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葵咲本紀感想② たづの舞

1部で鶴丸が審神者に舞を披露する時に「つる」ではなく「たづ」と言っていたことに、少しおっ?!と思ったのでメモをします。

「たづ」と呼ばれる鳥は、「日本民族共通の信仰の楽土常世の国に住む鳥で、人間の魂を保管して、搬び来り携え去る白鳥」のことを指した(*1)とされていまして。
霊魂の器であるその白い鳥を見ることは、その人の生命を新たに力強く生まれかえさせる。
古来の人々にとって「たづ」は生命の初まりと復活をあらわす鳥だったんですよね。

さらに言うと、「たづ」と呼ばれる鳥は、「逸れ行くたましいを突き止め、もたらし帰るもの。たましいの鳥(*2)」であると考えられている。
鎮魂の鳥なんです、たづ。
(そういえば昨年末には何やら鎮魂のお祭りをハレハレしていましたね、刀ミュの刀剣男士たち)。
この魂の鳥を求める「こふ(乞う・請う)」が「恋う」に分化していくのだとか。

それを踏まえて葵咲本紀を見たとき、1部の鶴丸のたづの舞には、多分「たづ帰る季節」と「明かし時を待つ」みたいな歌詞があるんですよね!!!

で、明かし時を待ってる「たづ」に対して、月は「夜道を照らすもの」すなわち「黄泉路を照らすもの」なわけで。
三日月宗近は、歴史の大きな流れのなかでいともたやすくその存在を掻き消されてしまう全ての人々を愛している。悲しい、どうしようもない役割を背負う彼らに心を寄せ、友と呼び、出来る限り救おうとする。 

避けられない死が待ち受ける人間たちの行くよみちが、せめて少しでも暗くならないように、夜明け前の、三日月ほどのささやかな光でも、照らしていきたいと思っているのかな……と。

その上で、さらにダメ押しのように鶴丸は2部ソロで「儚い月の光が届くからそれさえも背負って」って歌うんですよね……。
今回の葵咲本紀でそうであったように、ミュ本丸の鶴丸国永は三日月宗近の残した手掛かりを汲み取って、面白がって、手助けをしている。

三日月が導きたい人々の魂と、その行く先を照らす月の光をもその大きな羽のある背に乗せて、「それじゃあいっちょ行ってみようか」と笑う、そんな刀なのかなと思いました。ミュの鶴丸国永は。
「逸れ行くたましい」は、本来の歴史とは少し違う道を歩んでいる信康さまや泰衡のことかもしれないし、現状孤軍奮闘している三日月宗近のことなのかもしれない。

けれど「たづ」は、そのたましいの在り処を突き止めて帰してくれる鳥なので、あのミュ本丸に鶴丸国永が存在する意味はものすごくあるし、心強いなと思う。
しかも、それを「で、あいつは大人しくしてるのか?」って尋ねて沈黙した主に、「なるほどな」って笑ったあとに舞で表現してくるんですよ、あの鶴丸国永。末恐ろしい。

だって、小狐丸に都度舞わせ、源氏兄弟にあの双騎をさせるミュ審神者が、鶴丸の「たづの舞」から何も感じ取らないわけがないじゃないですか~~~~!!高度なコミュニケーションすぎる!!! 

そして鶴丸の「たづの舞」の後のミュ審神者に鶴丸が告げる「いつか見たような顔」、「君がその顔をする時は、俺にめんどくさいことを頼もうとしている時だ」の「いつか」が、2部で鶴丸が歌う「あの日の契りとどこまでも」の「あの日」なのかなあと思いました。

あの2部の鶴丸ソロの歌詞、個人的には
「契り交わした友(=三日月宗近)」で、「失った友(=三日月宗近の言うところの友/歴史上の人々)」。
あの頃に語った夢の先、遥かな場所へ連れていく「君(=三日月宗近)」かなと思ったのだけれど、どうなのだろう??

なんにせよ、早くミュ本丸の鶴丸国永と三日月宗近の競演が見たいですね。
ストーリー的にも役者さん的にも今後が楽しみすぎる鶴丸国永でした。


引用
*1 「鶴が音—鶴亀の芸能—」p.277
*2 「鷹狩りと操り芝居と」p.441

参考文献
・「鶴が音—鶴亀の芸能—」『折口信夫全集17巻』中央公論社,1973,pp.272-277.
・「鷹狩りと操り芝居と」前掲書,pp.438-443.

(観劇日:2019.10.22)
https://fusetter.com/tw/978J2
https://fusetter.com/tw/G4zx0

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