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「あの頃は良かった」という、大人にだけはなりたくない。


人は2種類にわけられる。

この歳になると思う。

未来を見て生きる人と
過去を見て生きる人。

この2つ。


成人の日を迎え、今年も多くの人が
「成人」となった。
(おめでとうございます)

私は、数年前
19歳から20歳になった直後、
お酒を飲めるようになったことを
除けば、案外他は
たいして変わりないかなと
思っていた。
(トップ画像は、はずかしながら、
わたしの成人式の前撮り写真。) 


あれから毎年、
成人式の日が来るたびに
自分の成人式のことや、
大学2年生だった自分を思い出す。

けれど、それもだんだんと
不鮮明になってきた。
それだけ時間が経ち、それだけ
過去のことになってしまったのだろう。
それでもこの感覚は覚えてる。 

19歳と20歳は、大きく違った。

それは19歳の時に予期していた通り、
大きく違った。
お酒を飲めるようになった。

お酒を飲み始めたら、 

グイッと飲むビールの美味しさも
ゆっくり飲む芋焼酎のロックの
身体中に染み渡る感じも
日本酒をこっくり味わう楽しさも
お酒を飲みながらする話も知った。


(画像閲覧:2020/1/14 写真URL貼)


20歳以降、
お酒の失敗も多少は経験したし、
おかげで、テキーラ系は
悪酔いするから飲まない、
体調悪い日は特に、
強いお酒はだめ、
と、飲み始めて数年してやっと
自覚しはじめた。


20歳になる頃のわたし

私が20歳だった頃は、
大学2年生で、大学生活も
とても忙しかった。
(週5で11〜15コマは
授業があった気がする)

それに、
当時やっていた塾のアルバイトでも
たくさん生徒を担当していて、
多い時は、週6〜7で塾にいたし、
家は弟が反抗期で、受験生で
少し荒れていたし、
2年の時に既にゼミ
(ゼミナール)があったけど、
課題の多いゼミで、そのほかにも
たんと課題の出る講義をとっていたし
親ともあまりうまくいかないし
大学やアルバイトで忙しくて
家にほとんどいなくて
おかげで部屋はすぐに書類や課題や
書籍で埋まってしまって、
でも、片付けられるだけの
心の余裕も物理的時間も
本当になかった。

(画像閲覧:2020/1/14 写真URL貼)

そういう、余裕のなさや、
高校を卒業して2年目になり
今までとは長い時間一緒にいる人が
変わったことで
友人関係も整理できず
ごちゃごちゃして

大学にいても、アルバイト先でも、
家にいても心安らぐ場所が
どこにもなかった。

しかも、そういうあれこれの
ストレスで過食気味が加速し、
大学入学からたった1年も経たずに
10kgくらい体重が増えていて

それが、20歳を迎えるときには、
親が振袖を買ってくれたのだけれど、
前撮りなんか人生で1番太っていた
時期に撮ったから、
今でも写真を開きたくないし、
成人式当日も歯は矯正を
しはじめたばかり。
しかも成人式の前撮りは
試験期間だった。
大変だった、というのが
今も残る思い出。

成人式の時期は、期末試験期間、
授業課題やそのレポート、
期末レポートもたくさんあったし、
アルバイトの塾講は生徒の入試前だし、
とてもじゃないけど、正直
「成人式!なんて言ってる場合じゃない」という気持ちだった。

たった1回きりなのに。
いや、よく考えれば、
どんなことだって、
どんな日だって、
たった1度きりしか過ごすことが
できないのに。


さて、冒頭にも書いたように
この歳になると、思う。

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人はおおよそ

2種類にわけられる。


未来を見ている人と

過去を見ている人。


私は大学1〜2年まではわりあい
前者だった。いや、
もっと正確にいうと

「今、生きている自分」を

最重要視していた。

そしてそれをきちんと行動にしていた。

 

実際、高校時代は、

「わたしは、受験生である前に、
1人の高校生だから、高校生だからできること、今この年齢で、高校生の私にしかできないこと、を最優先する」と、

部活動も高3の夏前の最後まで
続けたし、
高3の9月の文化祭の出し物も
参加した。
受験勉強を始めようか、と
考えたのは
10月末頃だった。
(「一人の受験生、である前に
一人の高校生だ」という考え方で、
大学には行きたくなったら行けるけど
十代で今この環境・学校・友人たちと
過ごせるのは一度きり今だけ、
という考え方。)


