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夜中に考えていたことの一抹として


 人に与えられた時間は等しく
24時間、365日。

 命の期限は、人によって異なるし、本当はもっと長く生きられたはずなのに、病気や障害や事故によって、もしくは災害で悲しくも、突然命を落とすこともあるし、命の期限が定められることもある。


 でも、とりあえずのところ、誰にとっても
(もし、タイムマシンがあって自由に何度でも時間を往復できるのだという人がいない限りは)
1日24時間(時々閏秒があるけどまあそれは省いて)、1年365日(閏年は366日)

これは変わらない。


 そして、その時間をどう使うかも、基本的には自分の選択による。もちろん、例えば仕事をしている時に、自分の意思とは別で動かなければならないこと、制限される時間という意味では自由ではないかもしれないし、特に母親にとっては(もちろんきちんと育児をしている父親にとってもだけれどこと母乳をあげていたり、妊娠中のお母さんにとってはお腹の中に胎児がいるわけなので自由がきかないという意味で)自由はないようではあるけれど、

それも、望まない(それも自分の意図しない暴力などによる)妊娠でない限りは、自身の選択によって赤ん坊を授かることができた、ということでもあるのでそういう意味で広く、

 時間をどう使うか自分で選択できている、ということと考えると(つまり、妊娠する際に、暴力により意思とは別に赤ちゃんを授かってしまった場合でない限りは、赤ん坊を授かったら十月十日身体に命を宿し、身動きも自由に効かないとか、無事に産まれたら今度は赤ん坊を育て上げなくてはならないから寝ても覚めても子育てとかは、想像を超える大変さがあるにしたって、一応想定はして、子どもをつくることになるのでそういう意味で、自分の身体や自由をある程度制限されたとしても、子どもを授かることを希望した、自分の時間をこれからそうした時間に自分たちの意思で選択した、という意味で)


何にその時間を使うのか、振り分けていくのか、もしくは振り分けざるを得ないのかは、やはり皆、自身の選択にかかっている。

もちろん、上記のような妊婦さんの不自由だとか、それとは別に例えば何か病気で、障害で、やりたいと思ったところで、時間があったところでできないこともあってそれは人それぞれにあってそういう部分は皆平等に振り分けられているとは私には思えない。

やはり、私でさえ、健康体で何も気にしなくてよくて体力もある人たちを見たら、

その人たちが簡単に「こうすればいいじゃん」とか言ってくるそれは、私にとっては非常に難しく、またはその人たちの何倍も時間のかかることだったりするし、

健康体の人が、選べる進路を選べないとかそういうことに苦しむ。


もしくは、持病以外でも、


身体障害や精神障害や発達障害的な部分でも、

やはり、五体満足、優良健康児で定型発達の超健康体人間を見ると、


私にはないものばかりを備えていて羨ましいと感じる。その人が高岸さんよろしく「やればできる!」とか、簡単に言ってきたら(まあ私は、ティモンディの高岸さんを批判する意図はなくてむしろ見たらああ、ポジティブを押し付けない言い方だなと思うのだけれど)

その"高岸みがある人"のポジティブの押し付けは、私みたいな人間を生きづらくさせる。いや、こっちが勝手に生きづらく感じてしまっているわけだから、その人のせいにしてはいけないんだけど、

でもそういう人間もいる。


 で、話を最初に戻すと、基本的には誰にとっても、イマココしか生きられないわけなので

 そういう視点から考えて、1日24時間、1年はおよそ365日、寿命(死ぬ瞬間がいつか)は、自殺でない限りそして自殺が完全に成功しない限りは自分では選ぶことはできない。


 こういう意味でも、わたしは自殺や尊厳死(安楽死)否定派ではないのだけれどね、自分で死ぬ瞬間や死に方を選べるということは、生き方を選んでいるってことだとわたしは思うからね。別に、否定派ではないというだけで、積極的にそうしよう!とは言わないけれど。


 長くなってしまったけれど、まあそういうわけで、基本的には、やはりイマココを生きることしか人間にはできないんだよね。タイムマシンも今のところはまだ出来上がってないようだし、どこかに存在するのかもしれないけれど、とりあえずわたしの身の回りにはないし。


