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いい大学出てるじゃんってなんだろう?



何か将来的な話や過去の大学受験などの話を友人に共有して
ほんとそうだよねええ、なんて共感を得た時、その後に、
 「でもあなたはいいじゃん、いい大学出てるし」と言われる時がある。

 その度に、モヤっとした気持ちが残る。


 別に、私は母校の大学を嫌いではないしむしろ好きで、あの母校の大学に入学していなかったら10年間女子校世界にいただろうし、母校の大学でなければ今ほど男性友人もいないし、母校の大学でなければ教職課程を履修しなかっただろうし、大学院にも進学しなかっただろうし、母校の大学は小規模の四大ながら伝統があり、学生たちも真面目な人が多いし、1年生からゼミもあったし、あの大学で教職や英語教育の道に出会ったし、今の親愛なる友人もそこで出会ったし、だから、私は今の大学に進学したことに悔いはない。

 そして、別の大学を見てあの大学に入っていたら、なんてタラレバを考えることも無い。


 でも、「いい大学出てるし」とか
言われるとモヤッとする。


確かに私の出身大学はもとは良家の子女が通っていたような大学だし、大学組織がお粗末なこともなかった。至って普通の四大。あえていうなら規模が小さく、マンモス校や早慶のような、または明治大学のような、(とは言ってもこれはかなりの偏見だが)
THE大学生みたいな輩がウロウロしている大学ではなくて、
あと、大学院組織としては研究に十分な大学院生施設がなかったかな。

ほとんどの学生が、世間的にみれば
真面目で温厚でおしとやかな感じだったと思う。
 そしてその大学の中でも、私は
全くTHE大学生のイメージの対極にいたと思う。


 サークルにも部活にも入らなかった。学内活動をいくつかやってて、大学の授業を履修し、アルバイトをしまくって、就活を大学1年次から考えて、大学院進学を大学2年から考えて、教職課程を履修し、スケジューリングが苦手な私が、
レポートや課題は遅れずに提出した。
 過労状態と学内ストーカーや電車内痴漢が多発した時期には、授業をいくつかさぼったり、履中(履修中止)期間を越えてしまったけど行かなくなってそのまま落単(単位を落とす)こともあったけれど、学部生の時は全部で154単位とったし、院生の時も2年間で40単位ほどとった。

卒論も106ページかいたし、
真剣に就活していたから内定もいくつかもらったし、その後大学院進学したし、大学院修士課程も終えて、専修免許のための単位も取ったから、修士号と英語科中高専修免許ももっている。


 それでも私は、自分のことを頭が良くない部類だと認識しているし、不器用だと認識しているし、実際、兄や弟、父に比べると本当にどうしようもないくらい頭も悪く、不器用だ。


 親にも、できないことばかり指摘されてきた気がする。


 ずっと自分は落ちこぼれだと認識して幼稚園から大学院修了までを過してきた。しかしここ1~2年だろうか。
転職活動の話やなにかの話になる度に、やたら友人や知人に
「いいじゃん、あなたはいい大学出てるし、大学院卒だし、」と言われる。


 その度に、モヤモヤとした気持ちと
「いい大学って、なんだろうな」と思う。


 いい大学を出ていれば頭がいいのか?
いい大学というのはなにをもっていうのか、
 と渦巻く。


「あなたはいい大学行ったじゃん」

「あなたは大学院卒じゃん」



 同じ大学の出身でも、
すごく頭が良いと思うAさんもいれば、
え、この人ほんとにAさんと同じ大学出身?これで私より偏差値高い大学出身?って思うBさんもいて、

 例えばそのBさんは、自分ではなんだかんだ謙遜してるつもりっぽいけれど傍から見たら、その有名大学に進んだ実力を持つ自分、というものにすごくプライドを持っている人もいる。


 偏差値関係なく、すごく知識豊富な人だなぁと思うこともあるし、この人すごく知識は豊富なのになんでこんな、倫理的なところが欠落しているんだろうと思う元カレもいた。


同じ大学の人にも、「この人本当に頭がすごくいいなぁ」と思う同級生もいるし、私が何を話しても自分の知らないことや分からないことは誤魔化して、「何言っちゃってんのー」と笑って自分が話を分かっていないだけなのに私が変なことを言ったみたいに責任を押し付けてくる人もいた。