受験勉強は、もう少し前からちゃんと
できただろ!と振り返れば思ったりも
しなくはないが笑、

まぁでも、結局、
高校生だからできること、に注力した。
おかげでわたしは、高校生活に
一切悔いがない。

大枠で言えば、大学生活だって
同じようには過ごしてきたので
後悔することは数えるくらいしかない。


しかし

高校生までのその気概でいたそれが、
大学2年か3年頃から、

「今、生きている自分」の、
自分がやりたいことややるべきこと
より他人のことを優先するように
なってしまった。

それも、自覚のないまま、少しずつ。


大学4年の頃には
未来の自分のためにを考えて
今やるべきことや今やりたいことを
我慢する癖がついた。

それは、やりたいことだけでなく、
時に自分のやるべきことをなおざりに
することになった。

それでも、進路は最終的には、
「今やりたいこと」を
押し通したのだけれど。

それでも、まだ、
20歳ちょっとのわたしは、
未来を見ていた。


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 ちょうど19歳か、20歳頃から
ある人たちと、
ものすごく親密になった。

そしてわたしは少しずつ変わった。
正確にいうと、
何が大きく変わってしまったのか、
と気づいたのはごく最近なのだけれど。

その、大きく変わったことが、
結局は、

「未来を見て生きている人」なのか
「過去を見ている人」なのか

ということだった。

言葉にして、ぁあ、
わたしはこんなにも
大きく変わってしまったのだ、
とやっと気づくのに
6〜7年かかってしまった。

私はだんだんと、後者の人間に
なっていた。

 

未来を見ている人と

過去を見ている人


この2種類の人間は、
大きく違う。
今はわかる。
やっと少しずつわかるようになった。
体感としてわかるようになった。


そう、頭の中でわかる、
ではなくて、
全身を通って「感じる」ように
理解できるようになった。

過去を見ている人は、
いつも、満足していない。
“満足していない”が、
飽くことない探究だとか、
向上心につながる不満足なら
それは良い不満足だと思ったり
するけれど、

過去を見ている人の
不満足は、だいたいこの種ではない。

 「あの頃は良かったのに」 
「あの時、こうしておけば良かった」

にとどまらない。

 「もっと環境がこうだったら
違うのに」
 「いいよね、あなたは。
わたしなんかこんなにも
不幸な境遇で大変なの、苦労したの」

過去を嘆き、環境を嘆き、
それが続くと悲劇のヒロイン化する。

世の中で言う不幸自慢もこれなのかな。

(ちなみに経済的困難や
劣悪な家庭環境等、どうしようもない
ことは、社会課題だと思うのだけど
経済的に恵まれているかつ、
家庭環境等が劣悪でない
=DV等がない場合は、
感謝こそすれ、うちは大変なの、
私、大変苦労したの、というのは
違うと思う。)


この悲劇のヒロイン化現象、
実は結構強い感染力があって、
自分に、強固な、揺るがない、
感染を避ける予防接種をしておかないと
そして、うつらないよう
注意を払わないと

影響を受けやすい人、
心が弱っている時、
自信のない人、
自尊心が低い人、
失敗をした時、
すぐに移ってしまう。

かくいうわたしも、
少しずつ自分の無意識のうちに
近づいていた。
ここ数年、
過去ばかり見ている人になって、
あの時こうしておけば、
ばかり思うようになっていた。

そして、口からは
マイナスなことばかり出る。

そして、それを嫌悪する優しく、
強い友人たちは当時のわたしから
離れていった。
今はただただ、その友人達が
わたしのように巻き込まれていって
変わってしまうような柔な人たちでは
なかったことを本当に良かったと思う。

彼等の強さが結局、今、私が
変わらないとダメだ、と
きづくきっかけになったから。

過去を見ている人は、
過去の栄光にしがみつく。

また、今進めない自分を、
過去の失敗や躓きに直接結びつけて
これさえなければ、
あれさえなかったらという。


もちろん、実際ほんとに
そういうことはあるし、
一概にそのこと自体が悪という
わけではない。

たとえば、自然災害、病気、事故。
あれさえなければ、
大切な人やものを失わなかった。
あの日に心が置き去りのまま。

そういうことはあると思うし、
そういうマイナスなことに
浸る時間は時として必要だと思うし、
仮にそのような、
人間にはどうしようもない事象や
自分では防ぎようのなかった事故で
大切な誰かを失ったその穴を埋めろ
とは思わない。
嘆いても仕方ないじゃないか、だとか
時間が経てば立ち直れるとか、
そんなことは私は思えない。

