上司とPATAの終活記録【#エッセイ部門#創作大賞2024】
「仕事を辞めて八戸へ来てくれないか?」
頭の中が真っ白になった。
今まで生きてきた37年間の中でこんなにもこの場面を現すのにピッタリな言葉は青天の霹靂以外に思い浮かばない。
青森なだけに(同名の有名なお米のブランド)、などと悠長に言っている場合では決してない。
何故こんな話になってしまったのか?
少し遡ること1ヶ月前。
僕は1年弱のプー太郎生活に終止符を打ち重い腰を上げて就職をした。
慣れないながらもなんとか1ヶ月働き、「新しい職場は順調ですか?」と気にかけてくれている上司に電話をする。
そんな上司のことについても説明しておかなければならない。
上司は数年前に奥さんを亡くし、東京での仕事に区切りを付けて一人娘さんが残る八戸へと引き上げていた。
娘さんには知的障害があり、保護者無くして生活することがままならないような状況だったことも東京を引き上げた大きな要因の一つになっていた。
とは言え、二十数年離れて暮らしていた娘さんとの他愛も無いささやかな日常を謳歌していた。
そんな矢先に、突然上司の声が掠れて出なくなってしまう。
コロナ禍だったこともあり、コロナや風邪など様々な検査をするもなかなかこれと言った診断はなされず、状況は依然として好転する様子を見せることはなかった。
そして声が掠れてから約1ヶ月が経った頃に病院で出された診断が『扁平上皮癌の疑い』といったもの。
この時点で詳しい診断は出ていなかったものの、あまり楽観視出来る状態では無いといった診断結果が出されてしまった。
そして、冒頭の話へと繋がっていくことになる。
何も知らない僕は上司へと電話し、新しい職場での仕事についてあーでもないこーでもないと文句タラタラに話す。
ひとしきり近況を含め話し終え、掠れた声について「ところで喉の具合はどうなんですか?」と聞く。
すると上司は乾いた笑い声を出して「よくなさそうだな」と呟いた。
診断が出るまでに病院をことごとくたらい回しにされた一連の話、自分に万が一があった場合についての話、娘さんの将来についての話を聞かされた。
娘さんの将来の話になると途端言葉を詰まらせることが多くなり、
「半年から一年で俺の状況は分かるだろうから、仕事を辞めて八戸へ来てくれないか?」
と、冒頭のセリフを上司は泣きながら掠れた余りにもか細い声で僕に言ってきた。
「考えてくれないか?」とか「検討してみて欲しい」と言った柔らかいお願いではなく、その場で答えが欲しい類いのニュアンスをビンビンに感じる。
当時上司は67歳。
67歳の大の大人の男が子供ほど年の離れた部下に泣きながらお願いしてくる状況に身を置いたことのある人はそうそういないとは思うが、卑怯とは言わないにしても内容も内容なだけに、まぁ断れるわけが無い。
なんの自慢にもならないが、片親の僕は唯一の親である母とどうしようも無く折りが合わず、亡くなった時に何もしなかったし、それどころか何も感じなかった。
カルマと言うものがあるのか無いのかわからないけれど、親の面倒を見なかったツケがこんな形で出るのかと妙に納得してしまう自分もいたり。
実際に上司に万が一があった際に、「あの時、断らずに手伝っておけば良かったかな?」などと言ったウジウジと悩むであろう自分が不覚にも想像出来てしまう。
時間にして1分もかかっていない間に腹を決めた僕は「わかりました」と上司に伝え、翌日会社へ退職する旨を伝えた。
晴れて(?)会社を辞めた僕は八戸へと向かい、ここから先、上司の家で上司と娘さんと暮らすことになってしまった。
2022年の11月に上司宅へと移り住み、そこから2ヶ月は驚く程の穏やかな日々が続いた。
上司は声こそ掠れてはいるものの元気でお喋りでアクティブ極まりないいつもの状態。
僕はと言えば、そんな状況に猛烈な焦燥感にさいなまれイライラした日々を過ごしていた。
そんなある日、上機嫌な上司を捕まえてこう切り出す。
「僕は仕事を辞めて八戸に何をしに来たんですか?やれる事をやっていきませんか?」
僕は上司の終活をサポートするために来ているのであって、寝て食べて楽しく過ごすためにここへ来たわけでは無いのだ。
そして、僕の想定を遥かに上回る自由の無さとプライバシーの無さに、好き勝手一人で生きて来た僕は心底ぐったりとしていた。
上司も娘さんも人が好きなタチで、とにかく一日中喋る、僕がトイレや風呂に居ても僕を探し話しかけてくる、朝は寝ててもおかまない無しに部屋へ入り話しかけて起こす、食事も決まった時間、運動部が食べるような食事量などなど…