 たまたま知り合ってずっと一緒に
お話していたらある日突然
「私は高卒だから。」なんて言われて驚くこともある。その高卒の方Dさんは、さっきはなしたBさんよりよほど仕事が出来る、そして包容力をお持ち、って感じの人。


 頭の良さの測り方が違えば
結果は異なる。人間的な魅力は、
大学入学時の偏差値によっては決まらない。だから、
「何を持って頭いいというのだろう」と思うし
「いい大学出てるじゃん」と言われる度にモヤモヤする。


それに、いい大学っていう指標も
よく分からない。

私は出身大学が好きだけれど、
別にいい大学とも悪い大学とも思わない。また、頭がいい悪いという意味に立っても、偏差値的には至って真ん中より少し上の60台くらいだと思う。私が入学した時より偏差値下がったし。


 たまに、高校時代の友人と、過去の話になったときに、

 「いやでも、まあ、今の大学第7志望だったしさ、私、大学受験の勉強1ヶ月したかしてないか、くらいちゃんとしなかったし、なんかそういう後悔はあるけど、戻りたいなどとは思わないし、あの大学で良かったと思うのよね」なんて私がいうと、

 「第7志望だったとかいうけど、あなたいい大学でてるじゃん、私なんて」と言われたりもする。仲がいいからこそ、別に私は自慢でも謙遜でもなく素直な感情を吐露したつもりが、
友人にとっては不服に感じるわけだ。


 確かに私も弟が国立の2次でおちて、
私の第1志望~第4志望郡の大学に学部は違えどいくつも合格して、しかも第2志望群以外の学校はすべてセンターで合格していた時、その合格分けて欲しいと思ったりもした。
弟がセンターで合格した大学のいくつかは学部が違うが私が行きたいと思っていた大学だし、弟が最後に蹴った第二志望群も私学の双璧でいくつも合格していたし。


でも弟は、今の出身校である
私学の双璧の大学に関しても
誇りにも思っていないし、
嫌いではなさそうだけど
思い入れも好きもなさそうだ。


それに、私の弟と同じ大学同じ学部の知人が複数人いるけれど、


えー、この人本当に同じ大学同じ学部に行ってたの?というくらい弟と比べて頭の回転や知識量、対人的魅力において酷い人もいるなと勝手ながら思う時もある。


そういう類の人に、就活のグループディスカッションの時に「頭いいですね」なんて言われて「どうも、」とだけ返すと「何大学ですか?」なんて聞かれ、答えると「え!そうなんですか、僕は慶應義塾大学法学部です」とか聞いてもいないのに伝えてくる人もいた。
(統計取ってないけど、これ聞いてくる人ほとんど慶法か早稲田政経で、とくに早稲田政経の人の言い方は鼻につく人多かったな。)


慶應義塾大学法学部の頭の良い方なら
もう少しまともな議論を繰り広げてくれと思う人だっていた。


まあ、おおよその早慶の人、特に(私の個人的な感覚として)慶應義塾大学出身者は自分がKO生だということにすごく誇りとプライドを持っているのがわかるから、そういうふうに言われたところで何も返さないようにしているのだが。


KOの方ばかり例にとってしまって申し訳ないが、別に貴学に限らない。


 弟は第一志望の国立大学を二次試験で落ちて私学に進んだのだけれど弟と同じ大学学部だという人と就活で会った時、さぞかし頭良いのだと思って話していたのに、グループディスカッション中にその人がまとめようとするわりに言葉を知らなくて、私や別の人が何か発言するたびにその言葉は何ですか?どういう意味ですか?なんて聞かれたり、まとめてくれようとするわりに、人の意見の要点を得てなかったり、なんだかなぁと思うことも1〜2回ではなかった。

 また意見をまとめてる風で、実は他人の意見を無視して自分の意見をグループの結論として提示する人もいた。


今の職場で子どもの学習を見ている時、塾に勤務している時、
「先生は頭いいから私と違うもん」と児童に言われる度に悲しい気持ちになった。


 今、授業をしていてそんなふうに思わせるような言動をしてしまったのだろうかと。


 私の兄弟は3人とも大学を出ていて、
偏差値、だけで計られたときには、
きっと弟が1番"頭が良い"のかもしれない。


でも、三人兄弟で昔から地頭がいちばん良かったのは兄だったと思う。今もそうだと思っている。兄も、歴史ある大学の出身となったので世間的に見ればいい大学の出身と言われるだろうけれど、抑え校に進学した。