 イマココ、の私が何を選択するかに、すべてかかっている、という観点から言うと


 例えば、受験生の子がいて、

 今勉強に時間を充てるか、寝る時間に充てるか、動画や映画を観る時間に充てるか、を選ぶのも本人の自由、

なんだよね。


 そしてそれに加えて、人ってのは、要領のいい人と要領悪い人、地頭の良い人とそうではない人、最後までとにかくやり遂げようという感じの人なのか、別にテキトーで放り出しても気にしない人か、とか特性や能力や性格によってまた、使う時間も変わってくる。


 例えばわたしは中学受験をしていて小学校3年の2月から塾に通っていた。だから、学校に行って、習い事のある日はバレエとか水泳とか行って、塾のある日は塾に行って、帰ってきたら学校の宿題も塾の宿題もして、5年、6年になってきたら土日も塾が入ったりして、5年生の間にバレエや水泳をやめて塾を選んだりもしたし

 自分の意思とは関係なく、引っ越すことになったからという意味でもバレエは引越しを機にやめた。

 わたしがそうして中学受験勉強をしている時、受験をしない友人たちは、別にそうした受験勉強が必要ではないから、学校の宿題や習い事やそうしたもののほかは自由で、遊んでいたかもしれないし、


 それのどちらが良い悪いとかじゃなくて、そういうふうに、生きている時間を何に使うかは、産まれてからの家庭環境によっても、習い事などによっても変わるし、ましてや小学校、中学校くらいまではなんとなくそれでも学校生活という基盤があるからみんなある程度同じような過ごし方をしているようでも、

高校に行く人、行かない人


大学に行く人、行かない人、働いている人、

とかでまたさらに分岐していく。それが大人になるにつれて、どんどん「おともだち」だった人たちの生き方が変わっていく、というもので、人によって異なっていって、


それがさらに進んで大人の今でも、
定時退勤でホワイトに働けている人
残業が多い人
職場が大変な人
とか

結婚やパートナーシップなどで誰かと暮らしている人
子どもを産んだ人、
介護をしなければならない人
とかでも違うし


大人になっていくにつれて、同じ生活をする人もいないし、同じ人生を歩んでいく人もいなくて、


そして、子ども時代からの環境とか、まわりの人間たちとか、どの学校に進んだかとか、その後の人間関係とか、職場の環境とか、働き方とか、仕事の内容とかその人自身の人生で形成してきた価値観とかも当然百人百葉になってくる。


それに、わたしは、要領の悪い子であったから、塾の算数の宿題がなかなかわからなくて終わらなくて真夜中まで起きていつも首をこくんこくん言わせながらやっていたけれど、同じ塾の子でも勉強のできる子は、さっさと宿題を終わらせて寝ていたかもしれないし。


 だから、大人になって、「自分にとって何が大切か」は人それぞれ異なってくるし、自分にとって大切なものはあるけれど、何かを選ばざるを得なくなる人もいるし、その何かを選ばざるを得なくなった結果に自分の希望とは真逆の道を歩まなくてはならない人生になっていく人もいる。そしてそれが自分の力ではどうにもならないことがある場合もある。


 例えば、

 頭も良くて将来も期待されていたけれど、家庭環境が悪化して心に本当に悪い状態が長く続き、さらには突然両親が離婚することになって学校を辞めなくてはならなくなった上、介護が必要な家族がいてその介護を自分が引き受けないと誰も引き受けなくなった、で、それでも心優しくてその介護も引き受けたら、これまですごく真面目に頑張って積み重ねてきたけれど、両親は別れて家族はバラバラ、自分はまだ若いというのに介護や育児を担わなければならない側になり、おまけに働いて自立もしないといけない生きていかなければならないし、介護や育児のお金すらも突然、自分の責務じゃないはずだったのにやらなければ誰もやらないからやらなきゃと思って背負って、そうやって身を粉にして頑張っていたら、心も身体もボロボロになってしまってもう働くこともできなくなって、でもどうにかしなければいけなくなって、自分は自分ではなくなってしまった、とかね