「あぁ…コレがずっと続くのか…」と本当に参っていた。
実際にこの当時僕の身体中には所狭しと蕁麻疹が出来ており、強烈なストレスにやられていた。
今でこそ少なからず上司の気持ちがわかるのだが、この頃の上司は自分の病気のことも半信半疑の状態で、現実逃避をしていたのかもしれない。
事実、声の掠れ以外の不調は無く元気そのものだったわけで。
そして、クリスマスが過ぎいよいよ年末が近付いてきた頃に突如事態が動きを見せる。
「こんなふざけた数字が出る!」
朝一番で上司は僕に体温計のデジタル表示に写し出される【38.6℃】という数字を見せてきた。
病気の影響のせいか上司の平熱は常に37℃台で推移していたはずが、ここへ来てそれを大幅に超える高熱が出ている。
上司は体温計が壊れていると激高しているが、どう見ても体調が悪そうなのは明白。
そこから数日間は高熱が続き見る見る弱っていく上司。
頭には一瞬「まさかこのまま…」とよぎるものの、幸いにも大晦日の頃には上司は回復しなんとか日常を取り戻し事なきを得た。
・・・ように見えたのも束の間、新年が過ぎた1月2日に今度は娘さんが39℃を超す高熱。
ここでようやく「もしやコロナ…?」と気付くことになる。
上司の病気による微熱が大前提としてあったため、コロナという発想が全くもって無かったのだ。
上司は声の掠れが発症した頃から、喉に違和感があり食事をする際に気管のほうへ食べ物をよく詰まらせることがあり、頻繁に咳き込んでいた。
それらも加わって完全に見落としていた。
抗原検査の結果、上司も娘さんも案の定『コロナ陽性』。
とりあえずの原因がわかり、良くはないけど良かったってことにここは一旦しておこう。
ちなみに僕自身はなぜか『陰性』。
体調が悪いと言えばそんなような気もするし、普通と思えばそんなような気もする。
当然熱も咳もない。
『馬鹿は風邪を引かない』を見事体現した形となった。
そして一連のコロナ騒動も無事に終わり、上司の細胞の病理検査の結果を聞きに行く日を迎える。
お医者さんの診断結果はあまりにも無常極まりないものであった。
病名は【甲状腺未分化癌】。
一般的には療護が比較的に良いとされている甲状腺癌の中でも、1~2%の確率でこの未分化癌が発症するようで、現在の医学では手術、抗癌剤、放射線治療、ありとあらゆる治療をやったにせよそれをも上回る強烈な進行性により、半年から一年程で亡くなる人が多いと言われている。
実のところ上司は12月初旬に手術を行っていたのだが、この時点で浸潤がかなり進んでおり、ほとんど癌細胞を取り除くことが出来ない状態だった。
病院側の方針としては、経口薬として抗癌剤を処方するが進行を遅らせるためだけのもので、治療する側面は期待出来ないといったもの。
上司は9月に声の掠れが発症し診断結果が出た1月中旬時点で、既に5ヶ月という月日が流れていた。
助かることのない病気を宣告され、近い将来間違いなく訪れるであろういつともわからない余命を宣告され、上司も僕も焦っていた。
半信半疑ではあるものの、急ピッチで娘さんの将来について考えていく必要がある。
知的障害を含め何らかの障害を抱える人が働くことの出来る就労支援制度と言うものがあり、まずは娘さんをその施設に通わせるところから段取りを始めていくことになった。
そこでは簡単な軽作業を月曜日から金曜日まで行い、工賃と言う名目で月に数千円から一万円弱のお金を稼ぐことが出来る。
企業と雇用契約を結ぶものを『就労継続支援A型』、雇用契約を結ばないものを『就労継続支援B型』と呼び、娘さんは後者にあたる。
ちなみに娘さんは、読み書きや簡単な計算も出来るし、買い物、掃除、洗濯程度のことは自分で行える。
道徳、社会性、我慢、倫理、衛生、管理みたいな大人になっていく過程で備わっていくべき部分が分かり易くごっそり抜けているような感じ。
次は住まいに付いて考えることに。
現在住んでいる家は、上司と奥さんが将来的に娘さんが困らず暮らしていけるようにグループホームに出来たら良いなという思いで建てた家で、二世帯住宅のような作りになっており、玄関、お風呂、キッチン、リビングと全てが二つずつある。
片方に自分達、もう片方をグループホームにし娘さんを含め面倒を見て貰うという構想だった。
しかし無情にも奥さんは亡くなり、上司自身も病に侵されてしまった今どうするのがベストなのか?