 でも、大学名だけをみるのはやはり違う。


 だって中学校の話になるけど
 兄は中学受験の時も10ヶ月しか塾に通わなかったけど、中学受験でも進学した中高は偏差値だけで言っても60くらいあったし、そうでなくても今も、名門校だといわれる学校だった。兄は中高時代には一切塾に行かず、高3になっても冬期講習などにもいかずに自分の勉強だけで今の出身大学に入学した。


私は中学受験のために3年間塾に通わせてもらい、中高時代は高1の時に1年間英語塾に、それから高3の冬期講習にたくさん行かせてもらって受験した。

弟は小学5年から2年間塾に通って中学受験をして、高校2年から3つほど塾に通った。


 与えられている環境が3人それぞれ違うのだから、やはりただ大学だけで比べられるものでは無い。



 私は大学院卒だけど、学部卒の友人たちに、私よりよほど勉強熱心、研究熱心で学業が好きで聡い友人たちはいた。


さて、「いい大学出てるじゃん」
「あなたは大学院卒じゃん」と
言われた時のモヤモヤは、
こうしたことを踏まえた時に出てくる。


 頭がいいって、今どういう文脈でどういう意味合いでこの人は言ったのだろう、と。


 もしくは「いい大学出てるのにさ」
に関しても。


 いい大学、を出ていたって、人間としての何かが欠落しているような人は山ほどいるだろうし、いい大学を出ていたって、頭の悪い私よりさらに頭を回せないのだろうか、と思うような人だっていないわけじゃない。


そんな物言いをしたら相手が嫌がるのわからないのかな?分かっててやってるの?なんで?みたいな発言ばかりする人もいた。


 私自身のことだってそう。
いい大学出てるし、と言われることがたまに、極たまにあるけれど、
大学院卒と言うだけで頭いい認定されるのは、何だかと思いつつ仕方ないと分かっていても、
そんな人間がこんなに頭を回せないのだろうか、こんなに知識がなく英語力も無いものだろうかと思う。


 今の仕事をしていて、
「仕事がよくできる」
「頭がいいから色んなことを考えてしまうのでしょうからあまり考え込まないでね」などと言われる。


嬉しいしありがたい反面、
自分は頭が良くないと思ってこれまで27年間生きていた私はちょっと面食らう。



♡の部分には私の名前が入っていた。


 こんなに褒められることがないから
慣れない。何だか照れてしまう。



 小さい頃から、
「バカ」「何にもできない」
「みんなはできるのに」
「アホ」「普通は」と親に言われてきて(毒親ではないと思います)
不器用であまり頭もよくなくて
とにかく要領と物覚えの悪い私は
何をするにも習得に時間がかかった。

昔も書いたが夜ご飯を食べ切るのには
何時間もかかったし30分かけても
食パン半枚も食べられなかったし、
算数の授業にいけばおはじきが何なのか理解できないまま授業が進んで周りの子がおはじきを使って何してるのかよくわからないまま進級したし、
幼稚園の時も、みんなが外遊びに行ってもお絵描きの時間の作品が終わらなかったり、みんながもう着替えて体操を終えていても体操がおわらなかったり、
中学受験塾に通えば、算数ができなさすぎて毎日夜中2時とか3時までうとうとしながら、半分寝ながらやって、
全然わからないから母に教えてもらいながらやっていたし、

中学生になっても、文字式が終わる頃にやっと正負の数の概念を理解したり、文字式を理解した頃には方程式が終わろうとしていたり。


 どの科目も苦手で、調理実習や
泊行事のはんごうすいさんだって、
小学校の時から、周りの子が何してるのか理解できないまま突っ立ってて気づいたら終わってたり、

 理科の実験もグループでやってて、
何をしているのか分からないから周りの子達がどんどん進めているのをみて、グループの子が用意してくれているのを見ながら、何すればいい?と聞いて、言われたことをやりながらも、頭の中では、「で、これなんでやるんだろう?何に使うんだろう?」とか。