 大人になるにつれて、自分の思うように人生は進んでいかないこともあるってこととか


 人生は全然平等に機会や経済的環境とか経済的には恵まれていたって例えばそういう家庭環境とかが平等には与えられていないってことを知る。


 それで、苦しいから、もう無理だから生きている方がきついから、死を選ぶ、という場合だってあり得なくはない。


 わたしは、仮に生き地獄のような環境にいる人がいたとして、どこにも逃げられなかったとして(本当はどこか逃げてほしいしちゃんと逃げた場所で安全に生きてほしいし、そして生き延びてほしいけれど)そういう人が、生きているのが本当に地獄の環境の人が、悩んだ末に、地獄から抜け出せる方法として、楽になるしかもう呼吸することもできなくて、その楽になる方法が死んで消えることしかないと本当になっているとしたら、


 その人が楽になりたいと言って死を選ぶことを、わたしは即否定することはできない。


 そういう人も世の中には多く存在するということは、そうでない側の幸せに生きられている人は頭の片隅にでも置いておくべきだとも思う。


 ところで、話が大きくなったけれど、


最初の話に戻って、生きる時間が1日24時間、1年365日というのは皆同じで


上記に挙げたように、それを介護だとか育児だとかに使わなければならない事情がある人もいて、特に介護の場合で、ヤングケアラー(20代も含め)だったりすると自分の意思ではないことがほとんどだと思うけれど、


そういう場合を除いては、大人になれば基本的には自分の人生の時間は何に使おうと自由である。


いや、本当のことを言うと、ヤングケアラーだって、家族だから、頑張って支えようとかあるんだと思うけれど、


自分が親で、子を育てる義務がある、場合なら当てはまらないけれど


その逆で、

自分が子やましてや孫の立場で祖父母を介護しなければならない、となったとしたら、"義務"はおそらくほとんどの場合本来はない。(特にヤングケアラーの孫などによる介護は本来は、子である親がやるべきだからね)


で、そういう意味で、一般的には、


まだ意思という意思がないような赤ん坊だったとしても、大人であったとしても


「自分の人生の時間を何に使うか」は本人の意思に委ねられている。


 一般的な大人が、

 仕事終わりや仕事のない休日に、


一日中TVを観ることに時間を使おうが

本を読むことに時間を使おうが

ジムに行こうがデートしようがSNSを見てようが、基本的には本人の自由というものだ。


"人生の時間を何に使うのか"ということを考えて生きることは、若いうちから養っておいた方が良いとよく思うようになった。


 例えばわたし。

 小学3年の二月から小6卒業まで受験勉強をした。塾も通っていたし引っ越すまでは水泳やバレエも他に習っていた。で、東京に来るのと同時に習い事も塾だけになってからは、週3〜4回は塾、塾の宿題もあってその他に勉強もして、もちろん学校の宿題などもやって、長期休みは講習があって…とかだったし


それは中学受験しない人たちとは違う時間の過ごし方をしてきただろうと思う。


中学校に入ってからはHRが8:00、家から1時間半弱、中休みはなく礼拝があるところに通っていたので、

朝起きるのは6時、家を出るのは6:30、学校に着くのは7:40〜8:00の間、50分授業×6、間は礼拝、昼休み45分、6時間目が終わるのは15時、
月曜日はLHR(ロングホームルーム)で放課後は16時から、それ以外の日は15:30前後から放課後、

中学生の時は月金は部活動、高校生の時は月水金が部活動、


学校が遠いのもあり宿題がたんまり出る学校だったのもあり毎日テストだらけだったのもあり、高1の時の塾と高3の時の長期休みの塾以外習い事はしなかった(何せ登下校合わせて3時間なのでね)けれど

例えば、家から10分くらいの学校に通っていて、中休みも昼休みもちゃんとあって、宿題もほとんど出なくて、勉強もそんなにしない子で習い事もしていなくて、


という子がいたとして、


もしくは例えば学校に通ってておまけに週7で習い事があって、とかそういう子とはおそらく15歳という時間の使い方、18歳の時何していたか、は全然違うと思う。


そしてそういう一つ一つの積み重ねの違いが、それぞれの人格や性格や各々の人生観に関わってその人というものを作り上げているわけだし、


例えば同じように忙しい人同士だとしても、

余暇の時間を何に使っていたか、の違いで

少しばかり人生は変わったりする。


 そういうことを考えた時、わたしの中高時代は、ドラマ全盛期と言われていて、学年のほとんどがドラマを観ていたり、「昨日あのドラマでさ」って話になるくらいだったし、今はなくなったジャニーズも、全盛期で、