僕が提案したのは、家を売却し体一つでグループホームへ入居するということ。
上司曰く八戸にはそもそもグループホームの数が少なく部屋の空きも無いような状況らしく、全く乗ってくる気配はない。
いっその事八戸に拘らずに、僕やかつての上司の部下も多くいてサポートもしやすい東京で探しても良いのでは?と提案するもこれも却下。
そして、上司が決めたこととは想定のはるか上を行く壮大な規模のものだった。
なんと、自宅の敷地内に娘さんの家を新たに建て、元の家は既存のグループホームにグループホームとして借り上げて貰い、一緒に娘さんの面倒を見て貰うという作戦。
「ちょっと何言ってるのかわからない」と頭の中でサンドウィッチマンの富澤さんが囁いているのがわかる。
限られた時間の中で果たして出来るのか?
また、これを引き受けてくれる社会福祉法人なんてあるんだろうか?
結果から言うと、あまりにも呆気無さすぎるほどにあった。
就労継続支援を行う社会福祉法人の理事長がびっくるするぐらいあっさりと引き受けてくれることに。
障害を抱える家族を持つ人々のコミュニティに亡くなった奥さんも所属していた経緯もあり、そこの理事長とは以前から交流があったのだ。
先方からの条件は『グループホームとして許可の取れる一切の工事を行った設備の整った家にする』ということのみ。
グループホームとしての使用の許可申請にあたり、消防法の観点から非常灯やスプリンクラーの設置など細かな条件があり、端的に言うと持ち出しのお金がかからないようにしてくれればOKと言うことらしい。
取り急ぎの方向性はこれで決まった。
2023年1月の中旬以降に早速諸々の手続きを行い、娘さんは月曜日から金曜日の週5日間通所することが決まった。
ほどなくして、上司の体調が嘘のように急激に悪くなり緊急入院をすることになる。
直前の上司の様子は、呼吸をする際に『ヒューヒュー』といった喘鳴があり、物を食べることはおろか水を飲むこともままならないような状態で、このまま本当に死んでしまうかもしれないと思えるほどだった。
病院で調べた結果、喉から胸、脇にかけてのリンパ付近にあった腫瘍が12月初旬の手術の頃とは比べ物にならない大きさになっていたようで、改めてその進行の速さに驚く。
この【未分化癌】の進行性は週毎どころか日毎に変わるレベルだと聞かされた。
幸いにも入院後の容体は落ち着きを取り戻し、抗癌剤を投与していくことになる。
薬には合う合わないといった相性のようなものがあり、この抗癌剤が上司に効くのか効かないのかは出たとこ勝負といった具合。
事前の説明で聞かされていた副作用も懸念ポイントの一つであり、あまりにもキツイ場合は治療する術が絶たれることを意味している。
これまた幸いなことに抗癌剤治療が始まり数日経過するも、拍子抜けしてしまうほどこれといった副作用も出ずに順調に抗癌剤が仕事をしているらしかった。
一方僕はと言えば、ヒューヒューと喘鳴により呼吸を粗くしていた入院直前の上司に命じられた、娘さんの自宅の建設を進めていく準備に取り掛かる。
現在住む家を建てる際に上司と仲良くなっていた不動産屋さんに連絡をとり、一刻も早く建設に着手して欲しい旨を伝えスケジュールを組んでもらうことに。
現在日本全国で大工さんの数が減少しており、どこも取り合いの状況らしく2023年9月の完成予定だと言われてしまう。
これでは上司の具合によっては間に合わなくなってしまうかもしれない。
当然、当の上司自身も全然納得していない。
諸々の事情を再度お伝えしたところ、有難いことに今の上司が置かれている状況含め非常に話の分かる不動産屋さんで、どんな手を使ったのかはわからないものの2月着工の5月初旬引き渡しという、アグレッシブ過ぎる工程を決めてくれた。
そしておよそ20日間程の入院を経て上司は無事に退院してきた。