 とにかくとにかく理解が遅くて
周りと同じペースで理解できなかった。


 理科の実験のレポートの提出段階になって友人に教えてもらいながら書いていて、やっと、

ああ!あれ、そういう実験だったの!と知ったり、

家庭科などでも、みんなが作品を作り終える頃に、やっと

ぁあ!これそうやって作るのね!と理解し始めてでも、作品完成まで残り5分ですと先生からアナウンスされたり。


もうとにかく、理解するまでに時間がかかるし、理解しないと動けないから何してるのか分からなくて何もできないという経験を繰り返した。


家庭科も、授業内で作り終えた作品は小中高合わせてひとつもないし、
中学生までの作品は、結局作り切らずに中途半端に終えていたし、それだって母に手伝ってもらったりした。


自分ができない人間だという自覚があったから、宿題を終わらせてからしか遊ばないという小学1年生の時からの習慣と、夏休みの宿題はできる限り7月に終わらせて自由研究とかなんか小難しいものだけを8月にやる、といった生活ができていたのは、小さい頃から私自身が、「落ちこぼれ」の認識が強くあったからだと思う。


 高1の合唱コンクールの
クラスの自由曲「ぼくの応援歌」では
一生懸命やってる風のわりに何もできない私の名前に替え歌をして仲の良い友人に「よねの応援歌」とか言われた。(当時よねというあだ名がついていた。)



 高校の情報の授業までにはパソコンを結局、何一つ習得できなくて、大学に入ったときに履修した情報基礎の授業の初回の時に、指導する先生にパソコンができないことがバレて、
わたし専属みたいに隣にずっといてくれるTAがあてがわれたし、私もその初回の授業終わりに先生に自ら、パソコンが全く分からないので、電源をつけるところから教えてほしいですと白状しにいった。


情報基礎の授業のおかげで私はレポートやレジュメや卒論を書けたし、まあ、それでも卒論と修論などに関しては、設定などが分からなくて友人がやってくれたし、「お前本当になんもできないのな」と笑いながらやってくれたけど、でも、なんとかパソコンの電源をつける以外何も分からない状態ではなくなっていた。


大学に入っても、大学生活に慣れるのにとても時間がかかって、慣れた頃には大学1年の終わりで、結局、部活もサークルも入りそびれて、学内活動に複数所属するのみだった。


 大学時代は、友人と学内カウンセラーさんに助けられて生き延びて、
院生の時は完全に友人と先輩方に手取り足取りやってもらって生きた。


 大学・大学院生時代にやったアルバイトでも、

 初めてのアルバイトのデニーズは、
バッシング(机拭きとお水だし)に慣れるのが精一杯ですぐに辞めたし
(まあそれ以外にも理由があるけど)

 次にやったパン屋さんのアルバイトは
パンの名前と材料と味と値段と袋の入れ方、パンの置き方、などなど覚えることが多くて私なりに週に3日連続でほぼフルタイムで入って頑張っていたけど、働き始めて早々に祖父母が連続で亡くなってお休みをもらったりした結果、クビになった。

 塾講の時も、いろんなことをやるのはパニックを起こしていたし、パソコンを使えなくて小テストを作れなくて同僚がつくってくれたり、大学2年の途中まで、パソコンを持っていなくて
週3〜6で塾にきているのに(まあ今も持っていないけど)大学のレポートや課題をすべて大学の空きコマに終わらせて、そこで終わらせるために、あらかじめ全て調べて家や電車で手書きですべてレポート下書きをして、空きコマ中に一気にレポートを打って完成させる、とか、iPhoneのメモに全部打って、電車の中で、自分の大学メールアドレスにコピペで貼って送信して、大学に着いたらそれをコピーしてワードに貼り付けてから体裁を整える、など工夫をしてなんとかやっていた。
 それを履修全44コマという生活をしていたなかで、塾講業務が忙しくなった私をみかねて、友人たちがパソコンごと貸してくれた(あれがなかったら大学2年以降レポートも課題も出せなかったし卒論も修論も書けなかったので本当に感謝している)。


 おかげで少しはパソコンに慣れたと思う。


 そんな私は断り下手すぎて社畜した。大学生の時も院生の時も大学院を修了してからも、アルバイトが断れなくて社畜したり、断りたいのに断れなくて予定詰めになったり、無駄に人の相談ばかり乗ったり。