SMAPに嵐に、NEWSに、Hey!Say!JUMPに、とかで

嵐が1年間局を跨いでドラマリレーしてた、とかそういう時代。


花男1stシーズンが小6、2ndシーズンが中2、とか
花ざかりの君たちへ(一期目)があったり、

そういう時代だったので、


例えば学校も習いごとも宿題も勉強も終わらせた余暇の時間にドラマを観ていることも多かったし


私立だったので友人が近くに住んでいることはなかったけれど、あんなに毎日学校であってるけど、土日も「横浜行こ」って横浜駅で遊んだりもあったし、


とにかく今振り返れば、え、もっと他にできることやってよ!とか思ったりする時もあるけれど、当時の私、にたちかえれば十二分に予定があったし、その当時はそれで忙しかったから、例えばドラマ観ている分アニメは一切観る時間などなくて観てこられなかった、とか

そういうのもある。(だから観たいアニメが溜まって大人になってみはじめたんだけど)

当時のわたしにとっては、優先順位とやりたいこととやらねばならないことをかけていったら、24時間の時間にアニメは入れることができなかったんだろう。まあ、0時には寝て、6時に起きて基礎英語聴きながら準備して6:30には家を出て20分前後かかる駅まで歩いて7:00までの電車に乗って、それでやっと学校最寄りに着くのが7:30、友人と会ったりなんかして学校最寄りから学校まで歩いて8:00前にやっと教室に着く、8:00HRで8:15から1時間目、

礼拝があるから中休みとかはなくて1〜4時間目まで礼拝入れてほぼぶっ続け、お昼休みは12:25〜13:10まで。5〜6時間目終わって15時、その後LHRがあったり、HRになったり、さらにその後部活があったり、部活がない日で友人と恋話して帰ったり、喧嘩して帰ったり、一緒に駅まで帰ったり…

とかね。


で、我が校は必ず5教科が毎日宿題があって、英語は毎日単語テストがあって、それとは別に英単語テストと漢字テストが毎週あって、その他に家庭科とか音楽科とかからちょこちょこと課題が出ていてとか

高2になってきたら、週4時間(2時間ぶっ続け×週2)ある日本史で週2でテスト、英語は毎日授業内テストがあってそれとは別に英単語帳のテストが金曜日のHRであって、漢字テストも同じ金曜のHR内にあって、とかね

理科も中学生の時から実験があったら、
実験前学習→実験→レポート提出当たり前だったし

英単語や漢字や日本史だけじゃなくて、数学も毎回小テストあったし。


そういうかんじではあったから、
全然進学校とかではなかったし、先生たちに勉強しろ!なんて言われる学校じゃなくて、宗教系の学校だったからむしろ、宗教教育みっちりみたいな感じの学校だったけどそれでもこのくらいはあった。

もちろん、小テストとか赤点とかだったら補習あるし。


だから、ドラマも観て、小テストのための勉強もして毎日各科目から出る宿題もやって、予習してきなさいという授業なら予習もして、当たり前ではあるけれど、その上で部活して部活の練習を自主練して、友人ともあそんで、とかやっぱりそれでいっぱいいっぱいみたいなところもあった。まさに、充実。


 でも、例えばふと同い年の友人なんかで部活に入っていなかった子の話を聞いたり、体育会系でバリバリもっと忙しく部活やっていた子の話を聞けばやはりわたしとはまた違う学校生活を送っている。


 大学生以降でも、


 例えば大学の授業が多すぎてすごく大変な人と、大学一年でも大学に行かなくて良い日があるくらいの授業数の人、


とか

 部活やサークルや学内活動バリバリやってめっちゃ忙しい、って人と

 社畜ですってほどバイト侍してる人と

 必要な授業以外は、とにかくいろいろ経験したいから遊んでみる人と


 目標があって留学のために勉強時間に全部ベットしてる人と

 資格試験があってそれの勉強に充てなければならない人とは違うし


 例えばわたしは大学も片道2時間弱かかっていたけれど、大学まで5分の人と、片道2時間の人では往復だけでも全然生活が違うし、

 例えば親や祖父母などの介護をしながら学生生活を送っている人と、何にもしなくてもいい人では違うし、

 奨学金借りていてそれ以外に自分でアルバイトで生活費をどうにかしなければならない人と実家暮らしで基本的な生活費は親持ちで学費も親で、自分が大学生として何かするのに必要なお金(余暇を楽しむとか就活とか)だけアルバイトしなければいけない、って程度の人とでは