退院することは上司にとっても娘さんにとっても非常に喜ばしいことであり、今後の終活に付随する様々なことに対しても上司自身の意向を汲めたりと何かと有り難い。
しかし、これが大変なことだと気付くのにさほど時間はかからなかった。
上司の【未分化癌】は完治することがない。
自宅で毎日自分で処方された抗癌剤や解熱剤を飲み、身の回りのことや車の運転など全てのことを僕の手を借りることなく行うことが出来る。
でも、抗癌剤が順調に効いているとはいえ着実に病魔は体を蝕み続け、少しずつではあるものの体は弱っていく。
顕著に現れた症状は食事が喉を通らなくなり始めていた。
僕や娘さんと同様の食事を上司も一緒に食べていたのだが、3月を過ぎた辺りから徐々に食べることが難しくなりだしていた。
元々せっかちで早食いだった上司も、よく噛んでゆっくりと食事をしていたのだが、それでも喉を食べ物が上手く通っていかない場面が増え、口に入れたものを咽た拍子に全て吐き出してしまう。
癌細胞が悪さをしているせいか一生懸命食べていても体重が落ちていくのもあって、上司自身も非常にナーバスになっている。
娘さんにはその辺の空気感はわからずに、食事中に咽て咳き込み苦しそうにする上司に執拗に話しかけてしまう。
そして、上司がほとんど出ていない掠れた声で「お父さん今話せないでしょ!」と怒鳴る。
しかもこれが毎日のように繰り返される。
これは僕自身相当にキツイ場面でもあった。
毎日ある『食事』という本来嬉しいはずのシーンがとにかく苦痛でいたたまれない。
食べることが難しい上司を前にバクバク食べるのも申し訳ないし、かといって和気藹々といった談笑をする雰囲気でもない。
ただひたすら黙々と食べて時間が過ぎるのを待つのみ。
僕のようなふざけた人間は元来毎日ヘラヘラして過ごしたいのだが、まるっきり笑える場面がない。
人が一人『死』というものに向かっていくということは、周りを含めて並大抵ではないんだなと痛感していた。
G.Wも終わり当初の予定通りに娘さんの家は無事に完成した。
新居の家財道具を上司と一緒に買い揃え、敷地内ではあるものの娘さんの引っ越しを準備する段になった。
他にもグループホーム化へ向けた自宅の改装工事の予定もある。
さぁパキパキとやっていきますか!と上司に発破をかけると、上司はみるみるうちに目に涙を浮かべこう言った。
「親馬鹿で悪いけど寂しいから引っ越しは俺が行ってからにして欲しい」
そうか…
あまりにもガサツで配慮が足りない自分を恥じた。
子供を持つ親の気持ちがまるでわかっていなかった。
上司には限られた時間しか無いので、当たり前に訪れる細やかな日常を少しでも長く過ごしたいに決まっている。
自宅の改装工事も上司の体調を考えれば負担が大きいかもしれない。
現状これで今出来る最大限の状態には持ってこられたということになる。
そんな折に上司の体調が次のフェーズへと移行した。
6月に入り、上司は水はおろか自分の唾液を飲み込むことさえままならなくなり始めていた。
他にも喉以外の腰や頭といった部分の痛みを訴えることも多くなり、僕も上司もお互いに声に出して言うことはないが全身に転移していると思われる症状も出ている。
上司と相談した結果、入院するのがベストではないかと決まり病院へと向かう。
しかし待っていたのは違った結果であった。
入院することは叶わず、鼻から胃へチューブの管を通し、シリンジを使い処方された高カロリーの缶ジュースのようなものを直接胃へと流し込み栄養を補給して下さいといった処置がなされた。
抗癌剤をはじめとした薬もぬるま湯で溶かし、シリンジを使い同様に行う。
弱って食事を取れなくなっていたものの、依然として身の回りの全てのことを上司は介護されることなく出来てしまう。
上司は肩凝りや腰痛、頭痛、倦怠感といったものがまるでわからないといった生来の体の強さがあり、それが仇となってしまったのかもしれない。
