気持ちいいかと思う人だ。しかし、一方でこの「エコロジカルな身体」も、他者に属する身体と同様、資本主義の中で生まれてきたものと考えることができるというのだ。

エコロジカルな身体、つまり自己充足のための身体が自己の価値を表現する場合、結局はその身体の価値の基準は、周囲の環境が念頭にあって、頭の中でその市場価値のある身体をどこかで理想として抱いているからこそ生まれるといえる。本書に記載される『拒食と過食の社会学』を書いた社会学者の加藤まどかの分析では、「知性」も「教養」も「エコロジー」もすべて身体で測られ、非市場的価値のものも、市場価値のある単位で測られ、社会的な記号のない身体はこの世には存在しない。
これが「記号としての身体」の論点である。

さて、今回は様々な話を繰り広げてしまったが、SNSが多くの世代に広がり、「インスタ映え」という言葉が流行り、10代前後の女子などが自己の身体をSNSで晒しているという実態を、「オトナ」の側は把握し親や教育者は、十分に教育の中でこの問題について考えるとともに、その教育のなかで単に良い悪い、危険だというだけではなく、この「視られる身体」ということについて考えさせるのも大切ではないかと思う。さらに、セクハラということばが、重みをもってつかわれず、「最近の子はちょっと化粧や衣服や身体のことを言っただけですぐセクハラという」などと、言われることは問題ではないのか、考えて頂きたい。

特に被害者に女性が多いためここでは、女性を被害者として記載するが、加害者である痴漢、変質者、強姦、強制性行等はもちろん、それだけでなく女性の身体を性的な特徴によって「評価する」という男性側の行為は、こうした観点にたてばそもそもそうした行為それ自体が、失礼なのだと。

そして、みなさん、
①りんごは本当にりんごなのか(記号論的な視点に立った世界の見方)

②今回は、私の経験により男性が、女性の身体を評価する、という観点で書いたがそもそも他人が、その中でもさらに身体として“異性”(今回の場合男性)が、もう一人の“異性”の身体(今回の場合女性)に関して、その評価が良きにせよ、「評価」してよいものなのか(これは、無意識にセクハラをセクハラだと思わずに起こしている全国の皆様に言いたい)

③そして、そうした“異性”の性的視点に立った場合の「消費される身体」

について考えて頂きたいと強く思う。

最後に…ここまで読んでいただいた皆様に質問です。
今後、英語教育、教育全般、言語習得等に関しても書いていこうか検討中です。このようなテーマで、こんなものを読みたい、というものはありますか?

内容によってはかなり専門的な内容または私自身の修士の論文、研究内容を含んでいる場合には有料にする可能性も考えていますがアドバイスいただきたく思います。

#記号としての身体 #被写体 #記号論 #性教育 #思いつき以上思考未満




〈参考文献〉
画像はフリー素材より。(2019年2月26日閲覧)(https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&id=4B5AB8162BB55E19ECB0D8B64BCA2FD71FD66645&thid=OIP.t-S1qgH0J-rF-hVGmLz5fQHaHh&mediaurl=http%3A%2F%2Fearth.publicdomainq.net%2F201611%2F13o%2Fpublicdomainq-0002607tcrxso.png&exph=3840&expw=3778&q=%e3%83%aa%e3%83%b3%e3%82%b4+%e3%83%95%e3%83%aa%e3%83%bc%e7%94%bb%e5%83%8f&selectedindex=1&ajaxhist=0&vt=0&eim=1,6)

上野千鶴子. (1998).「記号としての身体」.『発情装置』. 岩間輝生, 坂口浩一, 佐藤和夫, 関口隆一 編.ちくま評論選:高校生のための現代思想エッセンス.2012年発行.より
元本は東京:岩波現代文庫.



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