まるで生活は変わってくるし、


 そうやって、本当に小さな選択から大きな選択まで、日常、何を選んできたか(その選択が選ばざるを得なくて選んだとしても)の積み重ねで、少しずつ人生は変わる。


 そして、先にも書いたように、介護や病気療養だとか、そういう自分ではどうにもならないことというのももちろんあって、それはそれで「自分で決めた道だ」とはやはり思えないだろうけれど、でもそれも含めて、結局、自分の人生を背負っていかなければならない。(だからこそ死ぬくらいきつい思いをしているのなら誰かに助けを求めて欲しいし、助けられて欲しいと思うわけだけれど)


その上で、イマココの自分が何を選ぶかっていうのがあり、

そして、選ぶということに関して言えば

何かを選ぶ時、何かを失っていることが多い。

例えば、テレビ1つにしても

今Aという番組を観る、と決めたら

別の番組Bを観ることやその時間に本を読むこと、勉強することは捨てることになるわけだし


今社畜侍していたとしたら、その、働いている時間には、他にやりたかったことややるべきことはできない。


基本的には、やはり

期限がある"時間"というパイを

何で埋めるか、


という風に考えなくてはならない。


24時間あるとして

自分に6時間の睡眠が必要ならば

例えば1時に寝て7時までは睡眠、残りの18時間をどう使うか、ということになるし


人によっては4時間睡眠で生きられる人もいて、10時間くらい寝ないと身体がもたない人もいて、それは体力とか体質とかの違いなんだけれど、自分に合うようにある程度合わせなければならない。

4時間睡眠で生きていける人からしたら10時間は必要という人のその、6時間分を「無駄な時間」と切り捨てられるかもしれないけれど、10時間は睡眠が必要な身体の立場からすれば、その6時間の睡眠は、仮にその間に他の人は勉強してるだのなんだの言われたとて、自分の健康のために必要なので選ばざるを得ないし


例えば起きている時間の自由時間で

目標があって資格勉強とか何か勉強している人たちから見たら

「そのテレビを見ている1時間!アニメを観ている1時間を、勉強したらこんなふうになれる!」とか考えるかもしれないけれど


 テレビを観たりアニメを観ることに優先順位を置く立場からしたら、

「あなたにとっては無駄かもしれんけど、私にとってはこの時間が必要なんですわ」

って思うし、


よく言われるので言えばラテマネー

前にも書いたけれど、ラテマネーは基本的に無駄って言われることが多いけれど

その、何気なく使ってしまっているお金、のその何気ない何か、によって日常にちょっとした幸せとか余裕を持てるという人もいるし。



 ただ、一日は24時間、一年は365日、
事故や病気で突然死なない限りは、寿命があってそれに向かって生きているのも皆同じ、ではあって、


ここまで書いたように、自分ではどうにもできない理由がない限りは、大人であれば自分の時間を自分で振り分けることができる。

 例えば仕事終わりから寝るまでに何もしなくていい時間が2時間あったとして、その時間にドラマを観るも映画を観るもアニメを観るも勉強するも、家族と話すでも、何か家事をするも音楽を聴くでも、自由であるし


 基本的には、子どもを産むことは自分の意思であるので
もちろん子どもがいることで、わたしには想像し得ないほど自分の時間が削られる苦労はあるだろうけれど、でもある程度は、やはりその不便と引き換えに子どもという宝を授かっているわけだし


 子どもがいる/いないでの時間の使い方の話をするといない人にはわからないとかいろいろ言われそうだから、住む場所で言えば


 職場の近くに家を借りて通勤時間をなるべく短くして、その通勤にかからない時間で他のことをするのも大人の時間の選択の一つだし


 逆に通勤には2時間くらいかかるけれど家賃を抑えてお金を浮かせて、通勤の2時間はあんまり何もできないけど耐えていて、でも時間と引き換えにお金をつくる、のも一つの選択肢だし