この頃にはあまりの痛さからポロポロ涙を流す場面もあった。
痛みを抑えるモルヒネのような成分が含まれた湿布薬を処方され、最初は1枚から始まり、2枚3枚と増え晩年には4枚の湿布薬を使用するまでに。
見ているだけでも本当に気の毒であり、何かをしてあげられるわけでもなく酷く辛い日々が続いた。
夢の中でさえ、苦しみ倒れる上司を見て飛び起きることが何度もあった。
そして上記とは相反する別の側面にも頭を悩ませていた。
現実はドラマや映画のようには行かないものだなと改めて感じている。
上司に変わって僕が病気になれるものでもないので勝手な言い分ではあることは重々承知したうえで書いている。
人は死に直面した際に、「どうして自分が?なんでこんな目に!」と悲観するも徐々に心の整理や残された時間の過ごし方を考え、愛する家族を大切にし、周りの人間に感謝し、最後は穏やかに旅立つものだろうとお花畑丸出しで僕が幻想を描き過ぎていたのかもしれない。
上司は最初の病院をたらいまわしにされたことや病名が出るまでに時間がかかりすぎたことを来る日も来る日も恨んでいた。
お医者さんの診断結果を信じようとはせず、挙句の果てには体重計や体温計が指し示す数字にさえ疑いを持ち、猜疑心にさいなまれていた。
僕のようなかつての上司の部下達が風の噂を聞きつけ心配をし連絡を寄越すのも無下にし、あまつさえ親戚が来ようとしてくれることさえも面倒臭がり煩わしそうにしていた。
みんな上司に過去救われたり世話になったことがあるが故に本当に心配してくれていたし、会いたかっただけなのに。
この件では上司と何度も喧嘩したし諭したけど、残念ながら最後まで理解して貰えることはなかった。
感謝しろなどと生意気を言うつもりはさらさらなく、怒りに支配されるのではなくただただ心穏やかに過ごして欲しいと思っていた。
毎年毎年のお決まりとなってしまったが、日本全国で観測史上最大と言われるレベルの猛暑が続き、ご多分に漏れることなく八戸も連日うだるような暑さが続いていた。
7月に入った辺りから加速度的に暑さが増していき、リビングと僕のあてがわれた部屋にはエアコンが設置されていなかったため、日中には室温が35℃を超し一日を通して室温が30℃を下回ることがなくなり、さすがの僕も体調を崩しダウンしてしまった。
幸いにも上司と娘さんの寝室にはエアコンがあったので二人は何事も無く済んだのは良かった。
38歳になって精神的にも肉体的にもこんなにハードモードな経験をすることになるとは思ってもいなかった…
頭痛と微熱が治まらず体に力が入らなくなってしまった僕は、娘さんのために建てた家に一時避難し回復を図ることに。
8月を迎え一向に暑さが和らぐ気配を見せることはなく、テレビの中ではその灼熱の中で真っ黒に日焼けした高校球児たちが光った汗を流しながら歓喜し、別のものは涙していた。
8月15日の朝、上司が娘さん宅にいる僕に電話をかけてきた。
話したいことがあるからこっちに来てくれと言う。
全盛期には80kgを超す体重があり、身長が低かったせいもありお腹がポコンと突き出し信楽焼の狸のような体型だった上司の面影はそこには無かった。
食事を取れなくなったこの2ヶ月余りの間に更に体重は落ち続け、恐らく40kg前後になっている。
「すぐにどうのこうのではないと思うけど、ちょっと厳しいかもしれない。病院に行って入院をお願いしてみる」
上司は僕にそう伝えた。
すぐに病院に連絡しその旨を伝えると入院出来る準備をしてすぐに来てくださいと言ってくれた。
ここまで弱ってからじゃないと病院は受け入れてくれないのかと心底嫌になった。
キャリーケースに身支度を整えるのにも時間がかかってしまい上司の息はすぐに上がってしまう。
僕はと言うと情けないが馬鹿なふりをして、充電器やポケットWi-Fiや小説を一応持って行きましょうなどと明るく振舞うことしか出来ない。
