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第3回〈発達障害って…2〉

発達障害、という言葉も平成も終わりになった今は、だいぶ認知されてきたように思います。先日、テレビ番組「あさイチ」でも、女の子の発達障害に関して特集されていたそうです。また、発達障害の子が災害などにあった場合の話もありました。

いわゆるみんなが想像する感じとは違うかもしれませんが、感覚過敏の傾向は私もあります。ただ、私の母親はじめ、多くの人にはかなりの誤解や偏見があるのを私自身とても感じます。教員の友人や教育関係者にすら、言い訳じゃなく、私これこれなんだよね、というと「でもそんなこと言ったって世の中そんなことで許されるほど甘くない」となぜか説教みたいなものが始まるし。

そもそも発達障害は、生まれつきの脳機能の発達がアンバランスであることで生じる凸凹や環境や関わりとのミスマッチによる生きづらさのようなもので、主なものはADHD(注意欠陥・多動性障害)、ASD(自閉症スペクトラム障害)、学習障害(LD)、その他これに類する脳機能障害のことです。まず、このように、発達障害とひとくちに言っても皆が同じ類のもので同じようなこんなんをかかえているわけでは無いことを伝えるためにここに記しました。私は発達障害に関して特別勉強したわけではないのでこれ以上に詳しい説明はしません。

ただ、前回の投稿で話したように、まだまだ壁はあるなと思います。発達障害に限らず、なんでも病気でも、名前がつくということは良いことでもあり悪いことでもある気がします。特性や性質から名前がつくことで、太古の昔のように精神異常者として隔離されることはなくなったし、きちんとしたケアや教育を施されるようになった一方、未だ偏見や理解の浅さは多く、特に根性論や努力すればで語りがちな人たちには未だに“理解”はされていないと思います。

目が悪ければ眼鏡やコンタクトをするのが当然受け入れられるように、発達障害にも(もちろんそれ以外の困難にも)眼鏡やコンタクトの役割を果たす補助は必要である、と思う。

ゴールの平等を目指して必要なケアや補助や教育を施す、環境をととのえる、という考えは、
なかなか努力や根性だけでどうにかなるのだから、そんなのずるい、とかお金のない家に生まれたその人の運命なのだから、とか私はこんなにかわいそうな境遇なのだから仕方ないとか、

うまく言葉にできないけれど、どうにかならないものかなぁと強く思う時があるんですよね。

第0回から前提となる考えや背景についてちょこちょこと述べてまいりました。これらをもとに今後の投稿を読んでいただければ、一見、言語習得や教育と関係なさそうな分野をなぜ語っているのか、ご理解頂けるかもしれないと思い示しました。

(イメージ写真の階段の文字位置の上下にはなにも意味はなく、社会に感じる段差を意味しているのみです)
#発達障害

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