全部、そうやって何かを捨てて何かを選び、
何かを選ぶときは何かを捨てている。


ふと、そういうことをね、


借りてきて10日ほど放置していた『君たちはどう生きるか』を読んでいる時にね、


わたしは今この間まで、本を読む時間を取らない代わりにドラマファイトソングをずっと観ていて、

で昨日は、本を読まない代わりに朱蒙を久しぶりに観すすめたけど、今日は朱蒙を観ない代わりに本を読み進めることができた
って考えていた。


結局同時にできない以上は、
Aを取ったらBは諦めなきゃいけない

BをとったらAとCは諦めなきゃいけない


っていうことは、


テレビドラマをどれを観るかとか

アニメを観るのかドラマを観るのか勉強をするのか、ということだけでも


もしくはアニメもテレビも何も観る時間作れなくなるけど代わりにバイト三昧してお金は後で入る、とかね。


私が大学1年の夏なら、

みんながバイト三昧してるけど、祖父母が入院しているので、横浜まで往復母と一緒に行く、その時間は、わたしは遊ぶことも何かをすることも本を読むこともバイトすることも勉強することもできない、でも祖父母のところへ行くことを結果的には、選んでいたわけだし


仮にこれが自分の意思では、あの頃は選べなかったんだよーと思うことであっても


なかなかことわれずにバイト三昧していたのは結果的には、断れない性分だったにしろそれを含めて自分の選択で

誰でも、断れる断れないがあっても(性分的に)
やらなければならなないことであっても(仕事や育児)

結局それは突き詰めると"自分でそれを選んでいる"わけで、

そういう観点に立たないのならばそれは

自分の人生に、責任を持っていない、


ってことになるんだろうなと思う。


 ここまでには、恋愛のことは書かなかったけれど、恋愛とかもそう。


 今彼と付き合うことを選んでいるのも自分、

 今日彼とデートすることを選んだのも自分

 今日、あの人と会うのは断った、のも自分、


とかね。


 逆に、希望していたけど断られることもあるよね、でもそれすらも、

 相手に断られてしまった、としか思えないうちはきっと、自分で人生のオールを動かせなくなっている時なんだと思う。

 断られたのは本意ではなくて予定が空いてしまって心も傷ついたけれど、他のことができるとか、傷心しようとか、それも選べる。


 ところで今30歳6ヶ月目のわたしには、


どうせ生きているのなら、やりたいことや経験したいことがたくさんある。


でも結局、その大きなものに全然手をつけられていない。

例えば働くこと。
もちろん、体調や経歴やこれまでの経緯で自身で頑張っても頑張っても届かなくて苦労していることもあるんだけど、でもやっぱり、わたしはここまで働くことじゃない別のことにベクトルが向いてたんだと思う


例えば恋愛。
結婚も子どもを育てることも希望していたけれど、これもやっぱり自分の展望不足と、自身の自立不足で叶ってないよね、で、その不足はそこに力を注げばある程度動いたことかもしれないけれど、結局これまでのわたしはそこに注がなかったのは、これまでのわたしにとっては、きっと他のことを優先したかったんだろうね、でも希望しているなら、目の前の優先だけじゃなく展望も必要だなってやはり思うには思うし、魅力的にならないといけないとも思う。特に、見目麗しいとかスタイルが良いとかじゃないなら。まだ踏み出せていないね。


そういう感じ。


結局何を目的にしていて、目標にしていて、とか
何をしたいというのがあって

それらに自分の中である程度優先順位とかをつけて、どのくらい何が必要か見極めながら


今の自分にとっての幸せと、その少し先の将来の展望に必要なことを天秤にかけて、何をどのくらい選んでいくのか


ってやっていかないと、思うような未来にはなかなか到達できないし。かといって今の自分を"犠牲"にしてまで全振りしてその未来の何かのために頑張ってそれが実ったら、今の"犠牲"も報われるけど、必ずしも全てがうまくいくわけじゃない可能性を考えた時に、"犠牲"にしすぎると、もしかしたらどこかの時点で「あの時あれをあんなに犠牲にしたのに…」って後悔することもあるかもしれない。そもそも未来のために生きても明日死ぬかもしれないし。