どう見てもそんな状況じゃないことぐらいは理解していた。
タクシーで行くと言って聞かない上司に乗り際に、必要ないと言われた自宅の鍵を無理やり渡した。
離れた先で光るブレーキランプが何重にも滲んで見えた。
そこからの数日はお互いにLINEでのやり取りを行っていた。
どちらかと言うと僕が一方的に送り、既読が付きそのうちの何回かに一回は返信が来るといった感じ。
上司が入院した週末の土曜日に近くで花火大会があり、自宅のベランダからは打ち上る花火が綺麗に見えていた。
それを動画に撮った僕は上司に「花火綺麗ですよ」とLINEした。
翌日、翌々日になってもそのLINEには一向に既読の文字が付かない。
上司の入院から10日目の8月24日の夕方に病院から電話がかかってきた。
携帯のディスプレイに表示された病院の名前を見て鼓動が早くなるのが自分でもわかる。
内容は危篤を知らせるものであり急いで娘さんと病院へ向かう。
病室に入るとベッドには目を見開き苦しそうに悶える上司の姿があった。
上司は話せる状態では無いものの辛うじて意識はある。
入院直後から声が全く出なくなっていた上司のために、筆談用のスケッチブックがあったので娘さんに手渡し「お父さんにメッセージを書いてください」と伝えた。
娘さんがスラスラと書いている内容を覗き込むと『お葬式はいつやりますか?』と書かれていた。
慌てた僕はそれを見せてしまう前に『みんなと協力して頑張るので応援してください!』と書き直しをさせて上司に見せた。
僕は『今までに決めたことは心配いりません。全て上手くやり遂げます』と書いた。
上司はうんうんと二回頷いてくれた。
上司の冷たくなっている手を握り病院をあとにした。
大好きな娘さんに会えてホッとしたのか病院を出たわずか30分後に上司は息を引き取った。
助手席に座る娘さんに「お父さんが今さっき亡くなったよ」と伝えると、
「お父さんは68年の生涯でしたー!」
と、高らかに発し拍手をしている。
生前の上司とのやり取りが頭に浮かんでくる。
「俺が死んでも○○(娘さんの名前)は泣いたり取り乱したりしないと思う。ウチのやつ(奥さん)の時もそうだったから。まぁちょっとは悲しんで欲しいけどな」
とにかく僕はたまんねーよ!と涙が止まらなくなってしまった。
助手席の娘さんはそんな僕に向かって「PATAくん泣かないでー」と明るく声をかけてくる。
更に続けて「さっきのお見舞いの時のお父さんの手冷たかったですね!」と興奮気味に話していた。
来月の8月24日が来ると上司の一周忌の命日が来る。
あれからもうじき一年が経とうとしている。
お葬式、納骨、相続、病院、年金、保険など様々な事務手続きを行い、一生分どころじゃない三生分ぐらいの「あなたは誰ですか?」をいろんな場面で言われた。
当初想定していた以上に、グループホーム化へ向けた工事や申請にも時間がかかってしまい、2024年7月現在も未だに僕は八戸にいる。
あの日、上司に泣かれて聞かされた半年から一年どころではない。
油断していると二年の文字が徐々にチラついてさえいるじゃないか。
冗談じゃない。
本当にあなたは身勝手で自己中でわがままで寂しがりやで、そのくせ出しゃばりでお節介で人たらしで、どこか憎めなくて友達のようでいて。
あまりにも日常に溶け込み過ぎていたせいか、清々したのも半分、一緒になって仁義なき戦いの金子信雄の真似をしていた頃に戻りたいの半分。
こうやって書いていると本当にいないんだなと改めて今感じている。
恐らく、もう少しで上司に託された宿題が終わる。
最後に一つ。
娘さんはあなたより強烈なわがままガールで毎日が戦いです。
間違いなくお父さん似だね。
あとひと踏ん張り頑張るから天国で怒らずに応援してよね。
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