結果のアラワレに惑わされる、ワレの氣後れを捉えよう🔎👤💫

📖導入
『結果は後から付いてくる』という謂れを
思い出し、考察した内容です。
※表題の言葉遊びに関しては、
――アラワれる結果に惑わされる情態を――
――「アラ!?」っと疑いワレに返る――
そんなまじない風に仕立てたくて、一部カタカナ表記にしてみました。
本文では至ってそうした言葉遊びを含まない論考です。表題から何かご期待をさせてしまったとすれば、面白味がないかもしれませんが、何卒ご認識願います🙏😌
📖要旨
【結果の表れ】に氣後れせず

常に選択・行動が先立つ【我】の存在を受け止めて
❝自立❞の確立といえる
のではないか、
という結論に帰着しました。
📝参考
着想の背景には、筆者と同世代で夢を実現した双子のご兄弟の対談が存在しますので、貼付しておきます。
📼フレデリック 「ケンジとコウジのソウセイジカン」#2
https://youtu.be/YLP3nTVjQh8&list=PLdkuu8lINVU5oVGLU46ysqeqDlabD5OiD&index=3&t=839s
⏱13:59~/目標としたグランプリを取得できず「終わった」と思ったにもかかわらず、予想外の展開と本人達の受け止め方が印象に残っています。

▼改めて、《結果は後から付いてくる》という謂れがある。
これは、決して氣休めの励ましでもなく、純然たる常理なのだろうと想いにふけるこの頃だ🙄💭

▽もし、〈結果〉という存在が眼前でなく背後に潜むとすれば、まるで目隠しされたような情感に浸り、いわば《先行きの不安》が生じうるのだろうか・・・と一体的に捉えると、合点がいくし、何かと見えてくるものがある😁🔭👤

〈結果〉の存在は一点で突き止めることはできない広がりだが、【結果の表れ】とそれを認識する【】との関係性を探ると、現在地を観測できるはずだ。

例えば、満足のゆかない〈結果〉と捉えて要因を探っているとき、行為者と結果とが伴わないもどかしさが募る情態といえる。
行為者の力不足と判断する場合もあれば、十分に力を尽くしたのに結果の方が「伴わない」と感じられる場合もあるだろう。
しかし、いずれにせよ、まだまだ(背後での)❝結果待ち❞の時間を過ごしていて、予測や予感に過ぎない可能性もあるのだ。
すると、〈結果〉が表れ始めるまで、もしかしたら結果に伴う反響が出尽くすまで延々と欠乏感が持続することは当然といえよう。
もどかしさは確かな感情ではあっても、〈結果〉の実感と見なすにはまだまだ幻同然の段階である。


◆あくまで、いざ表れた〈結果〉もまた、実績にこそ影響するが、それが実力の全容を評定したものであるかのように惑わされないようにしたいものだ。

――しかし、一通りの結果の表れを通じて、ようやく、そこに先立つ【我】の選択・行動が何だったか、行為者は自ら教えてもらっていると感じる。
決して何か大掛かりな選択・行動でなくとも、知らず知らずのうちに定着していた習慣も同じくだ。
その好循環・悪循環の最中にはなかなか捉えきれない。
行き着いた結果を以て、ようやく思い知る学びも多いのではないだろうか。
(☆特に、無意識のうちに徹底的に欠かさずにいた、自分の大切な素質。他者から指摘された覚えがなく自分の中に秘めているつもりでも、当たり前に表れているから言語化されなかった場合もある。)

自分の側が環境へと適応しようと努めていたつもりでも、むしろ環境の側から自分に反応していたような場面を思い出していく感覚だ。

◇たとえ、結果が目に見える前でも、少なくとも「このまま浸っていたいか?進んでいきたいか?」という問いかけが【我】の中で下されていることがある。
真剣さが伴うほど、その度合いを上回って問いかけに迫られる感覚がある。
実際に結果の表れに直面する前ではあるが、一つの試練のような内省的な時間だ。

いざ結果の表れを得る前に、進み方を誤っていないか検証することは自ら不安を高めるような辛い過程ではある。
しかし、それまでの進め方では、もしかしたら生半可な成果に終わってしまっていたかもしれないところを痛感する前に予感して修正し、更なる理想に近付く機運として与えられた待ち時間と捉えると、もどかしさも安堵に変わるし、何とも有難い限りだ。
(※進むことが善とは限らず、進み過ぎていたものを、一旦引っ込めて、適宜立ち戻った先が理想の地点かもしれないとも思う。)


▲もしも、一通りの結果の表れを確かめても、成果を実感できない時は、決して立ち止まって何も行動を起こしていないからではなく、もはや後から付いてくる結果の表れを認識できないほどに、随分と先行した臨場感に至っているのだろう

そのような先の先へ【我】が望む世界に対して、現在の【我】が立ち止まった感覚を、自ら暗い影のように落としているのだろうと思うと、少し微笑ましくも感じられた。
それは、文字通り〈現実的〉な在り様と言える。

△そして、結果の存在は客観的な参考にはできるが、結果を全体的に受け止めなくても、次なる選択・行動を起こす余地 を知っておきたい。

結果を氣にする良し/悪しは、必ずしも選択・行動を続ける/止める判断基準には一致しない

すると、(見出しで書いた通り)自立とは、【結果の表れ】に氣後れせず、常に先立つ【我】のことを表しているのかもしれない。
結果の中身を踏まえても、結果の所在に頼り切らないで進んでいく先駆者の姿を見習いながら、進めて/進んでしまっている自分/世界を引き続き堪能したいと思う。
その「結果」に対する独立精神と、「人々」に対する協調性を両立することで、実現者を仲間や組織化へと拡大していく選択も広がるのだろう。

∥(終

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