でも、仮にそれが誰かのための犠牲だとしても、誰も責任取ってくれない。


それは正直、子どもの立場から言う子育てでもそう。


母に「あんなに時間かけて○○してあげたのに」とか「わたしには自由な時間なんてなかった」とか言われたって


そりゃ感謝はしたとしてもそれを子どものせいにされたら

「いや知らんし、子ども作ったのはそっちだし、子どものためだからって気持ちでやってくれたならそれはその時のあなたの選択でしょ、それを犠牲にしたって気持ちが強くなってあなたのためにこれをしてきたからわたしはこれができなかった、とか言われましても」ってそりゃ思うよ。


だから
親であっても、子どもが成人したり独り立ちするまではもちろん育てる義務は、果たしてもらわないと困るわけででもやはり子どもを作ったのは自分なのだから


その、

子どもを育てる幸せと
子どもがいることによる不自由を
ちゃんと天秤にある程度かけて前者を取った自分、に責任は持って欲しいと思う。

(インスタとかにたまに、子ども五人も六人もいるお母さんが、「子ども大学まで卒業させる義務親にあるか?それより今何かしてあげられることにお金使う方が良い」とか言う人見るんだけど、個人的には別に義務ではない?と思うけど、自分が産んだ子が、希望しているならいかせてあげられるくらいの財力を貯蓄しておく、というのは一定程度親の責務、だとは思うんだよね。もちろん努力したけれど結果的に経済的な理由で行かせてあげられないってことは起こりうるとしても。それを責めているわけではなくてね。ただ大学まで行った人なら、高卒と大卒がどれくらい経済環境や人間環境かわるかわかるし、別に絶対大卒じゃないといい人間関係に恵まれないとかそういうことじゃないんだけど、なんていえばいいのかな、やっぱりね違うんだよね多分。)

そして、もちろん子どもがいることによる不自由ってのはわたしの想像以上にあると思う、


でも、

子どもを産む選択をしたのはやはり自分たちではあるわけだから、

子どもがいることによる幸せと
子どもがいることで抱える不自由と
子どもがいることで得られたいないときは知らなかった自由
とかそういうものは抱えてきちんと受け止めていくべきことじゃないのかなと思うし、


そういう意味で

子育てに限らず、
就職にしても進学にしても何にしても

不自由=いけないもの

と安直になるのはどうなのかなと思う時がある。


不自由はいいものだ、とは言わない、

でも、不自由は、すべて排除しなければならないというのも違うかなとも思うし、


不自由の中にも、ない方が幸せではあるけど

消せないから抱えて生きていかなければいけない不自由を生まれつき持つ人もいるんですよね。


わたしも、生まれつき左上下肢麻痺あるし、

小さい頃から目立っていて大人になって自覚してまだお金がなくて診断つけるために通えてないけど自己認識とカウンセラー、精神科医の見立てではほぼ確ADHDだし
てんかんも持ってるし
親は全然気づかないけど数年前から波はあるけど軽度躁鬱だし
1年前に適応障害にもなってるし。


生き苦しいよ正直。

でも、抱えて生きていかなきゃいけない部分、受け入れてなんとか生きていかなきゃいけないところもあるし、


これらの障害や病気はわたしが望んでたものではないよ、でも、わたしが引き受けなきゃいけないことなんだよね。


で、それは、部活を選んだら自分の自由時間がなくなる高校時代やAという番組を見る代わりにほかを見られないこと、

S大学を選んだら他の大学に行ってたらこうだったかななんていう思考さえ無駄というのと同様に


もう、どちらかしか選べないし
選べなかった方は、こうだったかも、とか言っても無駄だし
選ぶ時に努力がかなったりラッキーだったりして希望が叶うこともあれば叶わないこともあるけど、希望が叶わなかったとして別の道に行くことになっても、


結局、それをずっと悔いながら生きるのも一つの生き方、
諦めてその進んだ道でできることを探すのも一つの生き方
進んだ道でまた何かやりなおそうとするのも一つの生き方とかでしょう。


テレビ番組、今どれを観るか一つにしても


日曜日の午後8時の今日、今何するか、だけにしても


幼少期は自分の選択で選んでこられなかったことだとしても大人になったらそういう、「自分ではどうにもできなかった何か」すら引き受けて生きていかなければならない。

それを本人が、まず自覚した上で、

何かを選んだら何かは捨てている

何かを選んだとき、他の道を進んでいたらこうだったかもなんて想像にしか過ぎなくて結局存在しない、

そして自分の希望通りにしろそうでないにしろ、選べたにしろ選べなかったにしろ、自分の人生は自分でどこかで責任を引き受けなければならなくなる、

ってことを理解していくのが大人、なんだと思う。


まあ、そうはいっても、天災や事故で突然大切な人を失ったそれのときのことを
「あなたがあの時ああしていればなんて考えても無駄だ」というほど人の気持ちが想像できない人ではないと思うので、わたしは3.11にしても先日の能登半島の地震にしても、それからいたましい事故や事件の被害者でも