 本当に不器用すぎた。仕事もずっとできない部類の人間だった。何をやるのも一生懸命やってきたつもりだし、だから周りの人が助けてくれたのだろうけど、とにかく不器用で時間がかかった。


 そんな私が今の仕事をしてからは、
「仕事早いですね」
「頭の回転が速い」
「よく気がついて色々やってくれる」
「同時並行でよくそんなに色々できますね」

と言われるようになって私自身困惑している。


 もちろん、周りの人が助けてくださっている部分が多いだけなのだけれど、そうやって褒められると、嬉しいのと同時に、困惑するし、


 頭の回転が速いとか、
 頭いいだとか言われると
なんで??となる。


 さらに、その言葉が、
「先生は頭いいからできるかもしれないけど私には無理だもん」みたいな言い方で子供たちに言われると、そんなふうに思わせてしまった何かをしたのだろうかと反省する。


 彼らは、私がとんでもなく何もできないことを知らない。気づいていないだけで、私が小学生の時、彼らと同じ歳だった時の私と比べたら天と地ほど違うくらい、彼らの方が何でもできる。私は落ちこぼれてきた。ずっと。


 そして、それよりもっと、
「頭いい」という言葉よりもっと、
モヤモヤしてしまうのが、


「あなたはいい大学出てるじゃん」
という言葉。


 それを聞くたびに、
「いい大学ってなんだろう」と思うし
「いい大学を出ていればいい人なのだろうか」と疑問に思う。


 母や父方の祖母が兄の友人や知人の方の話をするときに

「○○くんは東大で」とか


 「慶應医学部で*☆(超有名グローバル外資企業)でアメリカで働いてるお兄ちゃんの友達が」と



その人を説明するときに、
その肩書きとなる大学名や会社名をつける。


肩書きは文字通り、その人の紹介になるものではあるけれど、そういう言われ方をするときというのは大抵その言葉の裏に、我が家の子供たちとは違ってと言ったニュアンスを勝手に感じとってしまったり、羨ましいわという言葉を感じ取れてすごく疲れるし、何で今肩書きなんて言う必要ないのにその人のことを大学名や会社名をつけるんだろうと思ってしまう。
 肩書きでしか人を紹介できない人っているんだよね。




 そしてそこにはやはり、両親の世代以上の方々の多くに見られる、「いい大学、いい会社」という価値観があり、その「いい大学に行っていい会社に入ることがひとつのゴール」という価値観が大衆の価値観としてメジャーを占めてきたのだろうというのを感じる。


 お父さんたちの時代は、と前置きをする父はまだマシで、



 自分たちの価値観や自分の生きてきた価値観のことだけを
「当たり前のことじゃん」
「そんなの普通じゃん」と
その言葉を発することに何の違和感もなく臆面もなく発することができてしまう母は、(今更変えるのは難しいので仕方ないと受け入れるしかないけれど)例えるなら

 産業資本主義以降のブルジョワ的価値観が形成されそれが当たり前として広まり、それが価値観だとして当たり前に享受してしまいすぎて、自分の発している言葉や用いているワード、考え方の枠組みに疑問を持たないというズレ、


 そう記号論でいうところの、

構造主義の思考方法があまりに深く私たちの考え方や感じ方の中に浸透してしまいすぎて、あらためて構造主義の書物を読んだりその思想について勉強せずともその発想そのものが我々にとって自明になってしまった「ポスト構造主義」と同じような感覚、


ポスト資本主義社会

の思考そのものになっているのかもしれない。


 でも、私たちは常に何らかのイデオロギーを「常識」だと思ってそのイデオロギーが支配する「偏見の時代」にいきていて、さらにいえば、そのように考えるこの思考法すら構造主義的であるというループにハマっているわけだ。(内田樹『寝ながら学べる構造主義』を参照してください)
 だからおそらく、私は私でやはり母と同じようになっているのだろう。



 さて、いい大学を出たとか、
いい会社に勤めているというのは、
この大学に入った瞬間又は会社に入社した時点での我々が、何かしらの行動によって生み出した「生産物」の結果であり、私たちはその「成果物」によって我々が何者であるかという価値を規定し返されている、というのはマルクスやウェーバー、また構造主義の考え方では自明のことだが、


