自分にふたをすること

 ふと、こんなニュースを見かけた。

ケイト・スペードは存じていたけど、アンソニー・ボーデインという方は名前すら知らなかった。
しかしこの記事を読んで、「ああなんで知らなかったんだろう」と後悔した。
そのくらい、素敵な方だったことを知った。詳しくは記事を読むことをおすすめするが、世界で最も影響のあるシェフという肩書ですら足りないくらいの人物、というのも記事を読んでいるだけで伝わってきた。彼にあったことすらない人が「彼のおかげでニューヨークに住んでいる」とさえ思うほどに敬愛し、影響を与えていた人だ。一介のシェフのために彼の働いたレストランがメッセージと花でうめつくされるようなことが、日本で起きるだろうか。一介のシェフの死によりアメリカ全土のニュースがうめつくされるようなことが、日本で起きるだろうか。
失礼かもしれませんが、僕は起きないと思う。

 そんな完璧で、何もかも手に入れたと思える人物が亡くなった。自殺で。このニュースを見るだけですごい人物だとわかるのに、自殺。
もちろんこのニュースの論調であるから余計に思うのかもしれないが、そんな人でも…というインパクトである。誰にも言えない苦しみを抱えて、抱えきれなくて自分を死に追いやってしまったのだ。

 この記事を読んでいて、結局自分を追い詰めるのは自分なのかもしれないと思った。唐突に自分語りをするが、僕は自分に自信を持っていない。だからミスをしたときに少しの信頼もなくしたと思った。また僕の周りの人々はそんな自分を憐れんでいるから「頑張れ」と声をかけてくれていると思っていた。

 そんな折、自分で言うのはなんだが「能力はあるのに自分にフタをしてるよね」と上司に言われた。そしてそんな上司がウラで他の上司方の前でとてもほめてくださっていることを知った。

あれ。どうやら、憐れまれていると思っていたのは僕だけらしい。別に憐れんでいるわけではなく、期待しているからこそ声をかけてくれているらしいことに気が付いた。

自分で自分に過小評価をするってとても無駄なことなのではないのだろうか。自分を信じてくれる人の期待も知らずのうちに無駄にしてしまっているのではないだろうか。
そんなことを思ったのだ。
じゃあ過大評価は…てそれはそれで害をなすから、自分に適正な評価をくだすなんてことは難しい。
けどそうしたときに自分の見る景色が変わるのは確かだ。そして事実、そう気づけたことで、僕はこれからが少し楽しみになった。

アンソニー・ボーデインと僕は全く逆のことをしている。彼はきっと過大評価の世界のなかで苦しみ、自分に蓋をせざるをえなくなってしまった。そしてそのエネルギーは死を導いた。
逆に僕は今までしていた自分の蓋を外し、過小評価の世界から抜けだした。そして幸せへの期待をもった。

そもそもの期待される総量が違うから、有名人とそこらへんの一般人だから、きっと何もかもが違う。
でも、死を選んだ彼に対し僕が感傷的になったのは、きっとこれが理由だった。

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