大切な方を亡くされた多くの方々に、

それはそうとして受け取っていきるべきだ

とかは思わなくて

そりゃ突然大切な家族を失ってる人に

他人が「でも進まなきゃダメだよ」とか言っていいことなんてないと思うんだよね。

そういう時に、大切な人を亡くして生きる希望もなくて後追いしようと決断した人がいたとして、わたしは、目の前のその人に生きてほしい、とは思うけれど「死んじゃだめだ、」とは言えないし、「あなたが悲嘆に暮れていたら娘さんが悲しむよ」みたいなことも言えない。だって娘さんの気持ちも当人の気持ちも、他人のわたしには想像はできても"わかるよ"なんて言えないし。


 それも含めて

24時間、365日、どこかまでの命の期限

というなかで、今は悲嘆にくれていたいのだ、
と選ぶのもその人の選択だと思うし、


復興してきて、次の生活になってきたから、これからのことを考えようってなるのもまたその人の選択。



 長くなったけれどさ

 貯蓄やお金の話をするときに、よく「そのカフェ1杯我慢したら」みたいに言われるそれも、

 Aさんにとっては無意識の不要なカフェ時間なら無駄かもしれないけれど

 Bさんにとってはそのコーヒー1杯でのカフェでのちょっとした時間が、オフになって休める時間、だとしたら必要かもしれないし、

 あなたがインスタとかにYouTubeとか見てますよね、その時間を勉強に充てたら、という人結構いるけれど、それがその勉強しようとしているCさんにとって特に本当にストレス解消でも趣味でもなくてむしろSNS見たら幸せ減るのに見ちゃってるとかならまだしも、YouTubeやテレビ観てる時間がわたしにとっての癒しなんです、という人に無闇にそれを削れとは一概にはやはり言えないし


 一方で最初に述べたように24時間365日
誰でも多かれ少なかれ寝る時間が必要となると、仮にそのCさんが、半年後にTOEIC900取りたいんです、今は700くらいなんです、と言っていて、でも、勉強する時間は作れません、アニメもテレビもYouTubeも観たいし、とかなってきたらそれは何が優先なの?ってなるわけでしょう。


 何度もいうけれど結局、当人にとって、何が今優先なのか、何が今の自分の幸せなのかが(これは未来の自分が幸せでいるためには今こうしておいたほうがいい、という考えであったとしてもそういう思考の人ならば、未来の幸せのために今これをしておくのが自身にとって幸せ、となるので)最も重要なのであって


時間の振り分け、がつまりは選択肢なだけであるとも思う。(実際のところ、すべての選択肢は時間の選択、時間の振り分け、何をするのにその時間を使うのか、何をするためにどのくらいの時間を使うことを選ぶのかに言い換えられる)


そしてそれは、考えてみれば至極当然なことなので、今さら何をという方がほとんどであるとは思うけど、


でも、わたしを含め、やはりなかなか行動に移せずに


子どもがいることによる幸せと同時に子どもがいる不自由を受け入れていない人や

Aという選択をした時他の選択肢は捨てているということを考えられなかったり、


自分自身にとっての無駄が他人にとって必ずしもそうではない、ということがわかっていなくて押し付けていたり


1時間しかない限られた時間にAもBもCまで選ぼうとしていたり


結局行動に移せているという意味で理解できているところまで落とし込めている人は、案外少ないような気がしている。


 それから、人は、世の中は全然平等ではないってことをわかっていない人も多いし、


 身体障害の有無とか、持病の有無とかもだし、男女格差や、家庭の状況と教育環境格差の違いとかね。


 もっと言わせてもらうなら、わたしから見ていると、どうして、

この人にここまで言ってはいけないとか
この人にはこういう言い方をしないといけないとかがわからないんだろうって思う人がほとんど。

本当に。


まとまらなくなったけど、そういうことを考えていた。
(どういうこと!?)

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