 それでもやはり、「いい大学出てるじゃん」の言葉に違和感を、喉の詰まりを感じてしまう。決して私にとって心地よくない言葉である。そして、その理由こそがまた、私自身
「別にいい大学だけど、優秀というあれじゃない」だとか
「頭いいってどういう価値観で言ってる?だって私はずっと落ちこぼれだったし、ほら、おはじきから勉強つまずいていたし」などと、

その私の価値観や言動すらも結局のところ産業資本主義の中で生まれてきたそうしたイデオロギーによるものだと自分で規定し返してしまっている。
これは非常に居心地が悪い。


 偏差値的に難関な学校に進学することを否定しているわけじゃない。
 例えば一般大学入試を経て合格した、それは彼が彼女が、その倍率が高く多くの人が受ける受験においてきちんと学力を持っていてそれも実力を出し切れるだけの実力がある証だと思う。

 偏差値や学歴は、その人がどれだけ努力をしたかの指標だし、その
“階層”にいるのならある程度の頭はあるということになる。でもそれが全てではない。

 例えば、いわゆる大手の会社でそれなりに活躍していくためには、様々な知識や経験を持って努力をしていかなければ得られないものだと思う。


 一方でそうしたことの前提には環境的に恵まれている背景もあるわけだし、偏差値の高い大学に行っている人が、知識はあったとしても人として、様々な人と関わって生きて行く上での能力全体に傾げているかと言われたらそうでないこともあると思うし、大学進学や高校進学だって家庭の経済状況や環境、周りの人達の環境でそもそも前提としている価値観が変わってしまうだろう。

偏差値と大学名についても、
大学や、大学院は特に、
基本的にやりたいことができる大学を探して行ったり、研究したいことを研究している先生を探してその環境を選ぶわけだから、「偏差値」というたった一つの指標だけをとってしかも、それだけでその人が優秀かどうかを判断しようとするような発言に違和感しか感じない。
(そもそも、大学院組織には、
偏差値という概念はないのだけれど、学部の偏差値が高い大学の大学院へ進学すれば、やはりそれだけで外の人からは頭がいいとみなされるのだと思う。)

 頭が良い悪いという話をするとき、
そこには何らかの物差しがあって

 例えばその時、
「あなたは頭いいから」
「あなたは頭の回転が速いから」
などということを言われた時の、
その違和感と居心地の悪さは、
払拭できるものではないし、


 まして私が、実際すごく仕事ができるだとか、記憶力が良いだとか、要領が良いとか、知識豊富だとか、そういう試験やIQや仕事の成果としての指標できちんと何かしらの指標で測った時の客観的、相対的な頭の良さの数値が出ていればまだ理解できたとして、


実際のところ私は仕事ができない部類で、社会でうまく生きていけない部類で、あまり社会のことや様々なことに関する知識も持ち合わせていないのに言われてしまう、この「あなたは私が見えていないだけですよ」と訂正したいけど、その訂正するのはまた少し失礼というか言い方によってはさらに相手に失礼を重ねてしまったり勘違いさせてしまったりする可能性を孕んでいるこの、言葉に対する返しが私にはまだわからない。


 話している中で自然に、特に理由もなくただ「頭の回転速いですね」なんて言われただけなら


たぶん私は
「今日は冴えていてですね」とか

「ありがとうございます」とか

「恐れ入ります」なんて返せると思う。


 けれど、相手が私の体調や状態を気遣ってくれた上での
「頭の回転はやいから、考えすぎないでね」という慰みというか、気遣いに対しての上手な返しは難しいなと感じた。また、嫌味を含んでの言い方の時も返しが難しい。


それと同時に、「考えるの遅いなぁ」とか「飲み込みが悪いなぁ」とか
「頭悪いなぁ」と言われたりしたことはあっても「頭の回転が速い人」という評価をされたことなど四半世紀生きていてこれまで一度もない気がするから、突然そんな褒められ方をして面食らった。


 そして、そのことを考えた時ふと、
やっぱり、“あなたはいい大学出てるじゃん”というときの、あの言葉の裏に秘められた、親や周囲の人や、はたまた無意識的に私たちに植え付けられている「いい大学」の価値観ってなんなのだろうな、と思う。

その世間でいう「いい大学」とやらを卒業したけど、私はこの人とずっと付き合っていきたいとはもう思わないなという知人を頭に浮かべて、

私は思わず考え込んでしまった。

#ウェーバー

#資本主義社会

#学歴

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