相手に合わせすぎると自分が迷子になる話。

うっひゃー久々の心のデトックス。大きい仕事がやりたくなくって、久々に文章を書いて発散したくなりました。思うことを整理しながらパチパチー!ってキーボードにたたきつける作業はとっても心が洗われますね…。


さて、今日はこんなことを書こうと思いました。相手の言動に対する自分の反応について。

会話をしているとき、例えば、「はぁーつら。」とか言われたらあなたはどうしますか?

どうしたの?とか何が?ってきいたり、ふーん、て答えたりすると思うんです。

もし僕でしたら、どうしたの?と聞きながらめいっぱい考えるんです。今の仕事が辛いのか、家庭のことなのか、恋愛のことなのか、はたまた推しのガチャを引いてみたけど出なかったのか、それとも(〇〇が好きすぎて)辛い状態の吐露なのかなどなど…。

そして何で「つら」といったのか。それは相談?愚痴?独り言?ただ聞いてほしい?不満?


この人が欲しい反応は何なのか、それが何の「辛い」なのか考えて、その人の求める正解らしい反応をしてみるんです。

正解だったら、よかったーと安堵して、その人のことを分かった気になる。そして、そのパターンをもっと続けて、その人の欲しい反応を取り続ける。そうすると、相手は欲しい反応をくれて安心するし、自分は相手のこと分かった気になれて、安心する。


でも、それは違かったんだなーーーーーって最近思いました。

もちろん相手のことを考えて反応するのは間違ってないと思うんですが、その正解と思った反応をすることが自分を殺していたのでは?と気づいたんですよね。

なんといいますか、その正解と思われる行動をとるかどうかは、選べる。

いつしか、「こうしたら喜ばれるんじゃないか、という思いに引っ張られて、自分の思いとは違う行動をしてしまう。」という様式が正解のコミュニケーションだ様式と思って生きてきた僕は、自分だったらこうしたのに、や自分はそう思わないなあ、と表現する機会を自分でなくし、主体性をなくしてきたんですよね。

主体性を殺し、自分は何やりたいの?て問いに答えられない人間を育んできたんだと気づいたんですよ。


したいならすればいい、でもしたくないならしなくていい。

社会人になって、自分の決断に影響力を持ってからそのことに気づきました。その決断力では、上に立ったときにどうすればいいか何もわからないし、周囲に八方美人とか自分がない人、と言われてしまう。

そのことに気づいて、自分で考えたことを発言するようにしてみました。何なら、唐突に「今日ラーメン食べたい。」みたいなびっくりするくらい簡単なことから。

そしたら意外なことに、正しいと思われる行動ばかりとっていた昔よりも今の僕は信頼を寄せていただけるようになったし、自分のことを初めて存在してもいいんだ、という感覚を持つことができました。

ああ、いいんだなそんなで。って。

特に今、そうした発言をしていこう、いいんだよ、て会社にいるのでとても刺激を受けながら、そんな自分になれたのですが、それは心理学を勉強していた大学生のころは気づきませんでした。もちろん、いきなり「今日ラーメン食べたい。」て自己主張することは今までの自分とは違うので最初は気持ち悪いんですが、すぐ平気になると思います。

案外、周囲はいいじゃーん、て受け入れたり面白がってくれるから!

まだ、僕も誰にでも対してできるようになったことではないけど、最近ちょっとずつ、進歩してきたなあというお話でした。

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