でも、今生きている
自分自身のことだけは、
少し違う気がする。
自分自身の人間関係、仕事、
時間の使い方。


過去を見ている人は、

時間を永遠に引き延ばせる何かと

思っているのではないかと思う。


わたしは大変だったから
休む時間が必要なんだ、
今大変だから、このやるべきことを
伸ばして…とか。

それは、例えば仕事のやり方にも
通じている気がする。

ある仕事があって大変だったから
もうひとつの仕事はやらないで
おいたの

もっと良いものをつくるために、
期限を伸ばすことにしたの、とか。

でも、大抵そういう人は
いつになってもいいものなんて
作れない。

以前に、目標の立て方と目標達成
について書いた記事
にも書いたが、

期限を決めて、
そこまでに達成することが
目標の前提で、
それが仕事の仕方なのだろうと思う。
(学業においても。)


もうひとつ、過去を見ている人に
共通しているなぁと思うことが
あった。

これは、これからの私自身が、
そういう人たちから離れて、
自分の力で幸せを感じる人間で
あるために記しておくことにする。

過去を見ている人は満足しない、
にも通じるが、

過去を見ている人は、
自立していない。
そして
持つものが多い。
(物理的にではなく、
いや、物理的にもかもしれないが。)

さらに、病みやすい。そのうえ、
病むことを、致し方ないとしている。
 

もしくは、こんなに頑張っている自分、
を持ち上げ過ぎる傾向がある
気がする。

そんな気がする。
全員とは言わないが。

かくいう私が、冷静に振り返ると
だんだんこの「過去を見ている人」
に近づいてきていると自覚したので
きっとそうだと思う。気をつけよう。

過去の傷ついた事実から立ち直れない。
確かに傷ついた事実は消えないし、
仮にそれが加害者のあるものなら
もちろんその傷は自責ではないし、
傷ついた自分を否定する必要はない、
と思う。

けれど、それを過去のモノ、
にしていかなければ、
永遠に“傷ついた自分”がそこにいる。
それを“過去のモノ”にするのは、
他でもない本人、私しかいない。

昔何かに、
「怪我をして傷ついた傷を見せて
私はこんな傷を負ったというのが
子どもで、
この傷をこんなふうに治しました
というのが大人だ」

と、誰かがそんなこと書いていた
気がするけれど、なるほどと思う。

現代は複雑な仕事に、複雑な人間関係に、不安定な時世に、
情報過多、疲れやすいし、
皆、頑張っている。
頑張っているのは、事実だ。

もし、何も頑張っていないと
追い詰められている人がいたら、
頑張ってるんだ、とたまには
思って良いと思う。

しかし一方で、
“こんなに頑張っている自分”を
自分自身が持ち上げすぎて、
人と努力比べ、をする人
(特に、私はあなたより大変
と自分の苦労のみを主張する人)は、
やはり違うなと思う。


