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7月の笹の葉と願いごと

7月7日は七夕であることは知識として知っているし、報道などでも一般的だと理解しています。
けれどわたしの田舎では8月7日だったのでやっぱり七夕は8月のイベントだというイメージが抜けません。

けれどみなさまが楽しそうに七夕に思いを馳せているのでわたしも便乗して七夕の思い出など語ってみたいと思います。

①給食の七夕ゼリー

全国にあると思っていた七夕ゼリー。
東京育ちの主人は知らなかったのであまりメジャーではないご様子。

地域や校区によって馴染みのない人もいるようですね。
当方九州南部ですが年に一度半解凍状態で配られるゼリーを楽しみにしていました。
しかし今思えば8月は夏休み。
いかに地域の七夕が旧暦で執り行われたとしても世間の常識を学ぶ場が学校。
おそらく7月7日に合わせて給食のメニューに上がっていたのでしょう。
幼少期の記憶などあてにならないものですね。

②笹の葉切り出し飾り付け

わたしの通った小学校は幼稚園と併設されています。
これはとてもよく覚えているのですが七夕の飾り付けは1学期の終わりから夏休みの初めにかけて行われていました。
これはプールに毎日通うことが想定されていたからだと考えられます。
そこらへんの山に笹を切り出しに行き自宅や学校の休み時間で作った飾りを渡り廊下に飾るのです。
手が空いていれば放課後に幼稚園の飾りを手伝いに行っていました。

ちなみに我が家も別途山から竹(笹ではなくでっかい竹)を切り出して庭に突き刺して飾っていました。
製作の過程を数日に渡り夏休みの絵日記のネタとして重宝しました。
その後用済みになった竹を庭で燃やすところまでが一連の流れです。
なんだか雑に楽しんでいましたが学年が上がるごとに家ではやらなくなりました。

③祖母孝行のための願い事

自宅から車で1時間ほど離れてすむ母方の祖母はわたしを溺愛していました。
弟も可愛いけれど女の子で近くにいるのがわたしだけなので相当猫可愛がりしていると近所でも有名でした。
そうすると期待に応えるべく振る舞うわたしは、七夕の時期に祖母の家で願い事を書かねばなりません。
祖母の家は住宅密集しているため小さな笹の枝をどこからか取ってきて二階の窓辺に挿していた記憶があります。
周囲の人間の心の動きに敏感だったわたしですが、自分の願いとかやりたいことにはだいぶ無頓着でぼんやり生きていました。
なので「将来の夢とか書くんだよ」と短冊を渡されるのは割と苦痛だったのです。
当たり障りなく「ばあちゃん長生きできますように」などと書くものだから余計に可愛くて仕方ない孫が出来上がるのです。
ちなみに弟は無邪気に野球選手とか書いていて羨ましく思っていました。

④本当の願いができる頃の七夕

さてそんなのどかな幼少期はある日突然終了します。
母が病に倒れ様々なイベントごとがキャンセルになったのが10歳になる夏でした。
お母さんが良くなりますようにと書くのがデフォルトなので学校などにはそれを書いていましたが本当は「お父さんの仕事がうまく行きますように」と書くべきだったのかもしれません。その後父の仕事が劇的になくなるからです。
自宅での七夕は自然となくなり、母方の祖母に短冊を見せればおいおいと泣き出す始末。
わたしはどんどん擦れた子供になっていきました。

何か願いがあるならしあわせ

そして月日は流れ現在。
わたしが願うことがあるかといえば家族の健康。あとお金か、あわよくば子供が欲しいとかそんな願いをぼんやり思い描きます。
結婚するまでのわたしは基本的に貧乏暇なしヤングケアラーの成れの果て状態だったのですが、その状態なら願い事あると思うでしょ?
ないんだなこれが。
もうどうでもいいんですよあれだけひどい状態だと。
よく、辛い時まずは相談とか専門家が無料でお手伝いという報道があったりします。
先日テレビのヤングケアラー特集を見ましたけど、正直十人十色千差万別ケースバイケースの貧困周りの問題を一発解決する方法なんてないです。
それは当人たちが一番よくわかっていて、テレビに出て「国になんとかしてほしい」と発言している人たちは割と平気な人だと思ってます。
それか演出。

手を差し伸べられても掴み方がわからないし、その先のメリットも理解できない信用できない。
これが貧困でありヤングケアラーの問題の根本なのです。

生半可な気持ちで助けると損するのは誰なのかよく考えましょう。

そうそう、七夕の思い出でした。話を戻しましょう。
今わたしはふんわりと願いをためらわず書くことができるでしょう。

旦那さんが健康でありますように
みんなで仲良くいられますように
健康で子供が生まれますように
食べ物に困りませんように

願いがあるのはしあわせな証拠。
あなたは七夕の日に何を願いますか?

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