頑張っているかどうかの判断が
あるとしたらそれは、結局、
出来上がった成果物などによる
周囲の人の判断によるもの
だと思う。

昔から、努力や疲れや、大変さを
人と比べて、
“私はあなたより大変”と主張する人は、
何か違うと思っていたが、
多分それと似ている。

そういう、
比較できない何かを
比べる気概の人たちには
病むことを致し方ないとしていることが
多い気がする。

一方、未来を見ている人たちというのは
過去は過去に、置いてきている。

事実と感情を、
事象と気持ちを、
自己と他者を、
分けている。そんな感じ。

人には簡単に乗り越えさせない壁を、
自分が不幸にならないための予防線を
きちんとつくれる。

------

そして、また、
未来を見て生きる人たちは
過ぎたことに対しては、
後悔はしても、同じことを繰り返さない、引きずらない強さがある。

今、目の前のこととこれからのことを、
大切にしているから、
過去の人間関係にも縛られない。
人と比べない。比べても落ち込まない。


良い意味で自己中だから、
人のことを気にして自分を無視しない。

そういう強さがある。

私は、この、感情と事実を
分けるところでつまずいている。

自己中心的は、
悪い意味に用いられることが多いが
こと人生においては、
自己中心的でなければならない

自分の時間の使い方は、
自分で決めなければならない。
それをきちんと実行しようと
思えるまで26年かかったのが
私だ。

いや、気付いても、結局、
仕事上の付き合いが、
周りの人との関係性が、と
まだ実行に移せていないので、
まだ足りないのかもしれない。

自分を中心に据えて生きていると、
人と極度に比べることが減る。
人と比べないから、
不満足感も減る。
他者のことは他者の問題、
自分のこととは切り離せる。
他者にどう思われても、
何を言われても、
それで自分がズタズタになることも
少ない。

自分に必要な人間関係を築き、
感情と人間関係を切り離せる。
仕事などで必要な関係と
プライベートで自分が幸福になるための
関係性を分けられる。

それは決して、嫌いな人を遠ざける、
とか、嫌な人とは付き合わないとか
そういうのではないのだ。


何度だって立ち上がる

勇気をもつ。


自分が圧倒されないよう、
壁を壊さずにきちんといろんな人と
付き合いはする。
ただ、あくまで極度に
自分の仕事を増やしすぎることもなく、
抱えすぎることもなく、
自分の幸福感を、自分自身で
コントロールして人や物事と
距離を保てる

こういう人は、往々にして
時間が永遠でないことを
きちんと理解していて、
人の時間を奪うこともしないし、
自分が、自分のためにならない
他者のために倒れるほど
頑張り続けることもしない。

自分の幸せを保つ努力をしている。

失敗したとしても、
間違えたとしても、
思考法が異なる。

間違えたり、失敗したことを、
引きずり過ぎない。

何度だって
「今度から気をつけます」と、
“ヘラヘラする能力”がある。
それより、今後の改善策を、
今日この後のご飯のことを、
これからのことを考えられる。

そういう人だから、
“私こんなに頑張ってる、
こんなに大変だから仕方ない”
という言い訳をしない。

結局そういう人ほど、なんだかんだ
期限までに仕事ができる人、
きちんと仕事をやりきれる人
だったりするのではないだろうか。

いつまでも
「100%、できうる限り
良いものを出そう!」と口にしながら
そのどこにも、明確なゴールを定めず
出来上がるまで期限を伸ばす人より、

出来は60%だけれど、
すぐに出して周りの人に
なんやかんやいわれながら、
そうですか、じゃぁ気をつけます、
じゃぁなおします、と
やるべきことは期限までにやり切れたり
することが多い気がする。

少なくとも私のごく身近な人は、
そういう傾向がある気がする。

こうして見ていると、
本当にどれひとつとっても、
過去は良かった、あの頃は良かった
と過去に生きている人に
良いことはない。
そしてそういう人の近くにいるのも。

人間関係だって、
年を経れば、大人になるにつれ、
自分で剪定できる。

仕事に圧倒されて
振り回されないように、
他者に飲み込まれないように、
気持ちにいちいち左右されないように
動けなくなってしまわないように、
一回で完璧を目指すのではなく、
何度も失敗しても、
ちゃんと正しく失敗して、
すぐ立ち直れるように

何度だって「これから気をつけます」
という気持ちで確実に目の前のことを
進められるように、

なってゆかなければならない。

そういう余裕が必要だ。


はじめのほうに、
19歳から20歳は大きく違った。
それは予想していた通り違った、
と記したが

20歳と21歳はもっと違った。
21歳と22歳はさらに違った。
22歳と23歳はさらにもっと違った。
23歳と24歳は驚くほど違った。

24歳から25歳にもなると
身体が若さを失っていくのも
感じた。

それと同時に、23歳の自分すら
幼く見えた。このように毎年、
もっと違う1年を過ごして
次の誕生日を迎えている。

これからもきっと、毎年、
いや毎日
異なる自分と出会っていく。
出会っていける。
自分の手で。

そのためには、

自分の幸せを保つ努力が

欠かせない。

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#思いつき以上思考未満
#幸せを保つ努力
#あの頃はよかったという大人にはなりたくない

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